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「私がもっとよく彼女の話を聞いていれば……どうして私だけが生き残ってしまったのだろう」
女は唇をかみ締め、頭を垂れた。目じりから大粒の液体が零れ落ち、衣服に染みを作った。
「火をつけた後、私がもっと早く屋敷をでていれば彼女が助けに来ることがなくて、二人で逃げ出せたのに。炎が私達を襲ってきて、彼女だけがのまれてしまった。私の方が生きている価値なんてないのに!」
女の絶叫ににも似た叫びが、狭い部屋に響き渡った。男はこれほどまで悲しみに満ちた叫びを聞いたことが無かった。
「彼女にあやまりたいよ! 私が私でいる最後の時間をできることならばあやまりたかったよ。でも、できないんだよね。だから、この感情を早く消して欲しい。この体の中にある鉄のように固くて冷たい感情を早く消して」
その後、彼女のすすり泣く声だけがその空間に存在した。
男は腕時計の方へ視線を落とした。女がコーヒーを口にしてから丁度五十分経過した。そろそろである。
女の目の焦点が、あわなくなっていった。呂律の回らない声が小さくなっていき、脱力するようにまぶたを閉じた。
男は女に手渡したコーヒーに遅効性の睡眠薬を入れていたのだった。最後の瞬間は知らないうちに終わらせてあげたいという男のささやかな行為だった。
男は女が完全に目を閉じたのを確認すると部屋を出た。
ディスクにつき、ディスプレイに視線を落とした。後十二分でシステムの変更が終わる。背もたれに思い切り寄りかかり、彼女の話を思い出してみる。
やりきれない思いだった。
しかし、男にできることなど何も無かった。あるとすれば、処置を終えた彼女が幸せに暮らせることを祈ってあげることくらいであった。彼女の友達もきっとそう思うに違いないと思った。
システム変更までの時間が十一分になった。
男はマウスを手に取り、女の情報が格納されているフォルダを開いた。普段、処置を受ける人間に対して興味を抱くことはなかったが、彼女のストーリーはあまりに衝撃だった。
男は最新のフォルダをダブルクリックし、中から彼女の情報を探した。
No1459699Dが彼女の認識番号である。たくさんの犯罪者リストの中からそれをクリックする。ハードディスクが囁き、すぐに彼女に関する情報がディスプレイに映し出された。
本名不明。年齢不明。女。出身地不明。その下には目を通すもの苦痛なくらい多くの犯罪暦が並べられている。
殺人、放火、傷害、それらの文字は男に不快感を与える。男はそれらの文字をまともに見る気にならなかった。
「彼女がこんなにも多くの犯罪を犯したのは屋敷を抜け出してからか? だとしたら、彼女をここまで追い込んだのは屋敷の人間達? いや、そんなに単純な話じゃない。それはきっかけの一つにすぎないのだろうな。もっと、深い闇が彼女にはあった。それはやはり」
男はそこで言葉を止めた。彼女に起きた出来事、彼女の生き方、それらはちんけな推測によって解明できるはずはないと思ったからだ。いや、解明しようとすることさえ馬鹿げているように思えた。彼女のストーリーは誰も知らないところでひっそりと幕を下ろすべきだと男は思った。彼女のストーリがつまらなく価値が無いという意味ではない。そこは誰も踏み込んではいけない神聖な領域のように思えたからだ。
男は彼女の上半身が写っている画像を眺めた。正面、右から、左からの三つのショットがこのファイルに載っている。犯罪者というには儚く静かな輪郭は気品さえ感じられる。露出した細い肩は艶やかしくさえ見えた。
もし、男が何も知らない状態でその写真を見たら、心の奥に存在するある種の感情が微妙にゆれていたはず。だが、今はとてもそんな気分で見ることはできなかった。腕だけでもあざや古傷が多く見受けられた。それらは彼女が受けた暴力を物語っている。
「ひどい」
男は思わず声を漏らした。同時に怒りの感情がこみ上げてきた。今、隣の部屋にいる彼女は長袖を着ていたために、その傷痕を確認することはできなかった。そのため随分昔の話を聞かされていた気分だった。彼女の話の舞台はそんなに遠くではなかったのかもしれないと思った。
特に右肩の傷跡は醜い。刃物でえぐったように深くて大きかった。
「体に受けた傷は治すのは簡単だけど、心の傷は治りにくいって話は割と当てはまらないな。体に受けた傷もこんなにも残るんだもんな。きっと、ずっと残るだろうな。かわいそうに」
その傷はずっと眺めていると文字のようにも見えた。
「E,I」
その二文字を形成しているように見えた。
「そういえば、名前を彫ったとか言ってたな。もしかしてその時の傷かな? もっと、二人が早くわかりあっていれば、こんな傷なんてなかったはずなのに」
突然、部屋に軽快な音楽が響き渡る。その爽やかなメロディはシステムの変更が終わったことを知らせるためのものであった。ディスプレイに終了を示すウインドウが表示されている。
「やっと、終わったか」
男は疲れた足取りで装置に歩み寄る。装置の履歴をじっくりと読み、問題が無いことを確認する。やがて、安堵の息を漏らした。
