SCENE4



  
 Lの足取りは重かった。
 行きつく先にあるものへの想像が恐怖へと変わり、そのような行為として表われるのは当然であった。Lは、一歩一歩をゆっくりと踏み出した。その感覚を体に覚えさせるかのように。そうしないと、自分が自分であるという証拠が薄れていくような気がしたからだ。第三者の目に映るその様子は、病人のそれに限りなく近かった。
 Lは、一度気分を変えるために立ち止まった。だが、余計に気がめいってしまいそうだった。周りに広がる灰色の世界には、救いなど存在せずさらにLの気分を沈みこませる。
 Lは、できるだけ何も考えないようにした。だが、そうしようと思えば思うほど、次々と何かが浮かんでくるのは避けられない事実であり、Lはそのことを経験から知っていた。だから、できるだけ楽しいことだけで頭の中を満たそうと考えた。
 そう考えた次の瞬間、Lの脳裏から鮮やかなヴィジョンが波のように押し寄せてきた。最初、それらはパズルのピースのような小さな破片であった。だが、パズルが完成していくように、それらはあるものを形作っていった。最初、それが何であるのか自分でもわからなかった。それが完成真近になって、それが何であるのかわかると、先ほどまで氷のように冷たかった体に、ほのかな熱があらわれたのを感じた。
 それがいつのことだったかは、思い出せない。
 だが、そのヴィジョンは決して忘れることはできなかった。
 その時Lは、ある街頭に立っていた。周りを文明を象徴する巨大なビルや華やかなショッピングモールが囲み、そこを流れる華やかな格好をした人々には天真爛漫の表情が浮かんでいた。
 Lにとって、その世界は楽園のように思えた。
 突然、背後から軽快なメロディが流れてきた。背後を振り返ると、そこには巨大なフラットパネルディスプレイが存在した。ビルの中ほどにはり付けられたそれは、羽がはえているかのような軽快なメロディーと共に、美しい映像を映し出したのだった。透通るような水の色、生気を帯びた植物、楽しそうにはしゃいでいる人々、その火星の環境を紹介した短いプロモーションビデオは、Lの心をうった。
 だが、その色は突如現れた黒と赤にかき消された。それは、渦を巻きながら混ざり合わさっていくと、完全にLの頭の中を満たした。
 次の瞬間、刺すような激しい震えとともに、胃を焼くような激しい嘔吐感が襲ってきた。それらは、Lの歩行を妨げるのには、十分過ぎる奇襲であった。
 Lは、そこから一番近い地面へと倒れこんだ。体のすべての部位に、原因のわからない痛みが伝わっていく。
(私は悪くない、悪くない。自分が生き残るため。そのためには何をしてもかまわない)
 Lは、その美しい火星の風景を見た後の仕事のことを思い出したのだった。それは、Lが今までした仕事の中で最悪の部類に入るものであろう。ぬめりを帯びた赤い塊、色の変わった臓器、所有者を特定するのは不可能なくらいに小さくなった体の一部。それはまさに地獄絵図と言えた。そして、その作者は他でもなくLであった。
 Lがその侵食から立ち直るのには、数十分の時間を要した。



