SCENE2



 ここはスラムと呼ばれる場所。
 誰が、いつからそのように呼んだのかは不明だ。だが、その言葉は、この場所を表現するのに最も適した言葉であった。
 一般にスラムという言葉の定義は、近代都市における貧民街、または集落と認知されているだろう。その場所では、その言葉通り平均的な生活水準を下回る者が暮らしている。だが、ここではスラムに住む人間と、それ以外の人間を隔てているのは、生活水準だけではなかった。
 近代都市に住む人間達は、市民と呼ばれる。そして、市民はその証明としてIDを持っている。
 IDとは、その人物が誰であるのかを証明する物理的な手段であり、IDを持っていない人間は、その人物が何者であるのか証明できないことになる。
 IDを持たない人物には、IDを持っている人間に適用される決まりごとが適用されない。
 決まりごとが適用されない。その言葉は自由をあらわす爽快な響きに聞こえるかもしれない。
 だが、その言葉の本意は、残酷でしかなかった。
 


 スラムの小道をいそぐ姿があった。
 外見から推測すると二十歳前後の女であろう。一歩足を踏み出すたびに、女の薄茶色の髪は、肩にかかるか、かからないか位の所でかるく揺れ、同時に長めの前髪は重力の方向へ流れ、女の顔を隠した。そのたびに女は、額に手をやり、目にかかった前髪を横方向へとなびかせる。
 女は細い腕につけてある時計をしきりに気にしては、時には早歩き、時には小走りになりながら、ある場所をめざしていく。



 そこは集落から外れた場所。
 そこでは、誰もがまず足元から天井にのびている巨大な柱に目がいくだろう。柱は、まるでこの空間の絶対的な支配者かのように、見る人にとてつもない威圧感を与える。この柱には、スラムと企業を結ぶエレーベータが通っている。ここで企業とは、絶対的な力を持つ組織のことである。
 柱の前には、2人の男達が立っていた。
 彼らは企業の人間である。手には重火器を持ち、あたりに鋭い注意を送っていた。男達がこの場にいる理由は、スラムから人が入らないための警備が主である。しかし、男達には他の仕事もあった。
 女は、男達に他の仕事を行わせるために近づいていく。
 女は、声を出して男達の気をひくと、両手を挙げながらゆっくりと近づく。男達は、急に接近するものを敵視する癖がある。そのつもりはないのに、犠牲になったものは数知れない。女はそのことを知っていた。そのため、自分が敵ではなく、また、エレベーター内に侵入する意思がないということを明確にする必要があった。
 男達のその鋭い眼光と黒い雰囲気は、何回体験しても決して慣れることができなかった。女から見てその二人は、恐怖そのものだった。獲物を捕らえたら決して揺れない獣のような視線、どんなことが起きようとも運動量を変化させない心臓。おそらく、相当の訓練と実戦を経験した人間であろう。きっと、人を殺したこともあるだろう。そんな人間に今銃を向けられている。男達が気分で、右手の人差し指に少し力をいれれば、一秒間に約20発の銃弾が彼女に襲いかかり、数秒後にはその場には何も存在しないだろう。
 女の背中に、一筋の冷たい汗が流れた。
「何のようだ」
 女は一呼吸おき、その白くて細い右腕を男にみせた。
 そこには、小さなバーコードが描かれていた。一人が、女の右腕にプリントされているバーコードを確認すると銃をおろして、少し穏やかな口調で言った。
「少し待っていろ」
 男は後ろを振り返るとエレベータの横から小さな機械を持ってきた。それは手の平に十分乗るくらいの小さのもので、一部に記号を読み取る機能がついている。
 男がその機械を、女の右腕にあるバーコードの上に軽く接すると、その記号を正しく読み取ったことを示す短いピッという電子音を発する。そして、その機械の表示部に何行かにわたって文章が表示され、最後の行にcompleteという単語が存在した。男はその単語を確認するとゆっくりと口を開いた。
「死亡は情報部が確認した」
 女は、長く息を吐き出した。そして、安堵が訪れると、激しい運動の後のように、背中が汗でぬれていることに気づいた。
「生き延びたな」
 機械をもった男が、わずかな微笑を持って言った。その微笑みは、女の生存を称え生じたものであった。しかし、その微笑みはもうひとつの感情から生じたものでもあった。それは人の不幸は楽しいという気持ち。男はこれからこの女が、色々な感情によって苦しむことを知っていた。その苦しむ姿を想像すると、おかしくてたまらなかった。
 女はその笑みが意味するものが、何であるか十分に理解していた。唇をかみ締めて憎しみをを必死に抑えようとした。
 すると、エレベータが到着したことを示す金物を叩いたとき生じるような間抜けな音がした。自動扉が開くと、そこには20cm四方の箱が2つあった。もう一人の男がその一つを手に取ると、女の足元へと投げた。
「ほら、食料だ」
 そして、男はもう一つの箱から、小さな注射器を取り出した。それを見た女は、嫌がりもせずに左手を差し出す。静脈を固定するために、男は女の白く細い腕を短い紐で縛った。そして、アルコールを湿らせた脱脂綿で、静脈の上を軽くなぞると、ゆっくりと針を沈めていった。女は、びくんと体を一瞬ふるわせ、針から目をそらす。男は、針が入ったことを確認すると、紐をほどいて、ゆっくりとピストンを押し込んだ。
「これで、また2週間生きていられる」
 男は女の耳元にその蒼白い顔を、息がかかるまで近づけ、押し殺すような声でいった。
「これで、何人目だ?」
 女は、男の顔が視界に入らないように顔を背けた。男は、注射器の中の無色透明な液体が3分の1ほどになったところで、ピストンを押していた親指の力を抜いた。
「答えないのではないだろう?答えられないのだろう?お前はもう何人殺したかなんてわからないのだろう?」
 鮮やかな色をした血が、注射器と針の中間地点に漂っている。男は、女が小刻みに震えていることを確認した。それは憎しみや怒りという類の感情からもたらされるものであった。男は、再びピストンを押す親指に力を入れた。
 数秒の静寂があった。そして、男は女の体からゆっくりと針を抜いた。女は針が体から完全にぬけたことを確認すると、強烈な敵意をあらわすきつい視線を男達に突きつけた。
「なんだ、その目は?生かしてもらっておいて」
 だが、いくらその視線が鋭くとも男達には、玩具の銃よりも弱々しいものに映った。男は、にたにたと含み笑いをしながら言った。女は、反対方向を向きその場を立ち去ろうとする。
「どこに逃げてもいいんだぞ。2週間しか生きられないがな。2週間以内にもう一度この場所に来なければ、お前はもがき苦しんで死ぬ。……だが、何も変わらない」
 スラムの人間を使うことは、この企業にとってごみの再利用。
 再利用できそうなら使う。できないならどこかにまとめておいて、あとで消去するだけ。



