SCEN11



  
 人を恐怖させるものとは世の中に数多く存在し、例えば単純に自分より強い存在そのものがそうであったり、人によっては孤独こそが本当の恐怖だという。そして、また暗い空間も、純粋に恐怖を増幅させる作用を持つであろう。
 漆黒の闇は、すべてを飲み込む。その中に存在するもの、音、さらには光でさえも。それはある意味において最も強大な存在であり、またある意味において絶対的な孤独を与える。
 コウ達がミサイルサイト内に入ってから、1時間が過ぎようとしていた。追っ手の存在はまだ確認していない。だが、そこには漆黒の闇が待ち受けていた。そして、その巨大な闇に立ち向かうには、ハンドライトくらいでは十分でなかった。
 時間がたつにつれ、コウの中に存在する恐怖は増大していった。
「あっ」
 Lが小さな声をもらした。
「おい、どうした?」
 次にキザワが。
 立ち止まったコウにLが衝突し、さらにそれにキザワが衝突した形だった。三人はコウ、L、キザワの順番で狭い通路を移動中であったのだ。
「す、すいません。歩くスピードが遅すぎましたね」
 コウは本当の理由を悟られないようにいった。
「急いだほうがいいのだろうが、こうも視界が悪いと怪我をする恐れがある。だから、おまえが安全を確認しながら進めるペースでいい。だけど立ち止まるときは言ってくれ。後ろがつかえるからな」
 キザワは、ハンドライトでコウの顔を照らしながらいった。コウは表情を読み取られないように顔を背けると、弱々しく言った。
「わかりました」
 Lは、コウの遅いペースにいらいらしたが、それをぐっと飲み込むと軽く胸をなで平常を保つように努力した。Lは、本当はコウが手に持っているハンドライトを奪い取って、さっさとこの2人から離れたかった。しかし、そんな素振りをみせようものなら、後ろにたっている強そうな男に取り押さえられ、面倒なことになるだろうと予測した。そのため、完全に逃げられそうな場所にでるまで、逆らう意思がないように見せかけることにした。
 そんなLの目の前で、コウは黙って向き直ると、目の前に広がる闇へと小さな光を投げかけた。
 キザワは地図を見ながら、コウに道順を伝える。コウは2m先の地面を照らして、そこに足を置くことが可能であることを確認しながらゆっくりと進んだ。そして、その後ろのLとキザワは、コウが歩いた同じ地面にたどっていく。
 そこには足音のみが存在した。しかし、その足音でさえその闇に飲まれていくような気がした。そして、奥に進めば進むほどに、コウの中の恐怖は静かに増幅していった。
「ここを進んで行けば、C−M連絡通路D52に出られるはずだ。まだ、先は長いが」
「ああ、知ってます。確か、車両専用の連絡通路でしたよね」
「そうだ、車両の通りが結構あるはずだ。そこでヒッチハイクをして、チェインへ行こう」
 キザワは左手腕にはめてあるディジタル時計に目をやった。そして、連絡通路までの予想時間をはじき出す。
「この暗さはこちらに味方するぞ。追っ手に発見されにくいはずだ」



 三人はさらに1時間その闇の中を進んだ。
 その間、何回も階段を下り、いくつもの十字路を通り過ぎた。その明確な数は覚えていないが、その複雑な順路から3人の誰もが、追っ手の追撃はないものと考え始めていた。
 コウがその上りの階段を上りきったとき、真っ直ぐとのびた通路にでた。通路の横幅は、人が一人通れるのが精一杯というくらいに狭かった。そして、その両側の壁には、部屋が等間隔に並んでいた。電算室、電源室、会議室といったプレートが目に入ってきた。ここは、ミサイルサイトである。そのようなものがあるのは当然であり、三人は特に興味をしめすわけでもなく進み始めた。
 だが、コウは人の生活していたであろう空間を、目のあたりにして、ミサイルが着弾した宮浦の人々のことが頭に浮かんできた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「先生。宮浦に打たれたミサイルは、核弾頭なのでしょうか?」
「それはわからない」
 キザワは少し間をおき、静かに答えた。だが、そんな答えでは納得できないという風に、コウはキザワに方へ向き直ると、問い詰めるような口調をとった。
「ミサイルは宮浦の都市の上で爆発したのでしょうか?それとも、地下潜入可能な遅発信管なのでしょうか?そうだとしたら、宮浦は一体どうなって…」
「コウ。今は何もわからない。想像するといくらでも悪いことが浮かんできてしまう。今は自分達が無事にチェインにいけることを考えよう」
 キザワの言う通り今の段階では、どんな手を使っても外で何が起こっているのか知ることはできないのだ。そんなことはコウにもわかっていた。ただ、コウは自分を安心させてくれる言葉が欲しかっただけだった。
 キザワは深く頭を垂れているコウの両肩に、軽く手をのせた。
「今はここから出ることだけを考えるんだ」
「……はい」
 コウは呟くようにいった。
 そのとき、コウはこのもやもやした重い綿のような感情が、暗闇からの恐怖だけではないと気づいた。
 三人はさらに進んでいった。



 コウは進んでいく途中で、自分と親しい人間を思い出していた。やさしい部長、意地悪だが愉快な後輩、同期で入った気の合う同僚、怒ると怖いが本当の母親のような寮母、よくいく本屋のさえない店長、少し気になっていたそこの女性店員。いろんな顔を思い出した。そうして、その人がどうなったのかを考えると胸が詰まり、ついには踏み出す足さえ止めた。
