― 第壱夜 ―
「聞きたくない。」
俺が半屋に最後に告げた言葉。
冷たい一言で突き放した。
俺に何かを打ち明けようとした半屋を。
自分の為だけに、拒絶したのだ。
その二日後、俺はここにいる。
眠る半屋の傍に。
あの日から二日間、目を覚まさないという半屋の傍に。
目を覚ますと、そこは自分の部屋。
小学生の頃のオレの部屋だった。
低い学習机の上には汚れたランドセル、その横に置かれた『連絡帳』というノートには「4年1組 半屋 工」と書かれている。
壁に掛けられたカレンダーも8年前のものだった。
夢を…見ているらしい。
鏡に自分の姿を映すと、その姿は高校生のままだった。何故か明稜の制服も着ている。
時が戻った、という訳でもないようだ。
家には誰もいないらしい。
家族に遭遇すると面倒な事になりそうだと思い、とりあえず外に出た。
外に出てみても、人の気配はなかった。
ただ見覚えのある風景があるだけ。
そして何処かへ行こうにも、覚えているのは通学路だけ。
あの頃一人で行ったことがあったのは小学校しかなかったからだ。
一番行きたくなかったあの場所しか、今は思い出せなかった。
あの頃、大層長く感じていた通学路。
成長した今の自分にはたった5分の距離だった。
校庭を見渡してみても誰もいない。
ただ見覚えのある小学校がそこに存在するだけだ。
オレが3年間だけ通った学校。
そして、
梧桐が6年間通った学校。
そう思った瞬間、頭がひどく痛んだ。
その場に座り込み、頭痛が去るのを待つ。
しばらくして頭痛が完全に消えてから立ち上がり、もう一度その小学校を見た。
オレが3年間だけ通った学校。
そして、
「梧桐」が6年間通った学校。
「梧桐」って…誰だろう。
記憶が、欠けた。
― 第弐夜 ―
俺が眠れぬ内に夜は明けて。
他の事など何も気にせず、ただただ半屋の寝顔だけを見ている。
あれだけ休むことなく真面目に通っていた学校へも行かず。
半屋の家族が気を使って作ってくれた食事にも全く手をつけず。
生きていることを忘れたかのように、じっと座っている自分。
目を覚まさない。
俺がこれほど長い間傍にいるというのに。
規則的な呼吸を繰り返すだけ。
寝返り一つ打たずに、わずかな声すら発することなく。
生きて、いるのか?
「半屋」
俺はそう、この横たわる人間を呼ぶことが出来ず、
ただ傍に座って時を過ごした。
そしてまた夜が来て。
眠った方が良いと、そう口々に勧められる。
自分でもそう思う。
このままでは眠る事など出来そうにないが、薬でも飲めば何とかなるだろう。
俺は眠る。
そして一瞬だけでも忘れてやるのだ。
半屋の事など。
お前が長い眠りの中で、きっとそうしているように。
「梧桐」というその存在を忘れた途端、
オレの中から多くの物が消えていった。
例えばこの制服。
さっきまで、その学校名まで分かった気がするのに、今はただこれが制服だという事しか分からない。
オレが17だから、高校の制服だと予想できるが。
だからといって自分の通っていた高校の名前などは、全く浮かんではこない。
最近の記憶などは片っ端から消えていった。
もう思い出せるのは子供の頃の事ぐらいだ。
そうやって恐ろしいほどの記憶を奪っていった、その「梧桐」という人間はきっと…。
きっと、オレにとって最重要な人物だったのだろう。
だが思い出そうと頭を使うと、気が狂いそうなほどの激痛が走る。
思い出せないのか。
思い出さないのか。
オレは、オレ自身がこの人間を思い出す事を拒否しているように感じる。
この「梧桐」という人間から逃れる為に、こうして夢の中に留まっているのかもしれない。
どのくらいここに座っていたのだろうか。
ふと気が付くと、一人の子供が目の前に立っていた。
オレが閉じていた目を開いた事で、その子供はひどく驚いている。
眠っていると思って覗いていたのだろう。
目つきの悪い、その子供はオレに
「ハラでも減っているのか?」
と言った。
座りこんでいるからそう思ったのか…。
だからといって初めて会った人間に、開口一番そんな事を言う人間は普通いないだろう。
普通いないのに…。
何故かそんな人間を知っているような気もする。
オレが無視すると、その子供は勝手にそれを肯定ととったらしく
「金がないのか?全く…俺様が奢ってやるからちょっと来い。」
などと偉そうにオレの腕を引いて立ち上がらせた。
オレがその掴まれた腕を振り払い、「触るな。」と言うと、その子供は何故か笑った。
そして「そういうところまでアイツにそっくりだな。」と言った。
「誰にそっくりなのか」と聞くと、最近学校の同じ学年に転校してきたヤツだと答えた。
まだ名前すら知らないらしい。
だが、容姿と、そして人を寄せ付けない態度が似ていると言う。
それはオレの事だろうと直ぐに分かった。
この頃転校してきた、という点でも。
そしてオレに似ている、という点でも。
だが、それをあえて口には出さず、この子供の話を聞く事にした。
この子供は良くしゃべる。