 そのスラムは、巨大なごみ捨て場の一角にあった。
 そして、そのごみ捨て場を管理しているのは、企業である。管理といってもそこにあるのは、ただ一つの作業のみであった。その唯一存在する作業とは、上の都市で出たごみをただ下へと落とす作業のみであった。もちろん、下にいる人間のことは考えない。ごみが落とされる場所は、決まっているので直接害を受ける者は今までいなかったが、その内容に驚かされることは少なくない。
 女は、つい最近落とされた何両にも連なったモノレールの上を歩き、数百を超える数の自動車が積み重なってできた山の脇を抜け、工業廃液の沼を渡りきると、開けた場所までやってきた。
 ここまでくれば、女の家までそう遠くはない。だが、その前にちょっとした障害がそこには存在する。女はコートのポケットから長いマフラーを取り出すと、口のあたりを中心に数週巻いた。そのマフラーは、有害な物質が肺の中に入っていくのを防ぐ役割をする。
 女は、準備を終えると大きく息を吸い込み、そしてピタリと息を止めると足早に進んだ。その場所には、高濃度の発がん性物質を含んだ産業廃棄物が、コンテナに入れられて放置してあった。その数は、相当な数になっており、コンテナの中には外壁が傷つき中身が流れ出ているものもあった。数百メートル上から落とされれば、いくら頑丈なコンテナといえどもそうなるのは必然であり、無事なものが存在すること事態が奇跡に近かった。
 女は自分の背丈以上のコンテナの間を足早に移動した。
 それを通り過ぎると、女は巨大な兵器の残骸が無造作につまれた広場へとやってきた。その兵器の残骸は、女がここにくる前から存在し、その変わった外見は女の興味を引いたこともある。だが、それはほんの少しの期間の出来事であり、今ではその場所はただの目印に過ぎない。そして、その兵器の残骸は女の家までの最後の目印でもあった。



