SCENE3




 Lは、ある話し声で目を覚ました。
 決して、気持ちの良い目覚めではなかった。体中を支配するだるい熱は、まだ残っている疲れを増幅し、Lを不快な気持ちにした。そして、小さいながらも分厚いコンテナの壁を伝わりLの耳にしっかりと届くその話し声は、不快感をさらに濃いものにした。
 Lは、再び目を閉じた。
「うるさい」
 Lは、低い声で言った。だが、Lがそういったところで何も変化するわけでもなく、話は続いていた。言葉の断片がLの耳に入ってくる。
「しかし、……」
「……かったんだ」
 一度気になってしまったものを、無視することはそう容易ではない。その話声は、Lの眠りを妨げた。断続的に耳に届くその小声は、ある意味巨大な騒音よりも迷惑だった。
(一体、何だって言うんだ。わざわざこんなスラムの端で何を話すというの?それとも誰もいないスラムの端じゃなくてはできない話なの?)
 声質からするとそれなりの歳をとった男のようだった。
「だから、俺には無理なんだ」
 その声に続く甲高い声。
「そうかもしれない。でも、やらなきゃどうするんだ」
 一人の男にもう一人の男が、説得しているような感じである。
 Lは同じスラムに住みながら、他の人々とは面識がまったくないので、声からは2人がだれなのかまったくわからなかった。
「お前はあと1回やれば、解除してもらって上にあがれるんだぞ。そうすれば市民権がもらえて人らしい生活ができるんだぞ!」
 片方の男は、声を張り上げて力強く言う。しかし、もう片方の男は、それとは反対に疲れたような口調でいった。
「もういいんだ。うんざりなんだ。誰かを殺して自分だけがが生き残るのは」
「なんで?いままで何人かを殺めてきただろ。同じようにすればいいんだ。あと1回なんだ。もう1回だけ」
「俺もそう思ってた。そのつもりでいたんだ。でもできなかったんだ」
「なぜ?」
 人を殺めることをやめた男は、数秒間だまりこみ、そしてゆっくりと口をあけた。
「目標は、中立企業の上級社員だった。かなりの業績を残し、しかも真面目で上からも下からも信用されるような社員らしい。身なりもビシッときまっててさ。仕事ができるという雰囲気を体中から滲み出していたよ。どうして、あんな人間が目標にされなくてはならないんだろう」
 Lの頭に、スーツを着こなした背の高くすらりとした人物が思い浮かんだ。
「そんな社員だから、目障りなんじゃないのか?」
「そうかもな」
 男は、そう言うと一旦口を閉じた。そして、数秒の沈黙の後ゆっくりと口を開いた。
「俺は、奴が本社ビルから帰宅するところを狙うことにしたんだ。奴は一般社員より遅くに本社ビルを出る。そして、奴の自宅への帰り道を調べて、できるだけ人の少ない場所を選んだ。そして決行の日が来た」
 殺しを止めた男は、声のトーンを落とした。
「そこまでしておいて、なぜ止めた?」
 片方の男は、先ほどよりも落ち着いた口調で尋ねる。殺しをやめた男は、少し間を置くとゆっくりと記憶を再生していく。
「その日、俺の予想どうり奴は遅くに本社ビルを出ると、いつもと同じ道を歩き始めたんだ。だけど、その日に限って奴は、違う行動をとったんだ。奴は、決めていたポイントのほんの手前で立ち止まった。気づかれたかとそのとき思った。だが、違った。奴は飲料販売機で何かを買っていた」
 男がそう言い終わると、少しの間静寂があった。片方の男が、それに耐え切れずその静寂を破った。
「それは?」
「ビールさ」
「ビール?」
「奴はその場所で蓋を開けて、一気に飲み干したんだ。美味そうに。ほんとに嬉しそうに……いつも冷静でゆるむことのない奴のあの顔が、あんな風になることが忘れられない」
「……」
「俺は奴を殺せなくなった。なぜかと言われても、多分答えはない。でも、どうしてもなんだ。それで、俺は今までした事を本当に悔やんださ。俺はなんてことをしてきたんだって」
 聞き手の男が優しく問い掛ける。
「お前酒好きだよな」
 聞き手の男は、全てを理解したようでもう何も問いたださなかった。
「ああ。その時、自決しようかと思ったよ。でも、もう一度酒が飲みたくなった。ここに戻ってきたのも、もう一度お前と酒を飲みたいと思ったからさ」
「お前のために酒をとってあるぜ。いいやつをさ」



 やがて声は、聞こえなくなった。
(なぜそんなことでためらう?私なら殺す。何があっても)
(理解できない。理解できない)
 Lは半眠りの状態で考えていた。あの男の行動を。
(生き残らなくては意味がない)
(自分が生き残るためだったら、どんな命でさえいらない)
(私には、仲間も友達も恋人もいらない。どんな人間でも信用しない。他人は私を傷つける)
(どんな姿をしていても、どんな名前であっても結局みんなおなじ)
(私をやさしさで、誘って、そして、私を信じさせて、私をだます)
(やさしさ……やさしさは人をだますための道具)  


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