オレに興味を持ったらしく「高校生なのか?」「その頭は何故染めた?」「何故あんな所に座っていた?」とか何とか、とにかく質問したいだけ質問し、聞いてもいない自分の事まで話し出した。
オレのガキの頃とは正反対だ。
コイツはきっと学校でも人気があって、多くの人間に囲まれて、笑って騒いで、とにかく楽しく生きているに違いない。
一方的に話続けるこの子供を、オレは何処か懐かしく感じ始めていた。
本当は気が付いている。
オレの夢の中に唯一人存在する、この子供が「梧桐」なのだろうと。
そう気付いていながら、それを確かめる事はしなかった。
もう「梧桐」とは出会いたくない。
何処かでオレ自身がそう訴えていた。
「もう帰らなくては…。」
それまでとは全く違う小さな声に顔を上げると、弱々しく笑う子供の顔が傍にあった。
子供は立ち上がると、オレを見下ろして。
「お前、帰る家はあるのか?」
と聞く。
頷くと、安心したように背を向けて走っていった。
そして、振り向いて「明日も会いに来る」と叫んだ。
消える「梧桐」の背中を見送りながら、オレはまた一つ記憶を失った。
最後までアイツが訊ねなかった、オレの名前。
― 第参夜 ―
目を覚ますと
傍に半屋はいなかった。
その時の衝撃。
頭に熱い何かが流れ込んできて、
意識が支配されるその気持ち悪さ。
思考の停止。
その後に来る、
胸の痛み。
自分に愕然とする。
半屋が俺の前から消えた。
ただそれだけの事。
それだけの事でこんなにも思う。
「嫌だ」と。
ただ「嫌だ」という言葉を繰り返す。
何故「嫌」なのか。
その訳を思う事はせずに。
我が侭な子供のように、「嫌だ」とだけ思う。
苦しくて、息も出来ない。
半屋がいないだけなのに。
半屋は病院へ運ばれた。
ただそれだけの事だった。
当り前の事。
もう4日も目を覚まさないのだ。
息子を案ずる親ならば、誰もがそうするだろう。
そんな当り前の事。
それに気付かなかった俺。
「何処にいるかは教えないよ。」
そう半屋の姉は言った。
俺が会いに行けないように。
彼女らしい配慮だった。
俺は問い詰める事はしなかった。
礼だけを告げて、半屋の家を出た。
彼女は俺が半屋に会いたがると思ったのだろう。
昨日までの俺を見ていれば、そう思うのも当然だ。
だが、今日の俺は半屋に会いたいとは思わない。
傍にいたいとは思わない。
そうだ、明日は学校へ行こう。
俺のいない間に仕事は山のように溜まっているだろう。
久し振りに大暴れしてやろう。
学校中を回って、片っ端から校則違反を取り締まるのも悪くない。
俺がいないのを良い事に、羽を伸ばした奴らもいることだろうしな。
俺にはやるべき事が無数にあるのだ。
こんな些細な事になど構ってはいられない。
昨日までの俺がどうかしていたのだ。
明日の為に今日は眠ろう。
自分の部屋で。
いつものように。
もうあんな夢など見ないように。
また逃げている、自分を忘れて。
昨日「会いに来る」と言った、「梧桐」は会いに来なかった。
オレはまた一人になった。
オレはこのまま夢の中で、何も分からなくなっていくのだろうか。
この世界に留まり続ける事に何の意味があるのだろう。
オレは逃げる事が最も嫌いだ。
そんな自分らしさはまだ忘れていない。
オレと「梧桐」の間に何があったのか、それは忘れた。
だからこそ、思う。
何があったのだとしても、これは「逃げ」だと。
逃げて、それで何になる?
何の進展も無い。
オレはそんなに弱い人間ではないはずだ。
そう思って、オレは立ち上がった。
この世界に何もないのは、オレが知ろうとしないからだ。
オレの事。
そして「梧桐」の事を。
探しても何も見付からないかもしれない。
それでも動かないよりは何かを掴む可能性がある。
誰かに言った。
「また逃げるのか」という言葉。
ふっと今、思い出した。
オレは逃げない。
その先に何があろうとも、構わない。
結果など恐れない、逃げ出さない。
それがオレだ。
それだけは忘れない。
忘れたくない。
立ち上がったオレは、昨日「梧桐」が去っていった方向へ足を進めた。
手掛かりは「梧桐」という名前だけ。
その名前すら忘れてしまう前に、オレは「梧桐」にもう一度会いたいと思った。
曲がり角の多い道。
家が建ち並び、周りの見渡せない道。
一度も歩いた事がない。道順など分かるはずもない。
それなのに、オレは迷う事なく歩いていた。
逃げないと決め、「梧桐」に会うのだと強く思った。
その瞬間から、何かを感じるようになった。
声が、聞こえる。
その声に向かって、オレは歩く。
その声が叫ぶ言葉は
「来ないでくれ」という拒絶の言葉。
誰も聞いた事のない、「梧桐」の悲痛な声。
思い出した。
この声。
そう、オレは聞いた事がある。
最後に聞いた「梧桐」の言葉。
「聞きたくない。」
その悲しい響き。
頭が痛い。
少し思い出しただけだ。
「梧桐」の声を。
その声の最後の記憶を。
それでもオレ自身が訴えている。
思い出すな、と。
足が勝手に止まろうとする。
それでも無理にオレは一歩足を進めた。
「来るな」という「梧桐」の叫びがまた聞こえた。