「よし、大丈夫そうだ。しかし、何でさっきエラーがでたんだろ? まぁ、ログは取ってある。後で業者に問い合わせないと。とにかく、今日はもう考えるの止そう」
しかし、考えることを止めようとすればするほど、頭の中に考えが浮かんでくるのは避けられないことであり、男の頭には今日中に終わらせなくてはならない仕事が次々と浮かんできた。
「報告書が四つに学会用の要項か」
ため息混じりの声はその空間に消えていった。気が狂いそうなほどに整然と区画された室内には、単調なCPUファンの音のみが存在した。
男のするべき作業は後二つだった。まず、女のゲノム情報を装置に取り込む。その後、装置で女の情報を書き換えて元の肉体へ戻す。それだけで十時間後に目覚めた時、女は別人格を持った人間になっている。二つの作業は数分で終わらせることができる。
男は軽く背伸びをした後、勢いよく黒いボタンを押し込んだ。装置のハードディスクが音をたて、処理を始める。彼女の情報を取り込む作業である。
「これであの子は空っぽ」
数秒後、装置上部にあるLEDが緑色を点灯させた。最後の準備ができたことを意味している。男は装置の右端にある小さなボタンの上に軽く手を添えた。男にとってはもう数え切れないくらい体験したことであった。しかし、何度同じ場面になっても言葉では表現できない感情が湧き上がってくる。
人の命を奪う。
その言葉と必ずしも同義ではないが、結果としてそこにあるのはまったく同じだった。男がそのボタンを押せば彼女が彼女であったという証拠、すなわち彼女の記憶はすべて消える。決して楽しい記憶ばかりではなかった。だが、そこには小さな光もあったことも確かだった。
「これを押せば、彼女は違う彼女になる。彼女の抱えていた感情も消える」
男は彼女の話をもう一度思い出す。
あまりに悲しいストーリーだった。
同じ境遇でありながらも、なかなか分かり合えない二人。やがて、分かり合っても簡単に引き裂かれてしまった。自分だけが生き残り、消えることのない重りを背負うことになる。
彼女が最後までわからなかったこと。
人間の誰もが抱えることになる負の感情。それを消す方法だ。彼女は自分が消えることによって、それを消すことができた。
「それは誰にもわかるはずない。わかるはずなんて。人間って、自分で自分を癒すことができない生物なのかもしれないな。体の傷、それに……これから上手くいくといいね」
男は目を閉じると、ボタンを押す手に力を込めた。ボタンは音を立てずに、ゆっくりと沈んでいく。
しかし、その途中で手が止まった。男の脳裏にある言葉が浮かんだ。
『私は、刃物を使って彼女の右肩に私の名前を刻んだんだ』
彼女の言葉だった。
ある違和感が男の脳裏に影を落とした。さっきまで話した女は、友達の右肩に名前を刻んだ。しかし、さっきまで話した女自身に名前らしき傷跡がある。
矛盾が生じてくる。
男は女の話をもう一度頭の中で再現した。しかし、その矛盾はさらに深いものになる。
男は自分の目で本当にE,Iという文字なのか確かめようとした。光の加減でそう見えたのかもしれないと思った。しかし、男が隣の部屋を窓からのぞいたとき、全ての拘束具は外されており女の姿はなかった。
「な、彼女は?」
男がその言葉を口にしたときは、すでに遅かった。男の体が風に吹かれた羽のようにふわりと宙に舞った。その時は男が自分の身に何が起きたのか理解することはできなかった。
次の瞬間、男は腰に激しい痛みを感じた。男の体が硬い床に叩きつけられたのだった。
男はその苦痛を叫びという形で外へ発散しようとした。だが、男はその動作が上手くいかないことに違和感を感じた。口の中に異物が入れられていたからだ。悲痛の叫びは音として外へ漏れることは無かった。
男が状況を確認するまでもなく、次の動作はなされた。男は再び体が宙に浮く感覚を得た。その途中、男の視線は隣の部屋への扉へと向かった。
扉は開かれていた。
男の体が床に叩きつけられ、再び激しい痛みが襲ってきた。今回も男の叫びが外へ漏れることを口の中の異物は妨げた。男は知らなかったが、すでに両手は後ろで縛られており、これからの行動はかなり制限されていた。
「大人しくしてくれれば何もしない」
その言葉が男の耳に入ってきた。だが、そのような状況下で平常になれる人間などいるはず無かった。男は感情の赴くままに大声を出そうとした。しかし、その動作はすぐに中断された。
男は首筋に冷たい物体が触れていることに気づいた。カッターであった。それは男の机の上に置いてあったペンケースに入れられていた物であり、人間の皮膚を裂くくらいなら十分すぎる切れ味を持っている。安物のカッターは男を冷静にさせるという事においては、激しい痛みよりも数倍に威力があった。
男は首を上下に振った。
なされるがままに仰向けにされて初めて、男はこの一連の悲劇が誰によってもたらされたのか理解した。
彼女であった。
彼女は仰向けになった男の上に馬乗りになるようにのると、ゆっくりと顔を近づけた。その距離は接吻するように近く、息遣いでさえ聞こえてくるようだった。
