サー・アーサー・コナンドイルとは (フリー百科事典・ウィキペディアでの検索結果

 史上最も偉大な頭脳を有するであろう名探偵を創作した人物。

 1859年5月22日、英国・エディンバラ生まれ。
 元々は開業医だったが振るわず、暇に任せて小説を書いていまいしたが、1887年に『ビートンのクリスマス年鑑』に第一作『緋色の研究』を発表。
 発表当時はたいして人気を博していたわけでもなく、作者もホームズものではない冒険ものなどを書いていましたが、アメリカの出版者に請われて『リピンコット』誌に書いた『四つの署名』から人気に火が付き、『ストランド』誌に連載を始めます。

 作者の予想に反して盛り上がるホームズ人気に辟易して、1893年に発表した『最後の事件』で、スイス・ライヘンバッハの滝つぼに落ちて死亡したことにしてしまいましたが、多分これも作者の予想に反するほどだったのでしょうが、喪服を着たり喪章を付けてその死を傷む市民が街を歩き、2万人以上が『ストランド』誌を買うのをやめてしまい、ヴィクトリア女王までもがその死を悼んだのだといいます。

 それどころか、ホームズを殺してしまったことへ抗議する手紙が編集部に山のように舞い込み、ドイルの家の前でホームズの葬式を執り行うものや脅迫状を送るものまでもが現れ、最後にはドイルの母までもがホームズを殺したことに抗議してきたのですが、ドイルはその後長々と、ホームズものを書かずに過ごしました。

 しかし結局、八年近いのちにホームズを生き返らせることになります。
  1901年に『バスカーヴィル家の犬』で過去の事件簿が語られますが、これは抗議活動に折れたというよりは、たまたま耳にした幽霊話にインスパイアされて書いたらしいです。しかし1903年には『空家の冒険』で、ホームズを完全復活させます。

 ちなみに、シャーロック・ホームズを復活させた少しあとに、ビクトリア女王から栄誉を授けられ、サーの称号を得ることとなりました。

シャーロック・ホームズとはフリー百科事典・ウィキペディアの検索結果

 ちなみに、創作の中の人物でありながら、王立化学協会から名誉会員の資格を送られています。
 勿論。小説の中の人物としてははじめてのことであり、三次元の世界に生きる人間のほうでも、ノーベル賞受賞者や著名な学者、実業家でなければ得られない資格なのです。

 数編の例外を除き、助手のワトソン博士(後述)がホームズと共に体験した、あるいはホームズが語るのを聞いた話を書き綴った形で物語は語られます。

 アメリカのホームズ研究家だったウイリアム.s.ベアリング=グルードが、バラバラの年代で発表されていたホームズものを事件発生時順に並べて、ホームズの生涯を書くという作業をしているのですが、その『シャーロック・ホームズ:ガス燈に浮かぶその生涯』によれば、ホームズは1854年1月6日(金)に、ヨークシャーの北ライディングにあったマイクロフト農場で誕生しています。 

 『緋色の研究』中でワトソン博士はホームズの知識を非常に偏ったものとして、『シャーロック・ホームズの特異点』という形で述べていますが、それは以下の通り。
文学の知識 皆無
哲学の知識 皆無
天文学の知識 皆無
政治上の知識 微量
植物学の知識 不定。ベラドンナ、阿片、その他一般毒物には通暁すれども、園芸に関しては全く無知。
地質学の知識 実践的知識はあれども知るべきのみ。一見して各種の土壌を識別。散歩後ズボンの跳泥を余に示して、その色沢と密度とよりロンドン市内いかなる方面にて付きたるものなるかを指摘したることあり。
科学の知識 深遠。
解剖学の知識 精確なれども組織的ならず。
通俗文学の知識 該博なり。今世紀行われたる恐るべき犯罪は全て知悉するもののごとし。
ヴァイオリンを巧みに奏す。

棒術、拳闘および剣術の達人。

イギリス法律の実践的知識探し。

  勿論ワトソン博士の観察は、後に誤りだと分かることとなります。
 シャーロック・ホームズの知識はワトソンが観察し得たよりずっと膨大で豊富でした。というわけで、時に神がかり的な推理力で、事件を解決に導いて行くのです。