 コウが立ち止まると、後ろのLもとまり、キザワも止まってしまった。
 Lは、小さく舌打ちすると、コウを蹴って進ませようとした。しかし、後ろからキザワのコウを気遣う言葉を聞いて、必死にその感情を堪えた。
 キザワは、そのコウの様子を見て、明るい声で切り出した。
「少しそこの変電室で少し休むか?敵も多分追っては来れないだろう。もう3時間は進んだ。それに分岐はいくらでもあったのだから。数分ぐらい大丈夫だろう」
 その提案に対する反論はなかった。3人は変電室で休むことにした。そこには、巨大な本棚のようないくつもの変電盤が壁に沿って並べられていた。それでも中は結構広く、三人が腰を下ろすスペースは十分過ぎるくらい存在した。現在、変電室は待機中であるようで、わずかな明かりしか存在しなかったが、その薄暗さは人が行動を起こすのに十分であった。
 コウは下を向いて座り込んでいた。そこから5mくらいの距離だけ離れてLが座り、その正面にはキザワが座り込んだ。
「水を飲むかい?」
 キザワはLに水筒を差し出した。キザワは、ごく単純な理由でLの近くに腰を下ろしたのだった。ただ、Lを眺めていたいという本当に単純なことだった。それだけ、Lの外見は人を引きつけるものがあった。だが、Lにはキザワが自分の監視をするために近くに腰を下ろしたように映った。
 Lはキザワを恐る恐る見つめ、申し訳なさそうに黙って水筒に手を伸ばした。
 喉が渇いていたLは、円筒状の水筒の蓋を取り去り、中身を一気に流し込んだ。程よく冷えたその中身は、微かにレモンの味と匂いを持ち、疲れたLの体の隅々まで行き渡るようだった。
「ふぅ……」
 Lは、子犬のようなかわいらしい声を出した。
 その姿をみて、キザワは微笑んだ。
 だが、キザワは心の底では笑っていなかった。Lから発せられる普通の人間とは異なる雰囲気を感じていたからだ。それは、何気ないことからわかる。ちょっとした仕草、歩き方、そして視線の置き方。あらゆることが、企業で普通に暮らしている人間のそれとは違っていた。明らかに、厳しいプレッシャーの中で生きてきた者のみが持つ雰囲気というものを持っていた。
 キザワは、暗闇の中を進んでいる途中で行っていたLに対する推測を、まとめにはいった。
「水はまだある。全部飲んでもいいよ」
 キザワは、ゆったりとした口調でいった。Lは、黙って小さく頷いた。
 キザワには、Lが企業で健全に暮らしている人間ではないということは、容易に判断できた。だが、自分とコウを襲った謎の武装集団、ミサイル発射、それにミスト。その3つとの関係は、想像すらできなかった。
 キザワは、一旦それらについて考えることを止めることにした。そして、盗み見るようにコウのほうへ視線をやった。
 コウは袖で、目のあたりをごしごしと拭っていた。涙を拭いているのは明らかだった。キザワは少し、落ち着くまでコウをそっとしておこうと思った。
 しかし、そんなキザワの想いは簡単に打ち砕かれた。
「やっと、たどり着いた」
 聞いたことのない声が、変電盤の裏からした。3人は、顔をこわばらせその声のほうへ身構える。コツ、コツ、コツというブーツが地面を叩く時生じる音が、ゆっくりと近づいてくる。音からすると一人のようだった。キザワは、コウとLの前にでるとナイフを身構える。
 音はさらに近づいてくる。
 変電板のシステムの安定を示す緑色の発光ダイオードが、下半身を映し出す。黒いブーツ、茶色と赤の迷彩。見覚えのあるそのいでたちから、ミストの部隊の人間であるということはすぐにわかった。次に胸が映し出される。身長は約180cmくらい、下半身と上半身の肉のつきかたからすると、そこまで筋肉質で強そうな印象を受けない。むしろ細めにさえ見える。
 その足音が一層近くなったとき、顔が映し出された。いやらしくにたにたとした口。重力の方向に逆らってつんつんと立っている金色の髪の毛。頬の肉がこけ、長細い印象を受ける顔。そして、とりわけ三人の注意をひいたのは、緑色の目の色であった。カラーコンタクトレンズをすれば誰でもできることであったが、その残像を残して冷たく光る緑は、木々の持つやさしい緑ではなく、獲物をねちねちと追いつめる爬虫類の体色を思い出させた。
 Lは、その男の目を見て、胃の辺りがしめつけられる様な感覚に陥った。それは、死に何度も直面してきた体が発する信号のようなものだった。その内容は、最高級の危険を示していた。
 コウは、敵の数を確認するために、周りを見回した。
「心配するな。俺しかいない。俺一人で十分だ」
 見た目から想像できない甲高い声は、ひどく耳に残った。
「ずいぶんと強気だな」
 キザワが言う。
「お前か?俺が気持ちよく荷台で寝てるところに装甲車を突っ込ませたのは?」
 男の顔が、さきほどののいやらしい顔から、急に殺気に満ちた顔になった。
「生け捕りしろといわれたが、一人ぐらい死んだとしても問題ないんじゃないか?作戦に障害はつきものだしな」
 その瞬間、男が消えた。
 いや、迫ってきていた。そして、次に男の姿が確認できたのは、キザワめがけて長い脚が振り落とされる瞬間だった。しかし、キザワはなんとかそれをガードする。が、その次の瞬間
 Lとコウの悲鳴が、二重奏ようにこだました。それと同時にLとコウの体は宙を舞い、各々地面に体のどこかをぶつけた。攻撃が防御された次の瞬間に、2人に攻撃を食らわせたのである。