男は女の栗色の目の中に、怯えきった自分の顔を見た。あごを小刻みに震わせ、今にも泣き出しそうな子供のような目。
女は細い指をゆっくりと男の顔へと持っていった。肩をすくめ恐怖におののいている男には、その手のもくぬくもりは伝わらなかった。女は男の口に詰め込まれていたものをずるずると引き出した。唾液と血で汚れたそれは、女が身に着けていた肌着であった。
「な、何?」
男の口から出た言葉はそんな弱弱しい声であった。
女は無表情のままで男を見つめた。女のその動作は、金縛りの魔法のように男を固まらせた。男は頭の中であらゆるシミュレーションを行ってみた。だが、どんな行動を取ろうとも危険があることは、明らかだった。そして、その危険とは死に直結しているということも。
男は何もすることができなかった。いや、一つだけあった。それは何もしないことであり、それこそが自分の命を延ばす最善の選択であった。男は生まれて初めて体の奥からこみ上げてくる恐怖にかられていた。
男は彼女の顔を見た。
魂という生の証がこもっていないような乾いた表情。細められた目は人形のようにただただ男を見つめていた。そこには興味、関心、ましてや狂気や殺気すら存在しなかった。絶望的に無機質で、本当の無がそこにはあった。
一人の人間として生を受けてから、真っ当な道を歩んできた男にとって、このような雰囲気を持った人間は初めてだった。
が、やがて、女のその顔がやさしい顔へと変わっていく。
「大丈夫。あなたに危害を加えることが私の目的ではないの。だから、私のお願いを聞いて欲しい」
女は男の頬に軽く手を当てた。
「あの子を消さないで」
「あ、あの子?」
「狡賢くて頭のわるいあの子」
「あの子?……E,I?」
「そう、この右肩に彫ってある名前の持ち主」
女は右の袖を肩までめくった。細い腕にはたくさんの傷痕があった。長い傷、短い傷、浅い傷、深い傷。ちょうど肩の辺りに谷のように深く荒い傷痕があった。それははっきりとE,Iと読むことができる。
「ちょ、ちょっと待って。名前を彫ったのは君じゃないのか? 君がE,I? いや違う? 君は一体?」
「数分前、あなたが話していたのはあの子の人格。でも、この体と今の人格はあの子の友達。あの子のためにたくさんの人を殺した殺人鬼。この体は本当は私のもの」
女は自分の胸に手を当てながら言った。
「あの屋敷を爆破した後、待ち合わせの場所にあの子は来なかった。逃げ遅れたことは明らかだった。私は炎が燃え盛る屋敷に戻って、あの子を助け出そうとした。私はあの子に爆破の手伝いを頼んだから、居場所はわかっていた。だから、私があの子のところまで、たどり着くのにそう時間はかからなかった。そこで私は予想通りの光景を目にした。あの子は爆発のショックでその場に倒れこんでいた。私は意識の朦朧としていたあの子の手をひいて何とか屋敷を脱出しようとしたけれど、火が強すぎて」
女は唇をかみ締めた。
「まわりを火で囲まれたの。逃げられないのなら、二人で一緒に死のうって思って抱き合った。覚えているのはそこまで。気が付いたら私は病院のベッドの上。あの子は死んでいて、私の人格はあの子だった。私はずっと、表にでることはなかった。何でそうなったのかはわからない。ただ、あの時、私はあの子の死を受け止められなかったからかもしれない。炎の中で死んでいくあの子のことを」
女はそこまで言うと、口を閉じ視線を落とした。
「多重人格障害。だから、エラーが生じたのか」
男は誰かに伝えるでもなく小さな声で言った。
「あの子の人格はそれを気づかなかった。あの子は私が死んで、自分だけ生き残ったと思ってた。でも、生きているのだもの。私はそれでよかった。あの子という人格が残っていれば、幸せになれるかもしれない。それでいいと思った。でも、この体は犯罪を犯したことのある体だった。私はあの屋敷に行く前にたくさんの犯罪を犯して、誰にも姿を見せないように生きてきた。だけど、あの子の人格はそのことをわかっていなかった。わかるはずないわ。私の存在はいつもあの子を邪魔する。あの子、屋敷から抜け出せたのはいいけど、ある町で簡単に捕まったわ。私にはたくさんの容疑がかけられていたから。あっけなく有罪が決まってAランクの犯罪者に認定。その後、人格矯正を施す。そして、今がその矯正の最中だった。あなたがあの子の人格を一時的にあの装置に取り込んだから、私の人格が出ることができたのだと思う」
男は恐る恐る彼女に尋ねる。
「君は一体何を望んでいるの?」
「私の望みはあの子を消さないでほしいということ。新しい人格を書き込まないでほしいということ。あの子は犯罪なんて何もしてないの。確かにずるいところがあったり、変わったところもあったけど、私みたいな人間ではないの。人格を変えなくても十分に生きていける。誰にでも受け入れられる人間なの」
女はそこまで言い終えると、再び男の顔を正面から見据えた。それは大量殺人者の目ではなかった。その目には、優しさ、温もりといった人間という生物のみが持っている感情が込められているようだった。
