サンホラ考察メモ


■Elysion
〜楽園幻想物語組曲〜
 ├ はじめに
 ├ ループ考察
 ├ 箱舟
 ├ 3-1+1-2
 ├ 盲目のうちに
 └ 肩に座る少女


■Chronicle 2nd
 ├ はじめに
 ├ クロニカとノア
 ├ ルキウスとイリア
 ├ ルキア
 └ 書の魔獣

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クロニカとは「書の意志の総体」であり「黒の予言書の原典」だと自称しています。黒の予言書を書いたのはノアであるという公式見解が出ていますので、クロニカの予言をノアが記したものが黒の予言書であるのでしょう。では書の意志とはなんでしょうか。本という無機物に意志は無いはずですが、劇中でクロニカやノアの口から繰り返される「書の心理」がそれにあたると考えています。その総体、即ちすべてであるクロニカは彼女自身こそが「書の心理」であると言えるのです。

黒の予言書は全二十四巻ですが、「雷神の系譜」に登場する邪神が書の魔獣であり、予言書の使徒は黒の教団で、この物語が書かれた時点ではここで書の魔獣が復活して世界が終わる筈だったのではないか(運命が改竄されたのではないか)、つまりは予言書はどんどん書き足されている(今後も書き足されていく可能性が高い)のではないかという説がありまして、私もそれを支持しています。ここで気付くのは、邪神を予言書の使徒が復活させたということは書の魔獣は「期が満ちたら勝手に復活するわけでは無い」のではないかということです(勿論魔獣自体にも封印されてから復活出来るまでに時間が必要だとは思いますが)。運命で定められた日に復活するのではなく、予言書に書いてある終焉の日に黒の教団が復活させる。これは運命と呼べるのでしょうか。破滅の運命から逃れたアルヴァレスを殺害したなどというのは最終的にこの世界が終わることを考えれば些細なことです。しかし書の魔獣の復活が人為的であるという事実は黒の教団、ひいてはクロニカの存在意義までをも揺るがすことになります。復活させなければ世界は終わらないならば黒の教団なんていない方がいいのですから。しかし黒の予言書の内容全てが黒の教団の自作自演かと言えばそれは違います。歴史に起こること全てに干渉出来る筈がないからです。クロニカは確かに未来を読む力を持っているのでしょう。ただし世界の終わりは自作自演の可能性がある、といったところでしょうか。

「少女人形」の少女をクロニカとして話を進めていきますが、「Chronicle」では少女人形も904Pとして予言書に存在しています。クロニカが箱舟に乗ってハジマリへ戻ってしまったから、この「少女人形」という物語が成立しなくなり、「Chronicle 2nd」では収録されていなかった、という解釈はいかがでしょう。「少女人形」の「今のママは 何人目だったろう」「時の止まった屋敷」といった歌詞から少女は永遠の命を持っているのではないかと考えることができます。「いくら歩いても この道の先は闇だ…」とあるので、何度も何度も消滅して誕生する世界の中でこの「少女人形」という物語を繰り返していた、という解釈も可能です。彼女はいつも世界が終わる日を待っていた。不老不死ということは世界が終わるまで死ねないことを意味します。そして彼女の心の叫びは

鳴呼ノア 嘘吐きクロニクル
早く何もかも終わらせて・・・

ここで注目したいのが「嘘吐きクロニクル」の部分です。クロニクルとはBlack Chronicleのことだと考えていいでしょう。少女がクロニカだとすると、自分で「クロニクルは嘘吐きだ」と言っているのです。クロニカは何度も歴史を繰り返しているうちに「商売道具」を演じている彼女の能力に目をつけた魔術師ノアと出会い、彼も(永遠を手に入れたというくらいですから)永遠の命を持っていると知った。未来を読める少女と、終焉の洪水から身を守る術を持っていた魔術師。彼等は手を組み、クロニカは全ての未来と過去(繰り返している世界に於いて、未来を読む力とは過去を読む力と同義です)をノアに教え、代わりにノアはクロニカを箱舟に乗せることで「少女人形」の物語から助け出す約束をしたのではないでしょうか。そして黒の予言書(初版)は完成した。勿論クロニカ自身の「少女人形」の物語も書かれています。一秒でも早く抜け出したいクロニカは邪神の復活を急いだ=嘘を吐いたのではないでしょうか。