「二人とも下がれ!」
 キザワは、声を張り上げナイフを構える。男はそれを見てもまったく動じなかった。そして、キザワとの一騎打ちを楽しむように、にやにやと表情を緩めると、ゆっくりと間合いをとり始めた。
 コウとLは、それを離れてみることしかできなかった。近くにいては足をひっぱるだけだとわかったからだ。
 数十秒後、男は急ににやにやとした顔をさらに緩め、まるで微笑んだかのようだった。そして、それが開始の合図だった。
 男は再び消えた。
 まさにその言葉の通りだった。そして、コウが次の状況を把握する前に、肉と肉、骨と骨がぶつかり合った鈍い音が、耳に入ってくる。
 キザワと男は激しい戦闘に入っていた。その次元の違いにコウとLは、呆然とした。男は、キザワのナイフ攻撃を寸前でかわし、キザワも男の攻撃を防御している。その戦闘の展開は、あまりに早く、コウには目で追うことすら難しいことであった。できることがあるとすれば、自分が戦闘の邪魔にならないことのみだった。コウは、何もできないというもどかしい想いをぐっと飲み込むと、邪魔にならない位置を確保した。
「やるね。おっさん、ほらよ」
 男の上段への蹴りがキザワのあごをかすめた。その攻撃は、かすっただけとはいえ、キザワに激しい痛みをもたらした。キザワは態勢を整えるために下半身に力をいれる。が、男はその隙を見逃さなかった。男は、キザワに対し垂直になるように体を向けると、即座にキザワの下半身への鋭いローキックを繰り出した。キザワは、先の痛みがありながらも、男の視線がやや下がったのを見逃さなかった。
 下段への攻撃がくる。
 そう考えたキザワは、とっさに下段の防御姿勢をとる。
 それは完全な防御であったように見えた。キザワの鍛えられたふくらはぎは、確実のそのローキックを受け止めていた。
 しかし、それは確実な攻撃の命中だった。
 キザワは、痛みを叫びとして吐き出した。
「先生!」
 コウはキザワの元へ駆け出そうとする。
「待て!」
 それをLが止めにかかった。コウは歯を食いしばり、必死にその感情をかみ殺そうとした。コウはその場に出ていっても、迷惑をかけることがわかっていた。しかし、このまま黙っているのも苦痛であった。
 キザワは、右のすねをおさえ、歯を食いしばり男の方を睨み付けた。先ほどの攻撃は避けるべきであった。キザワはそう思った。ローキックに込められた爆発的なエネルギーのすべては、キザワのすねにそのまま伝達され筋肉細胞を物理的に破壊した。
 男は、体勢の整っていないキザワを見下すように、含み笑いをした。
「おっさん、もう年だね。体がついていってねぇよ」
 男の呼吸は、いたって平常であるのに対し、キザワは肩を激しく震わせ激しく乱れた呼吸をしている。
 キザワの方が押されているのは、その場にいる誰の目にも明らかだった。だが、キザワは戦闘をやめるわけにいかなかった。今の段階で、ミストが裏で糸を引いているのかわからない。ただ、ここで戦闘を止めて捕まることになれば、3人ともミストに連行されることになる。そうなれば、例えそうでなくても犯人に無理やりされる可能性は高い。世界は、ある出来事に対して原因が存在することを何よりも望む。
 それは、惨事であればなおさらのことであった。
 とにかく、友好企業であるチェインに逃げる必要があった。そのためには、この男から逃げなくてはならない。
 キザワは立ち上がった。
 その戦いを見ていたLが、コウに小さく声をかけた。
「銃を貸せ」
「えっ?でも」
 コウはあの時のLが、脳裏に浮かんだ。争う理由などないのに、一方的に銃を付きつけたL.。しかし、そのLの表情からは、そのような邪念は見受けられなかった。
「あのままじゃやられる」
 コウは、Lの細い眉毛が初めて八の字になったのを見た。
「……わかった」
 コウは、一瞬躊躇したが、Lに銃を手渡した。銃を受け取ったLは、戦闘中の二人に気づかれないように近づいていく。
「死にな」
 再び、男の強烈な蹴りがキザワを襲う。男の脚は、まるで獲物にねらいを定めた蛇のように、連続して襲ってきた。しかし、それはさっきのローキックほどの威力はなく、片腕でも十分対応できた。キザワは、この攻撃は単なる前振りでしかないことに気づいていた。
 後に必ず大技がくる。
 キザワは、その連続して襲ってくる小技を、わざとさばききれないふりをした。そして、顔面へのガードを下げたそのとき、予想通りのそれがあった。
 今までが小さな蛇だとすると、今回のそれはまさに大型の肉食獣の突進と言えた。あまりの凄まじさに、キザワは一瞬周りの大気のバランスが、崩れたかのような錯覚さえ感じた。男の左脚から繰り出されたまわし蹴りは、大きな円軌道を描き、キザワの顔面へと襲いかかった。
 キザワは、それをあえてカードする態勢をとった。コウはさっきのシーンがフラッシュバックし、顔をそむけ目をふさいだ。
 次の瞬間、その空間には聞いたこともないような鈍い音が鳴り響いた。まるで、巨大なハンマーで地面を叩いたような鈍い音。それはふさいだはずのコウの耳にも、はっきりと聞こえていた。コウの脳裏には最悪の状況が浮かんだ。
 だが、それはコウの想像したものとは違っていた。
 それは、キザワのこぶしが、男の右頬にめり込んだ音であった。
