神崎清さん |
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プロジェクト リターン:ザ ネクスト ステップ講演会を終えて
そしてその内容を、分析して、テーマ、講師の選定さえしつかりしていれば、40人くらいの人は、集められるとの確信を持ち、10月から来年3月まで計、6回のワークショップの内容を決めようとしている矢先のことでした。 第1回目の講師をお願いするつもりだった、宇田川さんから、今回の日米交流の講演の受け皿をやってみないかという願ってもない提案を頂きました。 受けた当初は、ビッグチャンスを得られたという、うれしさでいっぱいでしたが、毎週開いているミーティングで、具体的な受け入れ態勢を検討してみると、問題が山積でした。 まず、こういった講演に一番慣れている、T氏が当日参加できないこと、100人近い参加者を集められるかどうかの不安、外国からのゲストにいかに満足してもらえる環境を準備できるか当等などでした。 まず、T氏がいなくても、こういう講演会などは、準備段階で80%の仕事は、終わっており、準備さえしっかりしておけば当日大きなトラブルは起きないというT氏の言葉を信じて各人が最大限の努力をしようという強い意識を持って準備を開始しました。 私は、一番市川市に詳しいだろうということから、会場及び、宿泊先、食事の店などを決めいかに快適な環境を環境の中で、本番当日を迎えてもらうかを準備すること、及び宇田川さんとの連絡係に専念しました。 当然、宇田川さんとのやり取りは、逐次全員に、メールで報告して共有していました。 1番の問題であったのが、いかに100人規模の集客を図るかという点でした。 そんな時、お母様の病気の看護をしているうちに自分までうつ病に近い状況になってしまったOさんが、プロジェクトRに参加してくれることになりました。Oさんは、もともとデザイナーの仕事をしており、彼女とその後主人(この方もデザイナー)の提案で、ポスターや案内状を本格的なものに仕上げることができました。 あと、Faxでの事前申込をして、その他の質問などの対応のため順番を決めて事務所につめることもしました。 そして、集客の武器はできたので、あとはいかに多くの場所にポスターを張り案内状を配るかでした。 ここでは、K氏が抜群の行動力を発揮し自転車で市川周辺の作業所など我々が思い当たるすべての場所回ってくれました。(彼は、週3日は働いているにも関わらず空いている時間のかなりの時間を割いてくれました。)その他にも、いつも高額の電車賃を払って会議に参加してくれていたYさん、もう1人の、Kさんが、自分の地域で精力的に色々な、場所を回ってくれました。 ちょうどその頃、私個人にとっては、大きな転機が訪れてきました。それは、10年以上定職を持てずにいた私が、企業に就職できたことです。 プロジェクトRの活動に未練はありましたが、会場、宿泊先などは、ほぼ完璧な準備ができたという自信がありましたので、就職することを選択しました。 会議には、参加できなくなりましたが、会議で決まったことなどは、メールで共有でき、ゲストが滞在するのは、週末なので、接待役というほどでは、ありませんがゲストに市川に来て良かったという印象を持ってワークショップに参加いただくため、月、火、水、木と残業して金曜の6時からのすべての時間を、プロジェクトRの活動に専念しました。 私が参加できない間に、当日はビタミンカラーのオレンジのTシャツを着てメンバーの気合を示し、ボランティアの学生を募り、彼女たちにはオレンジのバンダナを腕に巻いてもらうこと、当日の、各人の配置、配布資料、タイムテーブル、各人の名刺など細部にいたるまで漏れがないように会議は進んでいったようでした。 いよいよ、日にちが、過ぎ金曜の夜初めてゲストと対面することになり、緊張して集合場所に行いきました。 そのとき、私はその日がライターの月崎(実は、私の実の姉)の誕生日だったことを思い出し花束を持参して行き、つたない英語で花束を持参した理由をゲストのアメリカ人たちに説明すると、皆でハッピーバースデイを歌ってくれました。この時、から私は、彼らが皆とても、フレンドリーなすばらしい人たちであると、確信しました。 いざ、食事となると、彼らは、アルコール類を全く飲まないとのことでしたが、とんでもないデマで、平気でビールなどを飲んでいました。しかも、そのあと、カラオケに行きたいということになり、門限ぎりぎりまで次々と、飲みまくり、歌いまくって盛り上がりました。 (噂では、何人かは、門限破りをして、その後酒を飲みに行ったそうです。) 翌日は、施設見学ということで、For Usという私も通っていた支援施設で、メンバーの母親達が、手作り料理を振舞ってくれました。その時になって、皆がとても上手に箸を使い日本語も勉強してきている事に気がつきました。 午後は、ショッピングの予定でしたが、彼らからの要望もあり、東京見物することにしました。 定番どおり、まずは浅草に行き仲見世では、日本らしいお土産を購入し、浅草寺にもよって来ました。 天気は雨でしたが 彼らは子どものように、喜び、持参したカメラで自分を取ってくれとせがみ、私は、常に3台から4台のカメラを預かり写真をとりまくりました。 その後は、疲れたから、ホテルに帰るグループと東京タワーに行くグループに別れ、私は、当然のこととして、東京タワー組みについていきました。 東京タワーは、クリスマスが近いこともあり、イルミネーションが輝き、特別展望室まで行くと、日本人である我々も始めて見るすばらしい眺望を味わえました。 その後、市川に戻り、色々と、検討した結果お好み焼きを食べることにしました。 最初は、怪訝な顔でお好み焼きの作り方を見ていた彼らも、2個目からは、見よう見まねでしたが自分たちにも作らしてくれと言い出し、楽しい雰囲気で2日目も終了しました。 いよいよ、当日、われわれは、12時に会場入りし例のTシャツを着て、最終リハーサルを行い、各人 配置につき、あとは、来場者をまつばかりでした。 事前申込、問い合わせ等の感触から、50人は集まるだろうとは、思っていましたが、箱を開けてみると、90人近い来場者で、正直なところ我々も、うれしい悲鳴をあげていました。 そして、会の主役、エド、デボラ、ケリー、ダリル、ジュディーそして通訳として宇田川さん玉村さんが会場入りしました。 彼らは、昨日までの観光客のような雰囲気とは、全く違い、身なり、顔つきなどがプロの仕事人の雰囲気に変わっていました。 最初に、宇田川さんに、「プロジェクト リターン ザ ネックスト ステップ」について説明していただき、次に彼らに、順番に自分の病気のこと、自殺願望があったときのことからなど、そしてどうやってそこからリカバリーしたかなど語ってもらいました。 そして第2部では、市川の支援施設の説明の通訳を、白石先生が、我々と同じオレンジのTシャツをきて行っていただけるといううれしい演出のあと、10のグループに分かれ討論を行いました。 ゲストが入ったグループではアメリカと日本の精神病医療の施設の充実度の違いなど通訳が要らないほどの語学力を持った方からの質問に親切丁寧に答えている彼らの姿が印象的でした。 自我自賛になってしまいますが、その場にいた人にしか感じることのできないすばらしい会が企画できた気がしました。 残念なのが、会場の関係で、もっと色々話をしたがっていた人たちが大勢いたのを知りながら、時間切れになってしまったことです。今考えると、延長料金を取られても延長すべきだったと個人的にはおもっています。 今回の企画が、少しでも、日米交流の役に立てたとしたらプロジェクトRとしては、大満足です。 スタッフのみんな、ゲストの方、通訳の宇田川さん、玉村さん、遠方からも来て下さったすべての方に、感謝したいと思います。 |
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