「彼女は、あの子は自分のせいで君が死んだと思い込んで、ずっと悔やんでいた。その負の感情を消すためには自分が消えればいいと思っていた。あの子にとって消えないことは幸福なのか? 俺にはまったくその答えがわからない」
男はそのままの体勢で大きく首を振りながら言った。
「体は私だけど、それでも何かを感じたり、考えたりできるんだから、消えてしまうよりずっといい」
女がそういい終わった後、少しの静寂があった。男は正直戸惑っていた。今後の選択によって自分の命がどうなるかということではなく、彼女の望んだ選択が最良であるのかどうかということであった。
だが、やがて男はその静寂をゆっくりと破った。
「わかった」
男はしっかりとした口調でいった。
女は視線を上げると、わずかに首を傾けた。
「ありがとう。話の通じる人でよかった」
女はゆっくりとカッターを男の首から放した。
「どういたしまして。信じるよ。二人のこと」
男は二人と言った。それの意図するところを察した女は、喜びを押し殺すように胸のあたりを握った。
「ほんとにあなたでよかった。それと」
女はまだお願いがあるといった感じで申し訳なさそうに言う。
「ああ、わかってる。君の人格を消すんだろ?」
女はゆっくりとうなずく。
「私はあの子のことが好き。私はそのためだったら消えてしまうことは怖くない。あの子に恩返しをできるのだから。それに私が残っていたら、おかしなことが起こるかも知れない。一つの体に二つの人格。あの子にはそんな想いをしてもらいたくない」
女はゆっくりと立ち上がり、隣の部屋へと戻っていった。
最後の瞬間を迎えるまで、そう時間はかからなかった。女は再び椅子に座り、装置が起動したところで静かに切り出した。
「ねぇ? 後どのくらい私でいられるの?」
男は大げさに袖をまくり、腕時計に目をやった。
「そうだな……後少しかな?」
男は小さな声で一言一言を区切るように言った。
「そう」
女は顔を上げ素っ気無い言葉を返す。ゆっくりと男の方に顔を向けた。
「ねぇ? 私にとって、あなたが最後に話す人間になるわね」
男は何も言わずに女を見つめた。そこにあるのは死神と呼ばれる人間にふさわしくない優しい目だった。男は気がついていなかったが、その内面も死神という名前とは程遠かった。
「最後にもう一つだけお願いがあるの」
「ああ」
男のするべき作業は、すでに終わっていた。幕を下ろそうと思えばいつでもできた。
「ずっと、言えなかった秘密を聞いて欲しいの」
男は女が信用に値する人間であることは分かっていた。彼女が重犯罪人であろうが、乱暴され刃物を喉に突きつけられようが関係なかった。男は彼女の中にある人間を感じていた。
「ああ、かまわない」
男は、優しさに溢れた声でいった。
「実は私は屋敷で出会う以前にあの子に出会っていたの」
予想もしない言葉が彼女の口から生まれた。大きく見開いた目で、男は彼女を見つめた。
「私が大体十歳の半ば頃、その日を生きることに困って何でもした。でも、その頃はまだ殺人なんてしたこと無かった。あの頃の私は、まだどうにかなると思っていた。あの頃の私はこんな風になるなんて思ってもいなかった。まだ夢があった」
女はゆっくりと目を閉じる。
「でも、ある出来事のせいで、その一線をこえてしまうことになった。ある時、その世界で有名な臓器ブローカーが私に取引を持ちかけたことがあった。成人した大人の女一人持ってきたら、それなりの報酬をくれるって。あなたは知らないと思うけど、そういった有名なブローカーに目をつけてもらえることはとても光栄なことなの。とても大きな後ろ盾ができることと同等のことだから。それは夢への一番の近道のように思えたの。だから、私はどうしても自分が有能な人間であるということを見せつけたかった。だけど、あの頃、私は大人を狙った誘拐はしたこと無かった。誘拐が日常茶飯事で起きていたあの町では、それを防止する対策も厳重にしてあったから」
女は信じられないくらい穏やかな表情だった。
「そこで私は考えた。あの敗戦国の連中を狙えばいいって。あの国の人間が一人いなくなっても、誰も何も気にしないと思った。それである女を目標にした。とても美人で健康でブローカーも喜んでくれると思った。時がくると私はいつものように何も考えないで実行した。その女の暮らしていた小さな宿舎におし入って……初めての誘拐にも関わらず、完璧な作業だった。数分でしかも音をあまりたてることなく終了した。でも、その女を入れた大きなケースを持って宿舎を出ようとしたときだった。入り口から小さな子供が姿を現した。予想外の出来事だった。騒ぎ出す前に気絶させてだまらそうかと思った。でも、できるはずないわ。できるはずなんて」
女はそこまで言い終わると首を横に振り、トーンを一つ上げた。
「だって、その子供は言ったの。お母さんのかわりに私を連れて行って! 私は頭が真っ白になった。私はケースを持って逃げ出した。その後、その子がどうなったのなんてしらない。知りたくもなかった」
「まさか、その子が彼女?」