 一瞬の出来事だった。キザワは男の強烈な一撃をあえて受け止めた。しかし、それが当たる瞬間、体を回転させながら反らした。その動作は、強大な力を受け流すための動作だった。そして、キザワは、今まで涼しい顔をしていた男の目に、初めて戸惑いの色が生じたことを見逃さなかった。それは、自分の絶対的に信用しているものが、打ち破られたとき生じるものであった。
 その一瞬を見逃すほどキザワは甘くはなかった。キザワは渾身の一撃を男に叩き込んだのだった。
 そして、もう一人、そのような好機を決して見逃さない人物がいた。
 Lである。
 Lは、キザワの攻撃が命中したのを確認すると、ためらわずにそのトリガーをひいた。オレンジ色の火花と発射音がほぼ同時に生じ、Lの小指の爪ほどの大きさしかない弾丸は、すさまじい運動量を得て男の上半身へと襲い掛かった。
 男の体が、急に紐で引かれた様に前方に倒れこんだ。
 男の左の背中に弾が、命中したのだった。Lは、男が倒れこんだのを確認すると、すかさず距離をつめた。
「待て!待つんだ!」
 キザワが声を張り上げた。Lのその行動は、明らかにとどめをさすためのものであったからだ。キザワの叫びを無視したLは、男のすぐ近くまでくると、銃の先を男の頭に向けた。しかし、Lがフロントサイトで男の頭をとらえたとき、そこには男の姿は無かった。
「このくそ女が!」
 フロントサイトから目を離したとき、Lの目に映ったのは、男の残像であった。男は、態勢を低くしたままLの足元までくると、こぶしを上へと突き上げた。
 それは恐ろしいほど鋭く、確実にLのあごを狙った軌道をとっていた。しかし、Lの体はそれに反応した。寸前でそれをかわすと、銃を男の太ももの上に持ってきてそのままトリガを引いた。
 男は、銃声と同じくらいの悲痛をあげた。
「このくそどもが、もうゆるさね!」
 だが、男は倒れなかった。そして、鎖から開放された野獣のように、強烈に突進してきた。強烈な蹴りを防御したにもかかわらず、キザワは吹き飛ばされる。そして、次に男は素早くLのむなぐらをつかむと上に持ち上げ、そのまま床に叩きつけた。
 鈍い声が漏れる。そして、手から銃が離れて、コウの近くに転がってきた。
「先生、エル!」
 コウは銃を拾おうとしたが、その意思とは逆に足が動こうとしなかった。コウの目には、横になったまま苦痛で顔をゆがめているLが入ってきた。Lは、陸にあげられ絶命寸前の魚のように口をぱくぱくと動かした。
「このくそ女がいてだろーが、お前から殺す」
 男は、Lに近づくと、その小さな顔に足をのせて、左右に足を動かした。ソニックユニット製のコマンドブーツは特殊な素材で作られており、スポーツシューズのように軽く、その上金属のように頑丈であった。そして、Lの顔のやわらかい皮膚を裂くのには、十分すぎる強度を持っていた。Lのこめかみ辺りから鮮やかな血が流れ、顔を伝い地面へと落ちた。
「や、やめて」
 Lのその形のよい口からは、想像もできない醜い声が漏れた。
「ちくしょう!」
 その一瞬、金縛りがとけたかのように、コウの体が滑らかに動き出した。目の先に落ちていた銃を拾い上げると、両足を肩幅より少し大きく開いて、左足を少し前に突き出す。次に、銃を持った右手を前方に突き出し、その右手を左手で支え肘を曲げわき腹につけた。射撃訓練で教わったとおりの動作だった。
 射撃準備の整ったコウは、不思議なくらい落ち着いていた。リアサイトの中にフロントサイトを入れ、さらにその先に男の姿を入れると、呼吸を止めトリガーを後方へ引いた。
 そこから放たれた小さいながらも凄まじい破壊力を持った銃弾は、確実に男の方へと向かっていった。コウの目には、映画のスローモーションのように、男が後ろへひっぱられるように倒れていくのが見えた。
 男の体が、地面に叩きつけられた鈍い音を聞いて初めてコウは、自分が人を銃で撃ったという事実を知った。一瞬、体の底からの寒気が、体の隅々にまで駆け巡った。だが、次の瞬間には、何事も無かったかのように頭の中が空っぽになった。
 不思議なくらい落ち着いていた。
「エル!大丈夫?」
 コウは、銃を下ろすとゆっくりとLのもとへ歩み寄った。Lはこめかみ辺りから出血していたが、意識はあるようで「大丈夫」と小さくつぶやいた。隣で、キザワの方は自分で立ち上がった。
「先生、大丈夫ですか?」
 コウが穏やかな口調でそういった時、キザワの表情は一気に険しいものとなった。
「コウ、後ろだ!」
 そのときは何か頭に強烈なものが当たった気がした。次に、体が床に叩きつけられたのがわかった。最初は痛みというより、微弱な信号が流れたようなちょっとした痺れを感じた。しかし、次の瞬間、耐えがたい痛みが体全体をかけぬけた。
 あまりの痛さにコウは、叫ぶことすらできなかった。泥のように重い喘ぎが、コウの口から流れ出た。
「もう、命令は無視だ。お前ら全員殺す」
 暗闇の中で、ひときわその緑色の目が目立った。その時、キザワの記憶の底にあったある情報が、まるでハンマーでたたき出されたようにポンと湧き出た。
「そうか、きいた事があるぞ、お前は強化人類。その緑色の目がどうも引っかかっていたんだ。コウ、奴は普通の人間とは違う」
「な、なんです?」
 コウは、痛みを堪えながら言った。
 男は、あれだけ攻撃を食らったのに、立ち上がって口元をゆるめた。男は、笑ったのだった。よく見ると銃で撃たれた場所は、すでにかさぶたのようになって、血がでていない。
