堀澄清さん

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アメリカ研修旅行に参加して 

やどかりの里メンバー  堀 澄清

出発・20月23日(日)(第1日の記録)
 アメリカ,カリフォルニア州の当事者団体,プロジェクト・リターン・ザ・ネクスト・ステップからの招待に応じて研修旅行に参加した。2005.10.23〜11.5,14日間である。参加人員は6名,このうち通訳2人。学校を終えてからの51年間全く勉強したことがないので話せない。でも2人に1人の通訳なので何とかなるだろうと考えて参加したのであったが,これは誤りだった。
 出発前にはコーディネターの宇田川さんに細かい点にまで色々と御教示いただかねばならなかった。成田行きから搭乗手続きその他まで。事前配布資料には“自己責任”が明記されていたのであるが頼らない訳には行かなかった。
集合時間には全員が揃い挨拶,旅の無事を祈る。18時45分 シンガポール航空で出発。ビールを飲みながら機内食。スチュワーデスの民族衣装が美しい。かなりの時間眠った後に目覚めると,赤褐けた乾燥した大地が眼下に見える。自然地理の違いが異なった文明を生んだことに思いを馳せているうちにロサンゼルス国際空港23日12時50分到着。入国手続きを済ませて出口に行ってみると,基金の代表者,秋吉芳美さん,ビル・スローカムさん,ホセ・フロールスさんに迎えられる。到着した時17℃で素足にゲタの僕には乾いた空気は気持ち良かった。直ちにロングビーチのホテルへ向う。1時間弱でマリオットホテルに到着。とてもきれいなツインである。それも1人で使用する贅沢さである。日程が最終決定され17時までごろりとなる。これからの10日余を考えているうちに集合時間17時となり夕食に出向く。何を食べたのか覚えていないがアメリカ食だったと思う。
戻った後,絵ハガキ3枚書き,風呂に入って0時床に就く。

10月27日(月)(第2日の記録)
 朝食はコーヒー店のような店。店内は広い。(Long Beach Cafeであったとのこと)
 10時過ぎロビーに出る。日本にも来ているゲインズさんとデビさん(女)に迎えられ,デビさんの運転でディズニーランドへ行く。11時20分〜14時頃まで広い園内を見て廻る。ディズニーランド発祥の地だそうだ。子どもがとても少ない。若い人,中年が大変多い。市民に受け入れられていると感じた。年のせいか遊園地に行ったことがないので日米の比較は出来ないが情動を引き起こすシステムに人々が集まるのだろう。
 昼食をした店に足の悪い身体障害者が働いていた。通訳の玉村さんによるとアメリカでは障害者が働くといってきた時,断ってはならないという法律があるのだそうだ。このような所にも自らが立つという精神が社会に行き渡っている証拠かも知れないと考えながら食事をしていたのであった。
夕食はゲインズさんに案内されて家庭料理のバイキング店へ行く。21時閉店なのでゆっくりは出来なかったがくだものがおいしかった。 23時床に入る。
 
 10月25日(火)(第3日の記録)
 9時45分にホゼ・フロールスさん,に迎えられ車で7〜8分の民家のような建物でフェニクスで発表のリハーサルを行う。その結果僕だけ長すぎるとの事で,2/3に縮めなければならない事になる。昼食の大きなサンドイッチを1つ食べた後,ホゼさん運転の車で,ハリウッドへ向う。皆んなでハローウィンの衣装を探した後,車内から高級商店街,高級住宅街,カリフォルニア大学ロサンゼルス校を見て廻り18時ホテルに戻る。ホゼさんが夕食は日本食かアメリカ食かと訊くので日本食と答える。30分程走った店に行くも改装中で,ロングビーチのWASABIに行く。天ぷらはなかなかの出来だった。残念だったのはコップが悪かったことである。文化の違いを感じたひとこまだった。ホテルに戻った後さらに飲もうとなって僕の部屋に5人集まり,23時30分まで飲みながらあれこれ話したのであった。
後片づけ後日録の半分を書いた所で,0時10分である。宇田川さんに教えられ,ようやく日本への電話通じる。ダイヤルは38回ボタンを押さなければならない。ロングビーチの午前0時は日本時間午後4時である。電話の後,風呂に入り日録の後半を書き終わったら午前1時30分だった。

