お釈迦様が此の世に出現され人々を癒されることはまれであり、こうして皆様に少しでも仏陀の真実の教訓を全ての利害を超えて、伝えることは肝要と思われます。釈迦がインドのブッダガヤで悟りを開かれてから今年で2950年目(日蓮教学による)、身をもって説かれた教えは五千と余巻にのぼります。我々が読破しようとすれば10年を要する膨大なものですので、肝心な部分を、しかも、サンスクリット語(最初の仏典)から英語に翻訳されたものを更に日本語でわかりやすく解説された仏教聖典から引用して、自分の未熟な人生経験と照らし合わせながら書いております。 釈迦如来の悟りとは、この世の真の姿(法)と生き方(道)であり、仏の本質は大慈悲と言う心ラウンジでもふれていますこの三界(人間が生まれ変わり死に変わりしている輪廻の法則の世界)を覆う慈悲と智慧の光であります。恐れ多くて、とても仏像彫刻で釈迦如来が表現できるようなものではありません。 ここに子を抱いて乳を飲ませる母子がいるとしましょう。付きっきりで世話をする母の心は大慈悲であり、全ての人に備わる仏の智慧です。学校で習ったものではありません。乳を飲む子は母の心にふれて、安らかで、この乳は自分にとって有害かどうかというようなことは少しも考えておりません。子の心には、母にふれることで本能的に信ずる心が出来ているわけです。この母子の姿こそ法という悟りの世界であります。 ところが、人々は言葉を持ち、とらわれの心、執着心が育ったために、心の煩悩の欲するまま、好き勝手なことをして自ら迷いの中であえぎ苦しんでおります。
仏の教えは因果の道理に気付いて、執着心の虜になるなという教えです。これこそ、かわいい癒しの微笑仏像の精神であります。全てのものには必ずその原因が存在します。現に今苦しんでいらっしゃる方にしても過去世か今世で行ってきた事の報いの現れであり、この法則に心から気づけば自然に苦しみは消え失せるでしょう。仏像彫刻も私的に解説すれば、木という材料から不要な部分である木くずを削り去っていくところに妙味があるのです。つまり執着心を削り去るところに真の妙味があるのです。人間は執着心のかたまりですから執着した仏像しか彫れないのが初心者なのです。 子供がリンゴを食べようと慣れないナイフで指を切って怪我をしたとします。当然のこと痛みを感じます。この痛みという苦しみはナイフが原因です。ナイフの使い方を知っていれば怪我はしなかったはずです。この人は今後ナイフの使い方を学ぶことで苦しみはなくなるでしょう。もし、怪我をして良い気持ちのするものなら、益々怪我をするようになるかもしれませんが、痛みという苦しみのお陰で幸福を手に入れることが出来ましょう。 人生、苦しみ有れば喜びもある、仏像彫刻の世界もそうです、苦しみも喜びも越えたところが釈迦如来の悟りの世界です。仏像彫刻は上手に彫ろうとすればするほど、うまく彫れません。一度彫刻と距離を置き無になって彫れば上手に彫れるのです。手作り仏像彫刻の良いところはそこです。何事もこのように考えて今ご自分が直面する問題に取り組まれたらいかがでしょうか?
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