「その通り。俺はこの崩壊した世界で生き残るために選ばれた人類。そして、環境の変化に対応できない古い人類にあるのは、滅びだけだ」
 その言葉が終わる前に、男の姿は消えた。次の攻撃に移ったことは、明らかだった。しかし、キザワ以外にはその男の行動を目で追うことはできなかった。
「コウ!」
 男の目標は、コウであった。
 強烈なパンチが繰り出される。まるで、放たれた銃弾のようだった。
 金属がひしゃげるような鈍い音がした。
 だが、それはコウの顔面を直撃した音ではなかった。男の右手は、コウの顔のわずか右を通過していた。
 コウが、それをよせることができたのは幸運、または奇跡としか言いようが無かった。男の右手は、コウの顔のわずか数センチのところを通過すると、変電盤の薄い外壁を貫き破り、内部まで侵入した。それを見たキザワは声を張り上げる。
「2人とも今のうちだ」
 変電室を出て、3人は走り出す。


 
「先生、あの男は一体何者なんですか?とても普通の人間だとは考えられません」
「奴は、強化人類。昔、私が特殊部隊にいたころ、私の友人の12人からなる部隊が、ある抗争でたった一人の人間に壊滅させられた。かろうじて、生き残った隊員が言っていた。緑色の目をした人間にやられたと」
「緑色の目ですか」
 そこにいる三人には、先ほどの男の目が即座に浮かび上がった。
「彼は、その緑色の目をした人間は、見た目からは想像もつかないほどに、タフで身体能力もとても優れていると言っていた」
「あの男に特徴が一致しますね」
「強化人類とは、我々が、勝手に呼んでいただけだがね。架空のスーパーマンとして。その時は信じなかったし、今までも存在するなんて思ってもいなかった。しかし、あいつを見る限り……銃弾を何発も食らっても立ち上がる人間なんて見たこともない」
 キザワは、首を激しく振った。
「あの男はどうやって僕達を追ってきたのでしょうか?」
「生き残った隊員が言うには、強化人類は聴覚、視覚、嗅覚といった感覚器官も優れているらしい。本当かどうかわからん。しかし、例えそうだとしても今更驚かんが」
「ということは、僕達の話し声や、移動の足音や、においなどをたよりに追ってきたとうことですか?」
「そう考えられるな。連絡通路にでるまで後、少なく見積もって15時間はかかる。逃げ切るのは不可能だ。さっき戦ってわかった。奴は疲れをしらない。必ず追いつかれる」
 そして、キザワの言葉通り、男はすでに追ってきていた。3人の背後から、さっきの男の声が響いてきた。
「どこにいってもお前達の居場所はわかる。近くにいれば心音すらきくことができる」
 キザワは顔をしかめると、地図を確認する。そして、あることを思いついた。
「この先に、貯蔵室がある。そこに逃げ込もう」
「しかし、行き止まりでは?」
「奴と決着をつけるしかもう道はない」



 貯蔵室は長細い部屋だった。
 中はがらんとして、何もなかった。入った部屋の奥にもう一つ部屋があり、分厚い扉を介してつながっている。今はその扉は開いていた。そして、その分厚い扉から、ここは弾薬あるいはミサイルの貯蔵庫であったと推測できる。また、その部屋の壁を見てもそれはわかった。金属を打ち付けたその壁は、爆発が起きてもそれを最小限にとどめる役割を担っている。3人は入ってすぐの部屋で待ち構えることにした。
 コツ、コツとまたゆっくりと足音が鳴り響いた。
 キザワがコウとエルの前に進み出る。
「先生!」
「大丈夫だ、コウ」
 すると、キザワはLの方を向き、Lに近づいていく。Lはぎょっとしたが逃げるそぶりをせず、キザワが近くに来るのを待っていた。キザワは、Lの背にあわせて小さく屈むと、耳元で何かつぶやいた。コウには、その内容は聞こえてこなかったが、Lは話を聞きながら小さく何回か頷いた。
「先生、なんですか?僕にも教えてくださいよ」
 キザワは、近づこうとするコウに右手でちょっと待てと合図する。話が終わると、Lはじっとキザワの目を見つめた。そして、今度は深く一回だけうなづいた。
「先生、何を話してたんですか?」
 キザワは、二人より10メートルくらい前に出た。
「ここを出た後のデートの日程をきめていたんだ」
「ええ〜っ、ほんとに?」
 少し大げさに驚いてみたが、コウにはそれが冗談であることはわかっていた。だが、Lは真剣な顔で深くうなずいている。それをみてコウは少しがっかりしてしまった。
「くるぞ!」
 男は正面から堂々とした態度で部屋に入ってきた。あれほどの攻撃は無意味だというように。しかし、弾の当たった左足をほんの少しだが引きずっていた。男は前に出てきているキザワをみて言った。
「なんだ、またお前だけで戦うのか。それともその女が、またこそこそと銃で不意打ちをするのか?」
「もう、弾はない」
キザワは押し殺すような口調でいった。
「いいんだぞ、三人がかりでも」
「無駄口はいい。かかって来い」
「なんだと!」
 男の顔に殺気が戻っていた。
「お前達、立場をわかっているのか?」
「ああ、十分承知さ。それより君、さっきから無駄口が多いが、やっぱりもう限界か?」
「んだと!」
 男は、一気に飛びかかってきた。先ほどは足技中心で攻撃してきたのに対し、今度は上半身の攻撃主体で攻撃をしてきた。キザワにはいくつかその理由が思い浮かんだ。一つは、やはりナイフや銃弾での攻撃が、効いていると考えられた。そして、もう一つにキザワが男の自信の一撃を防いだことにあると見た。男は、そのために足を使うことを恐れているのだと。