女は深くうなずき、ぐっと息を飲み込むと、一気に言葉を吐き出した。
「そのとき初めて、私はあることを知ったの。親が子を守りたいと思っているのと同じように、子もまた親を守りたいって思っているということを。でも、遅すぎたのね」
男は彼女のプロフィールに書かれていた最後の一行を思い出した。
妊娠、出産の形跡あり。子供の消息は不明。
「あなたはもう知っているでしょう? 私に出産の形跡があることを」
男は黙ったまま視線を落とした。その動作は一見否定に見えたが、明らかな肯定だった。
「そう。そんなこと簡単に分かってしまうのね。でも、あなたは私の生んだ子供がどうなったかまではしらないでしょう? 私はね。それ以前に臓器ブローカーに自分の子供を売ったことがあるの」
あまりに冷たい口調だった。その言葉は男の足元を一瞬で消し去り、一気に冷たい谷底に叩きこんだ。
「どうして、そんな」
男は窒息死する直前のような声を出した。
「あなたにはわからないかもしれないけど、それが最も低リスクで最もリターンが大きかった」
男は耳をふさぎその場にがっくりと崩れた。その言葉は、男が生きてきた中で最も残酷な響きに聞こえた。
「ごめんなさい。こんな話をされても気分が悪くなるだけね。でも、どうしてもあなたに聞いて欲しかった。私が今の私でいる頃の話を。こんなどうしようもない私でも、存在していたことを誰かに知ってもらいたいの」
私が今の私でいる頃の話。その言葉だけが地面に倒れこんでいる男の耳に特に強く残った。
そうなんだ。俺は彼女の最後の時間を看取らなくてはならない。男はそう心の中でつぶやいた。気持ちを持ち直し、ゆっくりと立ち上がった。
「大丈夫?」
男は女の心配のこもった声に対して、片手で大丈夫と合図を送った。女はそれを確認すると再び話を始めた。
「それまで私は自分が生んだ子供をただの商品としか考えていなかった。自分の体の一部だったとしても、誰の子供なのかまったく分かりもしなかったから。でも、その子供との出会いでそれがどんなに愚かで馬鹿げた考えであるのかを知ったの。子供は親の体の一部ではないし、ましてや商品なんかではないの。私は今までしてきたことを心から後悔した。同時に私にそんな考えを植えつけた臓器ブローカー達に激しい怒りを感じた。私は手始めに私の後ろ盾になるはずだった有名な臓器ブローカーを殺したわ」
男はその一瞬を見逃さなかった。今までどんな残酷なことを話しても、冷ややかな表情を変えること無かった彼女に初めて、怒りという感情が垣間見えたことを。
「それからはほとんど何も考えなかった。私は次々と臓器ブローカーを殺していった。ねぇ? 私が殺した人間の中には政治家や役人、企業の重役が多くいたでしょう? あの中には副業でそういった犯罪行為を行っていた人がいたのよ」
「なんだって!」
「でも、勘違いしてほしくないの。私は決して正義のためにやったわけではないの。私は自分の中に芽生えた負の感情を消すためにそうしたの。たくさん殺せば殺すほど、私の中の負の感情は薄れていくような気がしたから。その証拠に私は目標の人物を殺すためだったら手段を選ばなかった。周りにいる人が巻き込まれて犠牲になろうが関係なかった」
彼女の目に再び怒りという感情が垣間見えた。
「私はそういった臓器売買に少しでも携わった人間を探し出しては殺した。そして、ある時もう殺す人間が、いないことに気づいたの。最初に人を殺してから約十年は経過していたと思うわ。だけど、その頃には私はなぜ自分が人を殺してきたのか忘れていた。すべてがどうでもよくなった。私に中に重油のように溜まっていた負の感情は、いつのまにか消えていた。だけど、警察につかまったり自決するのは嫌だった。私は誰も見ていないところで、ひっそりと生きていたかった。そして、あの屋敷で働くことにした。身分を明かさないでも住み込みで雇ってくれる場所だった。でも、それだけに待遇はさんざんだったけど」
女は一瞬だけ、口元をゆるめた。だが、すぐに同じような冷たい口調で話し出した。
「初日に私は自分の部屋へと連れて行ってもらった。廊下の端のお世辞にもいい部屋とは言えない部屋だった。でも、そんな事どうでもよかった。もう、自分が快適な暮らしをしたり、幸せになったとしても何の意味も無いような気がしたから」
「そんなことはない」
男は女の顔を正面から見据え小さく言った。女は一旦大きく目を見開くと、口元をわずかに吊り上げた。
「あなたは重犯罪人の人権を認めるの?」
男は深くうなづいた。その時、女の表情は一変した。あまりに冷たくて、気が狂いそうなほどの殺意に満ち溢れた顔がそこには存在した。
「それはあなたが私の殺した人間達と何にも関係がないからよ。もし、私があなたの親しい人を殺したとしたら、きっとあなたはそんな態度を取ることはできない。私がどうしてもあなたにそのことを知ってもらいたいと思えば、今すぐにでもあなたにその気持ちを理解させることはできる」
女のその細められた目は、磨かれたナイフのように鋭かった。男には自分の喉元にナイフが突き立てられているかのように思えた。男は身を固くしてただ黙ることしかできなかった。