 Lは柱へと赴いた。
 次の仕事が告げられたのである。その内容を確認するために、Lはこの場所へくる必要があった。
 その一連のやりとりは、いたってシンプルである。
 仕事を告げられた者は、柱へと向かう。そして、そこで命を延ばすための注射器と仕事に関する資料のみが、わたされる。ただ、それだけだ。
 拒否という言葉は、何も意味はなさない。
 Lは、その柱を見上げた。腹の下のほうに、金属のように冷たく重い何かがのしかかった。それが、極度の緊張からもたらされるものだと気づくのに、そう時間はかからなかった。Lは同時に、この天井の上に住んでいるであろう人間達に激しい怒りを感じた。
(やつらは自分達の足元で起きていることを知らない。そして、自分や自分の周りはきれいだって思って生きてる。殺してやりたい……IDさえあれば)
 Lは、力いっぱい唇をかみ締めた。口の中にじわじわと塩と鉄の味が広がっていく。痛みもあった。だが、それはどうでもよかった。憎しみと絶望は、それをかき消すには十分すぎた。
 エレベータが降り立ったことを、教えてくれるチーンという間抜けな金属音が鳴り響いた。本来ならば、そこにはLの2週間の命が、詰まった箱があるはずだった。
 だが、今回の場合は違った。そこから、黒いスーツを着た数人の男が降りてきたのだった。彼らが企業運営の中核を担う人間達であることはあきらかだった。その時Lは、今回の仕事がいつもよりもさらに厳しい仕事になるということを感じた。
 Lの脳裏から再び黒い闇が現れた。それは血の色にも似た赤の模様と、ぐるぐると交じり合うと、Lの目に映る世界をじわじわと侵食していった。
(私は悪くない、悪くない。自分が生き残るため。そのためには何をしてもかまわない)
 Lは、頭の中に蝕むように入ってくる黒い記憶を払うために、左右に首を振った。
 その時、Lは左腕が何者かにつかまれているのを感じた。とっさにLはそれを振りほどくと、危険を察知した猫のように後ろに飛びのき、腕をつかんだ相手に鋭い眼光を向ける。
「何をする!」
 それは先ほどエレベータから降りた男達の中の一人であった。その男は手に持っていた注射器を、Lの左腕に使おうとしていた。
 Lは腕を差し出さずに男を睨みつけた。何を体に入れられるかわかったものではないからだ。睡眠薬、いやそんな生やさしいものではないはず。彼らにとって、Lなどただの道具でしかない。しかも、本当にどうなっても良い道具である。そんな彼らがLに使う薬品は、自分達の都合の良いように作用するものであるはず。注射を打った時点でLの人生が、終わる可能性も十分すぎるほど考えられる。
 しかし、その男からは驚くべき言葉が飛び出したのだった。
「今から、お前は自由だ。もうここにいる必要はない」
 あまりに意外なことだったので、Lはその意味がいまいち理解できなかった。
「自由?ここにいなくていい?」
 Lは、その言葉を発した。しかし、意味を理解するどころか軽い混乱をもたらした。
「うそ!私は……だって、お前たちは……自由って……人殺しは」
 混乱したLの口からは、意味をなさない言葉が発せられた。だが、男はLが回復するのを待たずに、話を続けた。
「この注射器の中には、お前の体に書き込まれている自滅プログラムを消滅させる作用をもったものが入っている。これをうって数時間で、お前の腕に描かれているバーコードと共に、自滅プログラムは跡形も無く消える。これをうった瞬間にお前は自由になる」
 Lは、そこで初めて一部が理解できた
「嘘!今までさんざん私を苦しめたお前達が、こんなに簡単に私を開放するはずがない。一体、今度は私の体になにをするつもりだ!」
 Lは男の夢のような話をまったく信じようとはせず、また自分を利用しようとする彼らに怒りをぶつけた。
 しかし、男は冷静に対処した。
「お前は我々の与えた任務を全てこなしてきた。我々としても優秀なお前を手放すのは惜しい。しかし、お前達スラムの人間が行なっているのは、……正確に言うと我々がお前達にやらせていることは、どこのだれがやったのかわからないテロ行為だ。テロ行為の黒幕が、判明すれば行われたほうは報復を行う。そして、やがては戦争へとつながる。つまり、組織の上の人間達は、お前を使いすぎて我々のおこなっていることが、明るみに出ることを恐れ、お前を追放することを決定した」
 男は、一つ一つの言葉を区切るように、そして丁重に言った。だが、一度上がった熱を急に冷ますことは、Lには出来なかった。
「みえみえの嘘をつくな!だったら、殺せばいいだろ。他の奴らにしてるみたいに!胸ポケットに入れているその銃で、私を撃ってそこのごみの山に転がしておけばすむ事だろう?どうしてそんな面倒なことをする」
 熱くなって感情を思うがままに表に出しているLとは対象に、男は冷静に続けた。
「まだ、話の全容を話していない。お前の自由のためには最後にある任務をしてもらう必要がある」
 すると、その男とは別の男が、Lに近づいてきた。その手には、旅行で使うような大きなジェラルミンのケースが握られていた。
 



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