 実際、男の目からは余裕のまなざしは消えていた。そして、男のパンチは、それはそれで威力のあるものだが、先ほどの足技に比べると、威力は雲泥の差であった。
 だが、その様な状況下でもキザワより男のほうが、戦闘能力が高いという事実は否めなかった。
 徐々に体力を失っていくキザワに、男の攻撃は確実にヒットしていった。キザワの鍛えられた筋肉は、赤くはれ上がり呼吸も一段と荒くなっていった。
 コウとLの2人は例のごとくその戦闘には割って入れず、息を呑んで先生を見守った。
「先生!」
 コウはもどかしくなって、つい声が出てしまった。次の瞬間、男の右足のハイキックがキザワの頭に炸裂した。
 まるでスローモーションのようだった。コウの叫び声にキザワは、反射的に視線を投げた。それは、ほんの一瞬で、一秒にもならない時間であった。だが、男が攻撃を繰り出すのには、十分すぎる時間であった。男の足は、恐ろしい破壊力を持ってキザワの顔面へと襲い掛かった。ハイキックをノーガードでくらったキザワの体は、音叉のように振動した。だが、キザワは倒れなかった。
 キザワの頭からはおびただしい量の血が流れ、また右目は開いていなかった。コウは、変わり果てたキザワをまともに見ることができなかった。
「どうした。おっさん。さっきから元気がないな。やっぱ年か?」
 キザワは、ちらりとコウの方を見た。
(……先生)
 戦闘において勝者とは、相手を起き上がれないまでに叩きのめし、最後に立っている者のことを言う。だが、勝利という意味においては、違ってくる。
 そのことを知っているキザワは、戦闘能力こそ男より劣っていたが、はるかに勝利に近かった。
 キザワは男に真っ直ぐに向かっていった。安直な行動は、男のパンチをもらう結果へとつながった。が、キザワはそれにもひるまず男の体にタックルをするように飛び込んでいった。男は後ろに追いやられる。そして、二人はもつれるようにもう一つの部屋へと入っていく。
「今だ!」
 キザワはそういった。その後、コウの目に信じられない光景が映った。
 Lが扉を閉め始めたのだ。
 その1m以上の厚さを持つ扉は外から開けることができるが、中から開けることはできない仕組みになっている。それは、潜水艦のハッチにもにていて、バルブがついている。Lは力いっぱい扉を押した。
「まってエル!先生がまだ中に!」
 Lは、邪魔をしようとするコウの顔面に肘鉄を思いっきりくらわせた。めがねが吹っ飛び、コウは悲痛の声を漏らす。
「エルやめて!先生がまだ中にいるよ!」
 そのことに気づいた男は、キザワを振り払うと扉のほうへ向かおうとした。
「やめろ!はなせ!」
 だが、男のその動作をキザワは止めさせた。Lは扉をしめると、バルブを回して、完全に閉めようとした。めがねのないコウは、Lを力ずくでも止めようとした。だが、遠近感が定まらず、バランスを崩しその場に倒れそうになる。そして、そのままLの足にしがみ付いた。
「エル!止めてよ!お願いだ。先生がまだ中に!」
 Lは、力の限りバルブを時計回しに回した。中からどんどんという、扉を叩く音がした。しかし、その扉はびくともしなかった。Lはめがねのないコウの手を無理やり引っ張って、貯蔵室から出た。
「せんせ!先生が!エル、放してよ!先生が」
 完全に貯蔵室からでると、Lはコウの腹に、できる限りの力を込めて膝蹴りをした。それは、コウにとって予想もしなかったことと、またあまりの痛みから数秒の間呼吸ができなかった。
「少し冷静になれ!あの男がこうするように私に言ったんだ。こうするしか方法がないって!」
 コウは地面にひざをついて、腹をおさえながら苦しそうに言う。
「じゃ先生は、僕達のために、犠牲になったの?そんな、先生、なんで?う、うっ」
 こみ上げてくる感情を、押しとどめることなどできなかった。コウは、涙を流して泣いた。その泣き方は、小さな子供のように無惨で、Lには見ていることすら耐えられなかった。
「泣くな!まだ、すべて終わったわけじゃない。すぐにここから去る。泣くのは後にしろ」
「だって悲しいだろ。エルは悲しくないのか?」
「私は……私は……悲しくない。あの男が死んでも、まったくかまわない。私には関係ない」
 関係ない。その言葉は、コウにとって許しがたい言葉であった。コウは起き上がり、Lの細い肩を握り締めた。興奮したコウの握力は強力であり、Lは一瞬顔をしかめた。
「僕らを助けてくれたのは先生だぞ!それを君は、……なんでそんなに涼しい顔をしてられるんだ!冷血女!」
 その言葉でLの表情が一変した。Lは、肩をつかんでいたコウの手を払うと、食いつく様な勢いで言った。
「今更笑わせるな!私が冷血だから、あいつは私に扉を閉めるように言ったんだ。お前なら絶対ためらっていた。そして、今ごろみんなやられている」
 コウは、その言葉に我を見失いそうになった。気が付くと右手を握り締め、Lの頬にぶつけようと振りかぶっていた。Lは叩かれると予想し目をつぶった。
 だが、Lのその顔が目に入ると、コウには理性が働いた。振りかぶった手をそのままにするように必死にこらえた。
 数秒間、静寂があった。
「どうした?叩かないのか?」
 片目を開けてLが尋ねる。
「君は、叩かれてもいいのか?」
 押し殺すようにコウは言った。そして、まだ興奮がおさまっていないコウとは正反対に、冷静な口調で言った。