 兵器の残骸を抜けた先には、たくさんの大型輸送用コンテナが存在した。
 その数は相当なもので、遠くから見るとたくさんのマッチの箱が捨てられているように見える。ひしゃげて空き缶のように潰れているもの、引き裂かれたパンのように半分に分解したもの、落下の衝撃でスポンジのようにねじれたもの、中にはまったく無事なものもあった。
 それらの中の一つが、彼女の住処であった。
 コンテナの中はそれなりに広く、人一人が生活するのに十分なスペースがあった。だが、そこは住処というには、物寂しいものがあった。長方形の部屋の中には、小さな棚と毛布、そして壁にはってある火星の美しい風景のポスターだけであった。
 女はパンと水だけの軽い食事をすませると、冷たい床の上に横になり、毛布を体にかけた。そして、手元にある箱から小さなペンダントを取り出した。
 シルバーを加工した薄い楕円形のペンダントは、首にさげるための同じ素材の紐がついていてる。そしてその表面に”L”と刻んであった。
 女はその文字を細い指でなぞると、小さくつぶやく。
「エル……私の名前……でも誰も知らない。誰も呼んでくれない名前……本当に、私はエルなの?」
 Lは、先ほどとはまったく違った物悲しそうな顔でそのペンダントを見つめた。Lは、自分がどこで生まれて、だれから生まれたのか分からなかった。自分の名前さえ知らなかった。ただ、気が付いたら、このペンダントを持っていた。
 だから、Lは自分がLであると認識している。
「人殺しはもうなれたの?今日もなんにも感じなかった……いや、あいつが凄く憎かった……けど、あいつは死んだ」
 ゆっくりと目を閉じると、あの時の光景が浮かんできた。口にシーツを入れられ言葉にならない何かをさけび、涙を流していた男の顔。大きく見開かれた目には、恐怖の色が浮かんでいた。
「あの男……助けてって叫んでた。けど、私は止めなかった。最初は暴れていたけど、どんどん大人しくなって、顔が青くなっていって、体が冷たくなって……」
 絶命する瞬間の顔が浮かんだ。次の瞬間、Lの体は、一瞬で熱を失ったかのように冷たくなり、耳に入ってくるすべての音が消えた。
「死ぬのは悲しいの?……私は悲しい。だから死にたくない……でも、生きているのになんでこんなに悲しいの?」
 いつの間に生じた涙が、一筋になり頬を伝い床に落ちた。他人を殺さなくては自分が生きていけないという、厳しい状況に置かれて、身も心も限界に達していたのだった。どこかに、逃げてしまいたいが、それは自分の命を絶つことであって、Lにはそれを選択できなかった。
「生きていれば、いいことはあるの?」
 Lはそのまま目をゆっくりと閉じた。



 企業という組織は、決まりごとを管理した。
 その決まり事とは、IDを持つ者のみに適応され、例えば企業の一員として誇りを持って働きなさいとか、人を傷つけてはいけませんとか、禁止されていることはしてはいけませんとか、いわば当たり前のことである。
 企業は、その当たり前のことをしやすい環境を、IDを持った市民に供給する。そして、市民はその見返りを税や労働力という形で、企業に返す。それはいわゆる社会というものであり、企業はその中心に位置した。
 ここで、IDを持たない人間が存在するのは、IDは剥奪されるものであるという事実がある。その原因には、例えば重い犯罪を起こすとか、税を払わないとか、企業に重大な損失を与えるミスをしたとか、さまざまなものが存在する。
 スラムに住む人間達のすべては、そのような人達であった。
 企業から追い出された者は、大抵の場合、その企業のごみ捨て場に身を置くことになる。そこには、ごみといっても、再利用できるものが多かったからだ。スラムの人間は、その企業の落とすごみを寄せ集め自分の住処を形成する。そして、時たま天井を見上げ、再びそこに戻りたいと願うのであった。
 天井を見上げると、すべての面を覆っている強大な灰色の壁を、必ず視界にいれることになる。スラムに住む人々はそれを蓋と呼んだ。蓋は、市民とスラムの人間を隔てる物理的なものであった。そして、いつしか蓋は、自身の上に暮らす市民にある意識を持たせることになった。
 スラムに住む人間は、劣った人間であって人間ではない。スラムに住む人間が居なくなっても、企業の利益には何の影響もない。
 ある場所で、その意識が、スラムの人間の迫害という形で現れた。またある場所では、スラムに住む人間の奴隷化という形で現れた。
 ここで、ある企業は、ある世界的なルールに目をつけた。
 IDを持っていない人間は、たとえその企業のごみ捨て場に住んでいようが、その企業とは無関係ということになる。
 その企業は、スラムに住む人間に仕事を与えた。だが、そこに契約といえるものは存在しなかった。そこには一方的な蹂躙と、そして何よりも軽い命のやり取りのみが存在した。
 



BACK/NEXT



TOP