「今はそんなことを言ったとしてもどうにもならないわ。だって、私はもう消えてしまうのだから」
「す、すまん」
男は、反射的に謝ってしまった
「いいのよ。あなたは何にも悪くない。あなたは死神。あなたは間違っていなければ、正しくも無い。あなたは私の最後を看取ってくれればいいのよ。それがあなたが私に与えてくれる最大の慈悲なのだから」
男は静かに目を閉た。
「続けてくれ」
「わかったわ」
女は短く言うと一つ間を置き、再び口を開いた。
「そう。それで私はある部屋へと通された。薄暗い廊下の端にあって、扉が壊れていて、窓の無い部屋だった。私にお似合いの部屋だった。だけど、そこには予想だにしないものがあったの。あの子だった。あれから十年以上たっているけど、私の細胞は彼女をすぐに思い出した」
女はそこまで言い終わると、視線を天井へと持っていった。
「その時だった。私が行ってきたすべての殺しの状況が頭の中に流れてきた。それは新しいものからで、徐々に時間がさかのぼっていった。数秒後、私とあの子が初めて出会った場面へと到達した。その時、体のすべての神経が一瞬で死滅したようだった。立っているのも不可能だった。体の底から黒くて冷たくて重くて、どうすることもできない鉛のような感情が湧いてきた。私の脳は囁いた。この女を殺せと。すべての始まりはこの女からであり、この女を消すことによってのみ私の中に生じた負の感情を消すことができると。それは当然のことだと思った。私の人生を狂わせたのはこの女だから。この女に出会っていなければ、私は今の私ではないと、私は自分の夢を実現しているはずだと思ったから」
彼女の口調が徐々に強くなっていくのを男は感じた。
「殺そうと思えば、いつでも殺すことはできた。でも、私はすぐにそれを実行しなかった。なぜなら、あの子は私にとってとても意味のある人物だったから。私から夢や時間を奪ったあの子には、それ相応の苦しみを感じてもらいたかった。私は最も苦しむ方法で、あの子を殺さなくてはならなかった。ねぇ? あなたは最も苦しむ殺し方って、どんな殺し方だと思う?」
あまりに無惨で狂気に満ちた質問だった。だが、男は想像力を働かせた。
「長い間痛みを感じて死んでいくことか? 拷問とか急所をわざとはずされるとか?」
「そうね。確かにそれはとても苦しい事ね。だけど、私のあの子に対する憎しみは、それだけでは満たされなかった」
「そんな。しかし、それ以上の苦しみなんて存在するのか?」
「そう。それは中々思い浮かばなかった。私はあの子と同居することになったその日からそれを模索したの。とはいえ、あの子はすでに相当の苦しみの中で生きていた。本当におかしな場所だった。みんな自分が標的になるのを恐れていた。だから、自分以外の標的を作り上げるの。本当に上手なやり方でね。あの子は標的にされる要素をいくつも持ち合わせていたから、きっとあんな風になってしまったのね」
彼女は遠い目をした。
「私が何かをするまでもなかった。あの子はいつも無惨で哀れだった。でも、私の考える苦しみは、そんなちっぽけなことではないような気がした。あの子はさらなる苦しみを味わなくてはならないと思ってた。でも、結局無理だったの」
突然、彼女は力を抜いて言った。その光景は彼女にとりついていた何かが、ぬけていくようだった。
「無理だった?」
男がそう聞き返すと、彼女は口元をゆるめた。
「そう、私はそんなものを思いつかなかった。それに使う必要もなくなった」
使う必要ななくなった。それは彼女が許したということ。男の中に小さな熱源が生まれた。
「そうか」
その言葉と共に、男の顔に笑みが浮かんだ。
「私とあの子が屋敷の人間達に取り囲まれて、無理やり戦いをやらされた時のことだった。あの子を倒すことくらい私には、片手で十分だった。でも、それじゃ面白くなかった。私が追い詰められて、あの子が勝利を確信したその瞬間に、叩きのめそうと思った。だから、私は弱いふりをしてあの子の攻撃を受けた。そして、周りも盛り上がってきて、私が今にも倒れそうになったときだった。あの子は、血だらけの拳を振り上げて私の顔を殴ろうとした。きっと、それは最後の攻撃のつもりだったのだと思う。私があの子を叩きのめすには、十分の一秒あれば十分だった。だけど、あの子を打ちのめす前に、勝利寸前の勝ち誇った顔がみたかった。それがどんな絶望的なものにかわるのか見たかった。でも、そこにはそんなものはなかった」
女はそこで一旦言葉を止めると、男の方をみた。
「あの子は泣いてた。私は攻撃をほとんどしなかった。だから、あの子がそうなるのはありえなかった。さらにおかしなことにあの子は、その最後の一撃のこもった拳をほんのわずかだけど緩めた。あの子はためらったの。そのことは私にとって強烈な一撃よりも遥かに威力があった。私はどうしていいのかわからなかった。だから、私はとりあえずその攻撃を避けて様子をみようと思った。私はもう一度あの子の顔を見た。そして、その時あの子の口が微かに動いたの……もう止めよう。あの子はそう言った」