「理由はどうあれ、私はお前の先生を見殺しにしたことになる。気が済むまで殴ればいい。または気の済むまで私を犯せばいい。それで、貸し借りはなくなる。そうしたら、私達は他人。私は行く」
 Lは、ある程度のことを覚悟した。それはそのほうが気が楽だったからだ。Lは、自分が目の前の弱い男に何かを感じていることに気づいていた。それは恋愛感情ではなく、また仲間意識でもなかった。それが何であるのかは、今のところまったくわからなかった。だが、それの気持ちが大きくなればなるほどに、辛い想いをすることはわかっていた。だから、最悪の別れを望んだ。
 コウはそっと手を下ろした。
「君は僕と一緒に来るんだ」
 予想もしなかった返事に、Lはぽかんと口を開けた。そして、その意味を十分に理解すると、大きなリアクションをとった。
「いやだ!私は誰とも関わりたくはない。誰かを信じて、裏切られるのはもういい。私は一人で行く」
「行くって、一体どこに?だって君は」
 IDを持たない非市民だろ、と続けそうになったところをコウは寸前で堪えた。Lは、コウの胸倉につかみかかると、きっとした視線で睨みつけた。
「そう。私はスラムにいて自分のために人殺しを何回もやってきた女。その前は、小さな都市で、お金のために自分の体を売ったわ。その前は、おもちゃだった。私の苦痛の表情を見るのが好きなお金持ちのね。その前は刑務所にいた。いやな女の監守にさんざんいじめられた。お前はくずだ、くずを殴っても誰も気にとめないって。その前は盗人だった。小金や食べ物だけを盗んでた。警官につかまると、見逃す代わりにお金を要求されるの、お金がない時は、もう悲惨で、とてもいえない。その前は……」
「エル」
 コウは弱弱しくその名前を呼ぶ。
「みんな最初は私に友好的な素振りで近づいてきて、私に言うことをきかせる。私が安心していると急に態度を変えて、私を傷つけ始める。みんなそうだ。もう、誰も信じない!お前だってそうだろ!そうやって私を安心させて、後でひどい目にあわせる!」
「エル、もういい。もうよそう」
 コウはとても悲しい気持ちになった。
「君が僕を信用しないのは勝手だけど、とにかく連絡通路まではいっしょにいこう?このままここにいちゃ、先生のしてくれたことを無駄にしてしまうよ」


 二人は、その先を一緒に進んだ。しかし、歩いている途中も、休憩のときも、軽い食事のときでさえも、なにも話さなかった。Lは無表情であり、コウはなにやら考え事をしていた。
 それから数時間が過ぎ、二人はついに連絡通路にでた。
 車両専用のトンネルなので歩行者用通路などなく、車両が通るために道路のみが存在した。人間が歩いていたら、トンネルの壁にぴったりと付いていなくては、車両が通行した時に、接触してしまうのではないかという位の横幅しかない。今は深夜にあたる時間帯なので、車両の通行はほとんどない。10メートルおきに設置してある蛍光灯が、明るいオレンジ色の光をこうこうと放ち、退屈なトンネルのみを映し出している。
 ときたま、排気口から流れてくる生暖かい風が、二人をやさしくなでた。
「出られたんだ」
 コウは言った。それと同時に、涙があふれそうになった。それが、生きて出られたことからくる喜びの涙か、それともキザワを見殺しにした悲しみからくる涙なのか分からなかった。コウは零れ落ちる前にそれをぬぐった。
 Lも同じように、ここまでたどり着けたことにある種の感動を感じているようだった。
 だが、やがてどこかに勝手に歩き出そうとした。それは、コウの行きたいチェインの方向とは逆の方向であった。コウはLの肩に手を伸ばす。そして、しっかりとつかむ。Lはいったんは立ち止まったが、無視して歩き出そうとした。
「エル」
 コウはやさしく語りかけた。Lは、思わずコウの方へ振り返ってしまった。コウの顔は泥で汚れていたし、髪の毛もさらに乱れていたし、スペアのめがねもいまいちにあってなかった。コントの落ちの後の芸人のようないでたちであった。でも、Lはコウの話を聞き入ってしまった。
「僕はずっと考えていたんだ。ここまで、くるまでずっとさ」
 コウはずり落ちためがねに手をやる。
「それはさ、君がボロボロのまんまでへたり込んでいるからじゃないの?君がどんな過去を過ごしてきているのかは僕はわからない。けど……意思さえあれば、どうにでもなると思うよ。どうかな?僕といっしょにいこう。……エル」
 Lは下を向いて黙り込んでしまう。が、やがてゆっくりと顔を上げる。
「お前のやさしさは、どのくらいの代償が必要なの?」
 Lの質問に対して、コウはゆっくりと答える。
「やさしさに、代償はいらない。やさしさはそういものだよ。誰でも与えることができるし、与えられることもできるものだと思うよ」
 コウは、そこまで言い終わると、少し首をかしげてはにかむように言った。
「エル……君が与えられたやさしさを恐れるなら、やさしさを与える側になってみるといいよ。そのときの気持ちを、確かめてごらんよ」
「私がやさしさを与える?他人に?……私にできるの?」
「ああ、もちろんだよ」
 Lの表情は、徐々に変化していった。その変化は本人の意識したものではなく、体が自然に反応したといった感じだった。
「初めて笑ってくれたね」
 Lは自分が今、変な表情をしているのに気づいた。あまりした事のない表情。