Chronicle 2ndでルキアが辿った歴史の共通項は「運命に逆らった(希望を失わなかった)人間の歴史ではないか」という説があります。「<ハジマリ>のChronicle」で「絶対諦めたりしない」という約束もありますから、運命に従わないということはこの物語の上で重要なファクターと言えるでしょう。そうなると、それに対する存在であるクロニカとノアは「諦めた者」と見ることも出来ます。運命に逆らう者達が「ハジマリ」を求めるなら、永遠を持つ者達が望むものはなんでしょうか。

さて、ここまでクロニカについて述べてきましたが、ノアにも触れたいと思います。クロニカとノアが持っている(と思われる)永遠の命と人ならざる力、クロニカが「少女人形」であるなら生まれつき持っていたものではないかと推測できますが、ノアはどのようにしてその力を手に入れたのでしょうか。

「Chronicle」には「少女人形」の他に2ndになる際にエピソードごと完全に削除された物語がもう一つあります。「樹氷の君〜凍てついた魔女〜」という曲です。「少女人形」が(クロニカという存在として)2ndに関係するなら、もう一曲も関係していてもおかしくありません。

「生きて欲しい・・・」
それは 愛という名の呪縛
その想いは今も彼を縛る

命をかけて魔女の力を使い果たした母親は凍りつき、少年は決して凍らなくなった。「生きろ」という呪縛から逃れられなくなりました。

それでも 終わり往くモノは永遠を望む・・・

永遠を望んだのは誰か、恐らく母親だと考えます。母親は魔女の力や命の灯と引き換えに息子に「永遠に生きて欲しい」という願いをかけたのではないでしょうか。私はこの少年は「永遠の命」を手に入れたのだと考えています。永遠に凍りついた母親と暮らしている、たった一人の少年。母親が望んだものが永遠なら少年の望むものは一つしかありません。

終焉。この物語の、世界の終わりです。「Chronicle」に収録されている物語は前向きなものが多いのですが、その中でこの「終焉」を望む(と思われる)「少女人形」「樹氷の君」2曲のみが削除されているのです。もう何が言いたいのか分かってきたと思いますが、私はこの「樹氷の君〜凍てついた魔女〜」の「少年」がノアだと考えました。魔女の力を持つ母親の息子なら彼が何故か終焉の洪水から身を守れることも、「魔術師」であることも納得できそうな気がします。ノアもクロニカと同じく何度もこの物語を繰り返し、ついに終わらせようと動き出した時にクロニカと出逢ったのではないでしょうか。

そう考えると、クロニカとノアもまた「一度運命から逃れた」人間なのです。彼等2人の望みは「終焉」ただ一つであり、「幾度と無く誕生と消滅を繰り返す世界」の終わりを望んでいる。そしてそれは立ち位置が違うだけでルキア達の求める「予言に無いハジマリ」と同義でもあります。永遠の命を持つと言っても人間ですから物理的な方法で自害すれば死ねないことはないでしょう。しかしそれはまた巻き戻されて彼らは生まれてきてしまうのです。未来が見えるクロニカはそれを知っているし、ノアは「生きろ」という呪縛に囚われているので世界の終わりを待つという消極的な方法しか取れなかったのではないでしょうか。何度消滅してもまた同じ世界が誕生する、運命から逃れても同じ、その繰り返しに疲れ果て、諦め、開き直り、やがて今の状態になってしまったのかもしれません。