「え? 彼女はその言葉を言ったのは君だって」
「あら? それは本当? あの子はそのことに自信を持っていた?」
「あ、いや。そう言われると。確かに君の言うとおり彼女は、途中のことはあまり覚えていないようだった」
「きっと、彼女は自分が強く願っていたから、勘違いしたのね」
「願っていた? 一体何を?」
男は女を顔を見上げると声のトーンを高くして聞き返した。
「あの子の泣き顔とあの言葉によって、私はあの子が考えていることがわかった。あの子は本当は私と戦いなんてしたくなかった。それどころかあの子は心の奥深くでは私と仲良くなりたいと考えていたのだと思う。絶望から脱するには、一人ではどうにもならないって、あの子は分かっていたの。そして、そのことは私に微妙な心情の変化をもたらした。あの子はあの場面で私を殴ってしまったらすべてがなくなってしまうと考えたのだと思う。でも、あの時のあの子はどうすることもできなかった。私はあの子を叩きのめすのを止めた。あの子の一撃を寸前で交わして、あたかも攻撃がヒットしたかのようにあの場に倒れた」
「そうだったのか。でも、彼女は」
そうとは知らず、君の事を下の存在と決め付けてさんざん暴力をふるったのだろう、と続けそうになったところを男は寸前で堪えた。
「そうね。あんなことがあってもあの子はまったく変わらなかった。いえ、それどころか平気で私に暴力を振るうようになった。まるで私のことを嫌いになったおもちゃのようにね。何か気に入らないことがあれば、私に暴力を振るう。やっている事は屋敷の人間達と同じだった。でも、それもほんのわずかの間だった。最初は自分より下の存在ができたことを喜んでいたのかもしれない。でも、時がたつにつれて、あの子の私に対する暴力は徐々に変わっていった。暴力はエスカレートし、無惨なものになっていった」
「どういうこと?」
「最初は確かに負の感情を消すために私に暴力を振るった。むしゃくしゃして八つ当たりをするという感じね。でも、あの子はその方法では負の感情は消すことはできないということに気づきはじめていた。時がたつとあの子は憎しみを込めて私に暴力を振るうのではなく、どちらかというと私の反応が欲しくて暴力を振るったといった風だった」
「君はそれに耐えられたのかい?」
「その時はまだあの子のことを殺すつもりでいた。やり返そうと思えばいつでもやり返せるという余裕から、ある程度のあの子の暴力を我慢できた。それに自分より下の存在だと思っていた存在からやり返されることは、これ以上にない屈辱だから。あの子の嬉しそうな顔が絶望に染まることを考えると楽しくて楽しくて仕方が無かった。あの子に無惨にやられていれば私の中の負の感情が消えるような気がしていた。でも、一方で私の反応を待っているあの子に心が傾き始めていた」
女は視線を天井に移した。
「今思うと未熟で惨めだったのは私の方だった。もっと早くにあの子に手を差し伸べていればよかった」
「でも、君はそうしたのだろう?」
女は深くうなずいた。
「ある時、仕事が早めに終わったの。特にやることもないし、部屋でゆっくりしようと思った。足早で部屋に戻り、ぼろぼろの扉を開けたそのときだった。私のベッドの近くに立っているあの子の姿があった。そして、あの子の手に握られていたものは、私の読みかけの本だった。その時、あの子はこんなのもといって本を地面に叩き付けた。けど、それは単なる照れ隠しだった。あの子は私に興味を持ち始めていた。負の感情をぶつける対象としての私ではなく、私という人間に興味を持ってくれたの。その時、気がついたのだけど、私が他人からそんな風に接してもらうのは初めてだった。私の中で明らかに何かが変わった。私はそこで確信した。私の方こそ助けてもらいたかったのだって。そう考えると、結果としてあの子の方が私に手を差し伸べてくれたと思えた。そして、不思議なことにそう考えたとたんに私の中の負の感情はどこかへいってしまった。友達になろうって言葉。素直に口から出てくれた。あの一時だけは、自分の中に殺人鬼ではなくて、人間らしい何かが宿った気がした」
そこまで言い終わった女の顔には、明らかに先ほどとは違う色が存在した。
「最初はいろいろあったけど、仲良くなると彼女は何も知らないで私にやさしくしてくれた。いつか彼女に私は殺人鬼であって、人間ではないって言ったら、彼女は言ったの。あなたは人間だよって。痛みを感じることのできる、涙の流すことのできるあなたは人間だよって……嬉しかった。自分にまだ人間の部分が残っている気がした。でも、同時に罪悪感も生まれてきた。結局、彼女の人生を狂わせたのは他でもなくて私なのだから。彼女に罪滅ぼしをしたいと思った。もう、自分の負の感情がどうだとかどうでもよくなった。彼女がうれしいなら、彼女がいいと思うのならそれでいいと思った」
女の声は次第にかすれていった。