 10月26日(水)(第4日の記録)
 今日はオルタナテップカンファレンスの開かれるアリゾナ州フェニクスへの移動だ。
7時集合なので,緊張して床についたが,目覚ましの前に目覚める。すぐに倉田さんからモーニングコール入る。5時に起きて日本人のおばさんが開いている店で朝食をしてきたそうだ。若いのにもかかわらず,しっかりしているようなので安心感を持った。7時20分デビさん運転でロスの空港へ。1時間の飛行だ。10時50分フェニクスに到着。ホテルのバスでSpringhill Suitesホテルへ。12時到着。ここではゲインズさんと相部屋だ。13時食事の為ハンバーガー店のような小さめの店に入る。パン,豆の煮込みを食べる。ロスより温かい。砂漠の中に出来た街だからなのだろう。明日からの大会の参加登録に多少手間どるも登録を済ませホテルで17時過ぎまで休む。ディナーはカンファレンスの開かれるハイアットホテルの大広間である。
 参加者は当事者のみで,1200名程だそうだ。全米から集っているそうである。食事中の出し物がなかなか良く出来ていて,原住民を思はせる太鼓から始まる。何かしら心がゆさぶられる。この後数々のスピーチがあり,締めくくりに当事者で,精神科医だという, ダン・フィッシャーさんのスピーチがあり,切れ目毎に拍手があり,我々当事者も頑張ろうといった時には立ち上って拍手する人もいたのであった。
帰りに一寸した店に立ち寄り,戻ったのは21時半過ぎである。ゲインズさんがすぐ休もうというので絵ハガキ1枚のみで22時に床についた。

 10月27日(木)(第5日の記録)
7時20分ロビー集合ハイアットホテルまでの徒歩は気持よい。パン1枚ジュース2杯の朝食,大会2日目は発表日だ。10時15分〜12時の間に双方4人ずつの8人。宇田川さん,倉田さん,小生,森田さん,ゲインズさん,デニズさん(女),フレットさん,ビル・スローカムさんである。活発な質問があり,@ 日本では精神病に罹患したことでどのような困難を抱えるのか。A 広島,長崎の原爆被爆者の精神医療はどうなっているかなどいろいろ質問があった。@ に対しては岡山から参加した倉田真奈美さんが日本社会には<恥>概念があるため家族・本人が病気を隠してしまうため治療開始が遅れ,重症化して始めて医療に掛かることが多く,長期療養の原因の1つになっている旨答える。A に対しても倉田さんが ア。一生治らないという差別,イ。結婚出来ないという差別,ウ。家族のごう業だという差別,エ。遺伝するという差別などを受け,苦しい生活を余儀なくされた人が多いこと答えた。
 午後は男性は自由。女性は午後のカンファレンスに参加した。それで,絵ハガキを書いてから,テレホンカードを買いにいったり,ポスト・オフィスへ絵ハガキを出しに行ったりした。絵ハガキは本文と住所左右反対だといわれ受け付けてもらえず,切手を買ったら受付けてやるから次から正しく書けといわれる。助かった。宇田川さんに教わっていたのにもかかわらず間違うとは情けない。
ディナーは中華だ。出て来たものはサヤインゲンだけの炒め物だった。倉田さんがチャーハンを半分程分けて下さる。とてもおいしかった。感謝! 21時30分頃まで話した後ホテルへ。倉田さんに来てもらって買ったテレホンカードで何回もダイヤルしてみるがどうしてか通じない。この間30〜40分,ご苦労さまでした。ゲインズさんが戻ってきてすぐ床に入ってしまったので,風呂はあきらめヒゲだけそって22時45分床に入る。

 10月28日(金)(第6日の記録)
 4時に目覚める。日録ノートを整理しているうちに集合時間7時30分になる。
ハイアットホテルへ,朝食はくだもののバイキングで,とてもおいしく充分満足する。午前中は日本の精神保健の現状について話される分科会に出る。20年以上の長期入院者が5万人以上とか1回の入院日数が世界最長で飛び抜けて長く欧米諸国の拾倍位であることなどが図示され,日数も示される。多くの日本の当事者,家族よりもアメリカ人の方が日本の現状をかなり正確に知っている事に少なからず驚かされる。午前中にここまで。
 12時半から昼食中の者相手のスピーチが続いていたが出ようとなる。ゲインズさんをポストオフィスに案内する事になっていたので彼が出ようと云うまでとどまる。14時30分オフィスに向かい切手を買う。17時30分ハイアット集合なのでそれまで休む。
ディナーはシーフードレストランだ。注文と違った品が出てくる。倉田さんと取り替える。とてもおいしいキングサーモンであった。食事中に昨日の発表を録音したCDを贈られる。良い思い出になるプレゼントに心底嬉しくなる。ホテルに戻って風呂に入ったところにゲインズさん21時50分戻りそのまま床に入って眠ってしまったので22時30分床につく。