 コウにその表情を見られたくないので、下を向いてしまった。そして、その動作は先ほどのコウの質問への返答を、やりづらいものにした。答えはもう決まっているのに。
 ただ、一言「はい」と言えばよかった。または、無言でうなずくだけでもよかった。だが、Lは自分の意思をはっきりとした形で伝えたかった。それは、Lが本当に望んだことだから。
 Lは、体の動きに任せた。
 小さなLの体が、コウの体に吸い込まれるように近づいていき、そして、二つの体は接触した。
 Lは、コウの体に横からしがみつくような体勢で抱きつき、コウの横腹に顔をうずめたのだった。
 Lのその行動は、コウを驚かすのに十分すぎる奇襲であり、声をあげて驚くことすらできなかった。そのまま抱きしめていいのか?恋人同士じゃあるまいし嫌がられないのか?横からの意味があるのか?コウの頭の中にたくさんの疑問が渦巻いた。対処方法を探すため、自分の今まで読んだ教科書、小説、雑誌、漫画、あらゆるものから同じような場面を検索したが、一致するものは見つからなかった。
 Lは、まだ抱きついたままであった。
 そして、コウはその時になって初めて知った。Lは、自分よりもはるかに小柄であるということを。
 コウは、恐る恐るLの肩に手をまわした。コウの大きな手が、Lの肩の上にのると、Lは一瞬驚いたように体を震わせたが、さらに深く顔を埋めた。
 やがて、Lは呟くように言った。
「ありがとう」
 その言葉は、コウの体の深いところまで達した。そして、今まで自分に対してどこか信頼が置けないコウに、ある感情の変化をもたらした。
 コウの体は自然に動き出した。あくまで自然に。
 その時、コウの耳に遠くからくる車両の音が聞こえた。だが、コウはその動作を止めることなかった。


 運転手は、気が立っていた。
 それには、様々な原因があったのだった。上司の横暴な命令のせいであったり、睡眠不足のせいであったり、また最近かわいくない態度をとるようになった娘のせいでもあった。
 男の脳裏に、今朝の光景が浮かんできた。どこかへ出かけるように支度をしていた娘に対して、どこに行くかと男は尋ねた。しかし、娘はその呼びかけに反応すら示さなかった。大事な一人娘に、初めてそのような態度をとられた男にとって、一番の原因はそれであったのかもしれない。
 男は、アクセルをさらに踏み込んだ。
 エンジンが唸りをあげ、次の瞬間、慣性力により男の体は後方にひかれた。運送会社の大型車両運転手という身分でありながら、男がこのように社の規則を破る乱暴な運転をすることは、とりわけ珍しいことではなかった。
 男の操る大型車両は、オレンジの空間を放たれた矢のように突き進んだ。
 自虐的になることが、傷を癒してくれると思い込んだ男にとって、法廷速度の1.5倍の速度を出すことはちっぽけな事に思われた。
 カーブに差し掛かってもその速度は落ちなかった。
 だが、男がカーブを曲がろうとハンドルを左に回したとき、視界に小さな影が映った。それは、フロントガラス右端に付けられていた小さな熊のぬいぐるみだった。40歳を超えたこの男の車両に備え付けられているそれは、同僚には笑われこそしたが、男にとっては自慢でもあった。なぜならば、それは娘が初めてバイトで稼いだお金で、プレゼントされたものであったからだ。手にハンドルを持ったその熊のふくよかな顔が、娘の顔に重なって見えた。
 男は、アクセルを踏んでいた足の力を抜いた。そして、ハンドルを握る片方の手を放して、ぬいぐるみを軽くつまんだ。最近、車内を掃除していないせいか、指にほこりがついた。
 男は、苦笑いをし、そのぬいぐるみから手を離した。
 そして、その時だった。
 男の視線の先に、影が見えた。それは、車内ではなく、明らかに進行方向に存在し、オレンジ色の単調の空間内ではとりわけ目立った。だが、ぬいぐるみに気がとられていた男が、それに気づいたのは影まで数十メートルのところだった。
 そして、その数十メートルは、そのスピードに対する停車距離よりはるかに短かった。
 普通のドライバーであれば、取り乱してしまう場面であった。だが、20年以上の間、無事故を誇りとしてた男の体は、もっとも適した動作を行った。
 男は、力いっぱいブレーキを踏み込んだ。
 ガラスを引っかいたときに生じる嫌な音が、その空間に鳴り響いた。その音は、女の叫ぶ声のようにも聞こえ男の不安を増幅させた。
 それでも男は、祈る想いでひたすらブレーキを踏み込んだ。その男の想いに重なるように、見えないところでアンチ・ブレーキ・システムは、急ブレーキを探知し、一旦はタイヤの回転を回復させるためにブレーキ力を弱めたが、すぐに最適のブレーキ力を車両に与えた。
 やがて、車両は止まった。
 男は、恐る恐るゆっくりと顔を上げた。
 フロントライトの照らされ、一つのシルエットが浮かび上がった。男は、それに向かって叫ぶでもなく、またクラックションを鳴らすわけでもなかった。ただ、黙ってそれを見つめた。
 それは正確に言うと2人だった。
 大きな影と小さな影。
 コウとLは、痺れを切らした運転手にクラックションを鳴らされるまで、そのままでいた。
                                                                        
 了
  


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