「私はあの子の願いを聞いていれば、あの子に罪滅ぼしをしている気がした。あの子のためになっていると思った。だから、あの子の願いは何でも聞いた。だけど、私は彼女に自分の正体を明かしていないの。私が彼女の人生を狂わせた原因だっていうこと。私は彼女よりもずっと卑怯な人間。このことが私を今でも苦しめる。また、私の中に黒い感情を作り出す」
女はゆっくりと目を開けた。
「ねぇ、実はもう一つお願いがあるのだけど?」
「ああ」
「あの子が目覚めたら、あの子の友達からのメッセージとして伝えて欲しい。あなたが友達だと思っていた人間は、あなたの人生を狂わせた張本人。だから、そんな人間のことを友達なんかと思わないで一生憎んで生きてって。私を憎むことで、あの子の負の感情は薄れていくと思うから」
女はそこまで言い終わると再び目を閉じる。そして、これから眠りにつくように鼻から小さな息を吐く。
「ごめんなさい。わがまま言ってばかりで、あなたとは今あったばかりだというのに」
女はなだらかな口調でいった。すべてが終わったかのように。
「なぁ。彼女のために傷つけられたり、殺しをしたんだよな? それは本当に彼女のためなのかな? 彼女はそんなことを本当は望まなかったんじゃないのか?」
女は大きく目を開いて驚いたように男を見る。
「彼女は二人で本を読んだり話をした時間が、一番充実した時間だって言っていた。そのことを話している彼女の顔は本当に嬉しそうだった。君がいてくれたことを心から喜んでいたよ。彼女は君のような友達がいてくれるだけでよかったんだよ」
「あの子が? こんな私に?」
「後のことは心配しないでいいよ。俺が保証する。絶対に」
男は堂々とした態度でそう言い放った。女は再び男のほうを見た。そして、その男の背後に紫色をした花を見つけた。女がその小さくとも力強さと美しさを兼ね備えた花は、シランであるとわかるのにそう時間はかからなかった。そして、その花言葉も。
女の脳裏にあるヴィジョンが広がっていく。まだ春の半ばというのに、夏のような日差しを放つ太陽があった。周り取り囲むたくさんの花達。屋敷の花畑だった。生気を帯びた花や葉によって反射された眩しいくらいの光、優しくて甘い匂い、そして子供のようにはしゃぎながら、目についた花の名前を尋ねてくるブルネットのショートカットをした小柄な女の子。
「私にとっても、あの時が最も充実した時間だったのかもしれない」
女は自分の頬がぬれていることに気づく。
「私、涙を流している。嬉しいから? 罪滅ぼしができたから? それとも悲しいから? 消えるのが怖いから?」
男は首を大きく振った。
「人間だからだよ。簡単な理由で泣くことなんてできない」
「ありがとう。やさしい死神さん」
すべての作業を終了させた男は、倒れるように椅子に腰をかけた。
「今日は長かった。死神は大変だな。俺には向いてないのかもしれないな」
男は引き出しからA4の厚紙を取り出してその右下の空欄に自分の判子を押した。それは今日の作業が問題なく終了したことを表すものだった。
男は長いため息の後、頭をたれ脱力したように肩の力を抜いた。感情のこもっていないその顔は、死人のそれに限りなく近かった。
その時、突然後ろから声をかけられる。
「どう? 進んでる?」
予想外の人物に、男の目が大きく見開いた。同僚の女が立っていた。
「どうして? 帰らなかったの?」
男はその声の方向にわずかに首を傾けると、限りなく小さな声で言った。
「いいえ、一度帰ったわ。けれども、私の親が急にこれなくなってね。それで家にいる理由がなくなったの。それにあなたが一人で残って仕事してるのは、かわいそうかなって思ってね。私も手伝うわ」
男は急に立ち上がり、何も言わずに女に抱きついた。予想外の出来事に女が驚くのは仕方の無いことであった。
「ちょ、どうしたの?」
「なぁ? 人間の負の感情って、どうすれば取り除けるんだ?」
「どうしたの? 何か嫌なことがあった?」
女の優しい問いかけに、男は口をつぐんだ。女は何かを悟ると、そっと男の背中に両手を添えた。
女は男が逆境に対してすぐに弱音を吐く性格であるということを知っていた。そして、少し背中を押してやるだけで、どんな壁も飛び越えてしまう能力を持っているということも。
「そっか。そうねぇ。人間の感じる負の感情って、ある意味病原菌みたいなものね。それも抗体が役に立たないたちの悪いやつね。感染したら症状がすぐに現れるものもあるし、後になってから現れるものもある。目に見えないという点も同じだし、人との接触で感染するっていうところも似ているね」
元々生物専攻出身の彼女は、物事を生物の世界に例えて論ずることが多々あった。
「でもね。一つだけそれが病原菌とは異なる点があるわ。それはその辛さを他人に背負ってもらえるということ。もしね。自分がどうしょうもない状況に陥ったら、自分だけで悩んでないで他人に頼ってみればいいんじゃない? だって、人間の遺伝子には他人を好きになることが書き込まれているじゃない? 痛みをみんなで分け合うこともできると思う。私ならそうすると思う。私も手伝ってあげるから、がんばろう?」
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