 10月29日(土)(第7日の記録)
 目覚ましで6時起床。すぐ湯を沸し日本茶を淹れる。出かける前に絵ハガキ2枚,ハイアットホテルでくだものバイキングの朝食。バスで精神障害者支援施設Suruiors On your Ownに行く。そこには登録メンバー400程,1日に40〜50人出てくるそうだ。食事は無料との事で朝・夕は各20食程,昼食は40食程用意するそうである。そうしてここの労賃は1日5$,10$,15$,20$の4段階だそうだ。運営資金は政府及び大会社からの寄付によって賄われているそうである。金額及びその比率は伺うことができなかった。ここは出来て5年目だそうで新らしい建物が1ヶ月先に完成する直前なので節約しているとの事。又,数年後にはビルを建てる予定との事であった。一通りの説明の後昼食となる。小指の先位のくだもの4つのみ。食後裏庭でリラクゼーションのパフォーマンス。皆で輪になり,手を振ったり,お互いの肩をもんだり,声を出したり,笑ったり。
 ディナーはメキシコ料理,一緒に行ったのはホセ・フローレスさんビル・スローカムさんフレッドさんゲインズさんである。料理名は忘れたが,野菜が多くとにかく口に合いおいしい。コロナビールもこれまたうまい。2本飲む。大満足だ。
ホテルで休憩後ハイアットホテルでカンファレンスの1つのミュージックセッションに出る。19時30分〜21時。色々な演奏を聴く。皆上手だ。表情が明るく晴れやかである。日本の仲間にも見せたいと思う。宇田川さんギター,倉田さんリコーダーで即興演奏だ。上を向いて歩こう(Sukiyaki Song)全くすごい事だ。夜,日録及び絵ハガキ6枚で1時45分となる。

 10月30日(日)(第8日の記録)
 起床6時100%の快晴。今日はロングビーチに戻る日だ。フェニクスではカンファレンス,食事,見学,すべてに満足した。観光都市だそうで街もきれいだ。お茶を飲みながら絵ハガキ,日録を整理する。チェックアウトは13時半なので宇田川さんの部屋に全員のスーツケースを置きアリゾナセンターに買い物に行くが締っているのであたりを散策するうちに正午近く開店となり,絵ハガキ10枚で2.16$だ。日本よりずっと安い。12時半に集まりホテルへ。13時30分,フェニクス空港へ向う。予定の飛行機に全員が乗れないとの事で遅らすことにする。暫く待つうちに急に搭乗できることになるが宇田川さんが見つからない。ビールを飲んでいたそうだ。16時出発。17時ロス着。かなり待ってデビさん,ビル・カンプトンさんに迎えられる。1時間近く走って何かしら懐しさの感情が込み上げてくるホテル到着。フロントで前金でないとダメと云はれ,あれこれやり取りした後OKとなり,部屋に向かう。開かない。フロントに下りて宇田川さん,係の人と戻ってみると数字の読み違えだと分かる。チップ5$を手渡す。
夕食はデビさんの案内でホームハイキングの店だ。入ったことがある店だ。21時閉店なのであまりゆっくりはできない。1時間程で,徒歩ホテルへ。明日はハローウィンだ。借りてきた衣服に着替えて日録,絵ハガキ,電話などするうちに1時半,床に入る。