旧約聖書でのノアの箱舟の物語、ノアが洪水の後に水が引いたかを確かめる為に一番最初に飛ばしたのは鴉だそうです。しかし鴉はそのまま戻ってはこず、次に使った鳩で陸地の存在がわかったそうです(一説では)。他に鴉を飛ばしてどこにもとまるところがなく戻ってきたので次に鳩を放した、鳩は存在せずずっと鴉を放していた、最初から鳩だったなど色々な説があるのですが、この「ノアが鴉を飛ばした」というのは「Chronicle 2nd」を考察する上では大変興味深い事柄です。

白鴉とは希望、諦めない心、運命に立ち向かう精神といった「運命に従って現れる書の魔獣」に対抗しうる想いを具現化し、それを歴史の中で蓄積していくものだと考えています。その一番最初がノアの託した希望であるとしたら。希望は絶望の中で生まれます。今は希望を失い人間達に絶望を与えているノアは忘れてしまうほど遠い昔、絶望を知った頃に同時に知った希望を託して白鴉を飛ばしていたのかもしれません。



「少女人形」の少女がクロニカであるという説から考察(という名の妄想)を広げたり、「樹氷の君〜凍てついた魔女〜」の少年がノアであるという解釈にまで至るのは「クロニカとノアがああなったのには何か事情があったのではないか」という考えに基づくものです。それだけならつまりは「悪役にはそういう理由がある方が好きだからそう考えたい」という個人的好みに過ぎないただの妄想です。しかしその根拠とまで呼べるものではありませんが、「そう考えるのもありだ」と背中を(本当に弱い力だけど)押してくれるものが「Chronicle 2nd」には存在する気がするのです。

「Chronicle 2nd」の選曲基準に「運命に逆らった(希望を失わなかった)人間の歴史」という説があるのは先程述べました。私も全面的に同意なのですが、収録曲の中で少し異質なものがあります。「沈んだ歌姫」と「海の魔女」です。この曲の主人公、ジュリエッタ(とロベリア)は「運命に立ち向かった」かと言えばそうではなく、むしろ「運命のままに沈んでいった」人間と見ることができます。「海の魔女」は自分の過ちを永遠に悔い続ける前向きどころか対極の後ろ向きな曲です。「沈んだ歌姫」でジュリエッタが世界まで奪われたのは「紅糸で手繰る操り人形」、つまり「紅の歌姫」(ロベリア)派(恐らく「お父様」)の手によるものであることから、アルヴァレスのように運命から逃れたから黒の教団に殺害された、というわけでもなさそうですし、ロベリアが歴史の闇に沈んだのもあの「全ては遊戯に過ぎぬ」王太子に嫁いだならば充分に予測可能なことで(何かあった時に王太子が守ってくれる筈が無いですから)、ジュリエッタ同様「そういう運命だった」のだと見て良いでしょう。歴史を導く白鴉も他の曲とは違い「沈んだ歌姫」の時は「飛び去りぬ白鴉」と背中を向けて飛んでいってしまうような書き方、「海の魔女」に至っては「歌声は白鴉の道を遮るかのように」とまるで邪魔者のような扱いなのです。

「沈んだ歌姫」「海の魔女」が「蒼と白の境界線」と「碧い眼の海賊」に挟まれていることから、この4曲は同じ物語で、セイレーン(海の魔女)がいたからこそ「碧い眼の海賊」でアグネスは難破してレティシアと出会い、父が生きていることを知って希望を取り戻す、言ってみればアグネスが主人公で、運命に翻弄されたジュリエッタ(セイレーン)のサイドストーリーは(選曲基準的には)必要無いようにも感じられるのですが、私は「海の魔女」は削除された「樹氷の君〜凍てついた魔女〜」「少女人形」と同じ側、「終焉を望む者」の曲ではないかと思いました。「沈んだ歌姫」「海の魔女」とは嵐を起こして船を沈めさせる魔物にもそうなるまでの「事情」があったという物語。それはクロニカとノアにもそういった過去がある(かもしれない)と考えてもいいのだ、と言っているように聞こえ…ないでしょうか。

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