 世の中に発表された事件、いわゆる正典(聖典?)に描かれているのは60個。
膨大な数のパスティーシュ、パロディが存在、シャーロッキアンと呼ばれる研究者の発表した論文など、正典以外のところでもホームズの活躍はたくさん読むことが出来ます。
  もちろん、それらを楽しむには正典を読んでおく事が不可欠です。

 コカインやモルヒネの悪癖有り、かなりの愛煙家。
ワトソン博士との出会いは、聖バーソロミュー病院(ちなみにモンティ・パイソンの故グレアム・チャップマンは、ここで医者になるはずだったのを蹴って、コメディアンになりました)の解剖学教室に出入りしていたことからワトソンの知り合いであったスタンフォドとも知り合いで、スタンフォドが戦争から帰ってブラブラしながら同居人を探していたていたワトソンに、やはり同居人を探していたホームズのことを話したからでした。
 
 演劇や映像化も何度もされており、ラジオやテレビでも様々に演じられて来ました。いついつまでも名探偵の象徴的存在でいることでしょう。ちなみに最初の芝居は1894年、映画化は1900年のことでした。
 ちなみにモンティ・パイソンのジョン・クリーズも二度、ホームズを演じたことがあります。
 他にもたくさんの有名俳優が演じていますが、私の中でイメージにピッタリなのは、NHKで放映されていたグラダンTV版の故・ジェレミー・ブレットです。多分、そういう方が多いのではないかと思います。
求龍堂から出版された『NHK版シャーロックホームズの冒険』(文・ピーター・ヘイニング/訳・岩井田雅行・緒方桂子)という本は、演劇におけるホームズ物語を詳しく知ることが出来ます。

 さて、ホームズ氏の人生に戻りましょう。
 1891年5月、『最後の事件』で宿敵ジェームズ・モリアーティ教授とスイス・ライヘンバッハの滝つぼで相討ちして死んだと思われていたホームズですが、実は柔術を駆使してモリアーティ教授には勝利、他にも自分の命を狙うものがいることを思いだして、そのまま行方をくらますことにしたのです。

 滝つぼの事件から一週間後、イタリアのフローレンスに辿り着いたホームズは、お金の必要もあったので兄のマイクロフトにだけは事情を打ち明けましたが、素直すぎる親友のワトソンに打ち明けることは、秘密の発覚を恐れて出来ませんでした。

 さて、失踪していた時代のホームズは、チベットへ2年間行き、チベットの仏門聖地へ行ったり、ラマの長と数日を過ごしたりなんてことを経て、ペルシャやエジプトを回り、フランスに来ていたのですが、その頃ロンドンには、ホームズの敵と呼べる人物は一人しかいなくなっていたので、帰国を考えていました。
 そんな折に起こったパーク・レーン事件に心惹かれて戻り、ワトソンの前に戻ってきます。『空家の冒険』事件です。

 その後も次々と事件を解決したホームズですが、1903年10月、49歳で引退します。
 サセックス丘陵の南斜面、イーストボーンから5マイル行ったところの、「フルワース」(カックミア・ヘイブン)の別荘でミツバチの養殖をしながらそれについての著作、『実用養蜂便覧/付・女王蜂の分封に関する諸観察』を著したり、『探偵学の全て』という著作を書き上げることをライフワークとしていました。

 引退後も、『ライオンのたてがみ』事件やシカゴでアルタモントというアメリカ人に成り済ましての活動を経て、ドイツ人スパイを捕まえる『最後の挨拶』事件を手掛けます。

 シャーロック・ホームズの生涯を年表にまとめたW・S・ベアリング=グルードは、1929年7月24日にジョン・H・ワトソン博士死去、1946年6月19日にマイクロフト・ホームズ死去、1957年1月6日、シャーロック・ホームズ死去、としています。

 ホームズ氏についてはシャーロッキアン(フリー百科事典:ウィキペディアの検索結果)が様々な研究をしていますし、多くのパロディやパスティシュが出ていますので、そちらも読むとより楽しめます。
 ちなみに著者のドイル自身が、ホームズの名を出してはいないもののホームズらしき人物を登場させた『消えた臨急』『時計だらけの男』(共に新潮文庫・『ドイル傑作集・一』)を発表、また、ジョージ5世の娘であるメアリ王妃に捧げる目的で、『ワトソンの推理法修行』というパロディを書いています。