 10月31日(月)(第9日の記録)
 今日はハローウィンパーティーだ。仮装してロビーに集まる。デビさんに迎えられロスのプロジェクト・リターン・ザ・ネクスト。ステップの本部へ向う。部屋は広い。壁際を障子を立てて仕切り1人1人の事務デスクを置いてある。ここの職員は1人の健常者以外他は全員メンバーとの事。給料は2週で1800$だそうだ。これだけの収入が保障されれば暮しは成り立つだろうと考えられる。説明に立った方の話しでは今日で19日間休みなしに働いていると云っていた。そんなに働いて入院にならないのかと訊ねるとそれはあるとの返事。受け入れ側は我々招待される側よりも遥かに大変なんだと考えた一瞬だった。
 その後カラオケとなり,皆が楽しそうに歌った。中でもデビさんが踊りながら心から楽しそうに歌っていたのが印象に残っている。倉田さんがリコーダーで「上を向いて歩こう」を奏でる。その後我々6人の自己紹介,そしてゲームとなる。
 パーティー終了後,ゲインズさんの案内で街の中心街にある「リトル東京」という日系スーパーへ,市川さん,倉田さん,玉村さんと行く。在外滞住者の選挙権の本が置いてあったのが印象に残っている。
 その後再びプロジェクト・リターンに戻り,皆でお祭り会場のウエストハリウッドへ行く。行けども行けども仮装した人々で通りはあふれんばかり。ロスで1番大きなお祭りだそうだ。20時も過ぎた頃そろそろ帰ろうとなる。車に向かう途中尿意を催し,かけ足で簡易トイレに入ったのであったが,出た時,場所を間違えてしまい,皆と離ればなれになってしまった。通りの真中にある仕切りとトイレの間を行ったり来たりしていたのであったが探し当てることは出来なかった。この時しきりに“自己責任”と事前配布資料に“明記”されていたことがしきりに思い出される。時間は流れ10時になり,完全にあきらめ警察署を聞き出し,そこへ行くとパトカーの出入り口だった。何度も何度も話し掛けるが誰にも相手にされない。
こうなったら襲われないことが第1だ。以前にホームレスになったことがあり半年以上路上生活をした時の経験がこの時程生きたことはなかった。こう決心してからは自分でも不思議な程落ち着いていた。午前3時過ぎ清掃が始まり5時終了。完全に人々はいなくなった。これで安全だとほっとする。5時半頃からたまにタクシーが走り始める。つかまえてホテルに戻ろうとしたが,ロングビーチには街はずれの両側にマリオットホテルは2棟ありどちらかを指定してもらえないと走らせられないと3台に断られる。漸く4台目にOKとなった時は7時。ホテルに到着した時は8時だった。この間1時間,100$。すぐ部屋に行くも開かない。フロントへ下りる途中に倉田さんにばったり合い抱き合って無事を喜ぶ。僕が考えていたのとは全く違い夕食をした店に全員が午前2時まで留まり,探した事,ゲインズさん,倉田さんは4時近くまで,お題目を唱えながら,探してもらったこと,その他の人々も殆ど眠っていないこと。アメリカ側の人々も同じとの事。更に,ビル・カンプトンさん,宇田川さんが今日の行事を欠席し日本大使館に捜索願いを出す手筈になっていたとの事。日米当事者交流事業主催者の秋吉芳美さん,在日本の宇田川さんの御婦人,玉村さんの御主人にまでも御辛労をお掛けしたことなどを宇田川さんからも聞かされ正直云って平常心が保てなくなる程だった。こうして一晩のハプニングは解決したのではあったが,後に重い責任が残されることになったのであった。

 11月1日(火)(第10日の記録)
 昨夜の事故の煽りを受けて,日米のメンバーは殆ど眠っていなかったにも拘わらず,集合時間には全員集まる。アメリカでは集合時間に遅れることはその人の社会的死を意味すると本で読んだことを思い出した瞬間だった。このような所にも砂漠地にある文化と日本との文化差を思ったのであった。9時ビル・スローカムさん,ホゼ・フローレスさん運転の車に分乗してアンテロープバアリーデスカバリーセンターという当事者施設に向かう。地理は分らないが途中木はなく,僅かに草が生えているのみである。荒涼といっても良い土地に発生した文明と湿潤な土地に発生した文明の間では自我の出来方も異なる。生きる姿勢も違ってくるだろうなどと考えていたのであった。
 施設では6人全員が発表した。日本語は2人。何かしら恥ずかしい気がした。その後活発な質問があった様に覚えているが,その内容は覚えていない。昼食が出た筈だが何を食べたかも覚えていない。午後に何があったかも覚えていない。夕方ホテルに入る。すぐに女性たちの部屋にいたずら電話が入ったそうで,部屋替えをする。
 夕食は中華料理だった。アメリカ側のメンバーが民族楽器やギターなどを奏でた。最後にマイカップとポストカードのプレゼントがあった。
昨夜は眠っていないのでホテルに帰ってすぐ床に入った。

 11月2日(水)(第11日の記録)
 アンテロープヴァリーから2時間程走って,ロスのパールジョンソンパワーセンターに着く。入館はとても厳しくカメラは持ち込み禁止だ。すぐに話合いが始まり,再度6人が発表する。ここでも,活発な質問が浴びせられた。
 昼食はピザ1枚とサンドイッチ1つ。ここでも食事は無料で提供しているとの事。現に食べてすぐ帰る人もかなりいたのであった。
午後はホームスティーだ。話せないので心配やら胸のときめきやら,ビル・スローカムさんの車に乗り込み案内された所はアパートだった。彼はリターンの職員でもあるので,仕事の都合上自分だけ寝泊りする所を持っているのだ。しばらく休んだ後にゲインズさんが来る。これからサイクリングなのだ。自転車男の僕は胸がときめく。ゲタでは自転車を貸してもらえない可能性があるとの事で靴という事になり店に向かう。ブリジストンの看板を掲げている。日本製品が浸透していることを実感する。因みに書けばスローカムさんの車,超大型のテレビも日本製だ。
サイクリングはロングビーチの海岸を満足するまで,それもすっかり日が暮れるまで走る。体の大きいスローカムさんはあまり乗った事がないらしく,2人に随分遅れる。しばしば待ってあげて追いついた所でまた走ることを繰り返した。つり船や石油基地を見ながら2時間近く走った。
 日本との違いは往路,復路が決まっていることだった。
夕食はバスで30分程行った今走ったサイクリング道路の真上で,港に面しているとても感じの良い山小屋風の店だ。港を正面にした座をすすめられる。このような所にも相手をもてなすゆきとどいた配慮に感謝したのであった。ゲインズさんにすすめられた魚料理はとてもおいしかった。2人共ひとことも言わないが,事故のことが頭から離れず,英語で謝罪出来ないことに心は重かった。更にビールも飲んだのであったが,自弁出来なかったことも悔やまれ申し訳ないことであった。
アパートに戻った後空気ベッドに空気を入れて横になったがやはり事故のことが頭から離れず,2時半まで寝つけなかった。

11月3日(第12日の記録)
はっと気づいた時は8時5分前だった。朝食は8時だと云われていたので大急ぎで支度し終わったのは8時5分だった。すぐに歩いて20分程の店で朝食,ジュース2杯,うまかった。
再び,スローカムさん,ゲインズさんと3人でロングビーチ水族館へ。ここで一度もイメージした事も考えたりした事もない実に不思議な魚に巡り合った。一見した所完全な海藻なのだ。これが魚だとは!! あまりの驚きと不思議さにこの時ばかりは事故の事も忘れていたのであった。その後,イギリスからアメリカへ移民を運んだと云う大型客船を見学に行った。あれ程の大型客船は始めてだったので興味はつきなかった。酒場からダンスホール,おみやげ店まであと1つの町のようであった。
夜はビレッジのカフェでお別れ会だ。秋吉芳美さんを始めお世話になった人々が皆集まっている。35人位だ。アメリカでの最後のステーキを食べながら楽しげに歓談している。話せない僕ではあるが事故はあったものの無事プログラムが終了しここに至った事に安堵の気持ちと感謝の気持ちが満ちている。招待して下さったことに衷心からお礼の気持ちを持っていてもやはり心は真底からは喜べなかった。
そのうちに渡米初参加の4人に日米当事者交流証書が贈られサンキューメッセージをして会は終わった。
帰りにお酒を買い皆で宇田川さんの部屋で夜遅くまで飲み話した。皆が事故のことをひとことも口にしてくれなかったことにどれ程感謝したことだろう。本当に多大の御迷惑と御辛労をお掛けしたこと衷心よりお詫び致します。

 11月4日(金)(第13日の記録)
7時集合 アメリカーナで朝食。店の店主に事故で大変な御心労をお掛けしたことに感謝の言葉を贈り店を辞す。
9時にビル コンプトンさん,ビル・スローカムさん,ホゼ・フローレスさん,ゲインズさん来る。どうしても謝罪の言葉ができない。ビル・スローカムさん,ホゼ・フロールスさんに送られロサンゼルス国際空港へ。夕方手を振ってくれている人々に別れて帰国の途についたのであった。
飛内食と共にビールをかなり飲んだ後,睡眠薬を2晩分飲んで去り行くアメリカの土地を眺めつつ眠りについたのであった。
成田空港ではまごつきながらも入国手続きをして日本の地に足を踏み入れた後,ここで解散,研修旅行は終わったのであった。


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