― 第四夜 ―



夢の中、
記憶の欠けた半屋はそれでも強かった。


目を覚ます。
午前四時。
俺は無理に起き上がり、そのまま洗面所へと向かう。
冷水で顔を洗う。
そして軽く着替えて、外へ出た。

眠気を振り払う為に。


「また逃げるのか」
そう俺を責めた、半屋の声が甦る。

俺はいつも逃げている。
父親との記憶から。
そして、半屋の存在から。

一昨日半屋の傍で眠った時、
夢の中、半屋に出会ってしまった。
俺の事を忘れた半屋。
そして、半屋に声をかけた子供。
半屋に出会う前の俺だった。

不思議な事だが
恐らく半屋の夢を共有してしまったのだろう。
そしてその夢は俺の夢でもある。
俺の夢というよりは、俺の記憶だった。
半屋の元を去った俺が帰っていった場所は、やはりあの男の元だったのだから。

だから昨日、俺は半屋の傍を離れた。
もう半屋の夢と俺の記憶が繋がってしまわないように。

だが、半屋が俺を呼んだ。
「梧桐」に会うのだと、夢の中で俺を探し始めた。
俺が「来るな」と思えば思う程、半屋は俺の居場所を目指して歩いてくる。

だから俺は無理に眠りから逃れた。
あのままでは、半屋は俺を見付けてしまうところだった。

俺の過去が知られてしまう。

半屋は強い。
その半屋が眠りから覚めないと知ったとき。
俺は半屋が遂に「逃げた」のだと思った。
そう思う程、俺は半屋に酷い仕打ちをしたのだから。

それなのに、半屋は俺から逃げてはいなかった。
夢の中、立ち向かっていた。
その強い眼差しが
俺の弱さを責めているように感じた。

逃げているのは俺の方だ。
そう分かっていても、どうにもならない。
俺は我が侭だ。
いつも人に求めるばかりだ。
俺は自分の為だけに、半屋に多くの物を求めた。
そして、半屋には何も与えなかった。
あの日からずっと
たった一つの小さな望みを
俺に求めた半屋。

半屋の俺への眼差しを。
俺を引き寄せようとした、その腕の意外な強さを。
少し低くなっていた懐かしい声を。
俺は忘れない。

半屋は俺を好いている。

そう気が付いたあの夜を。




少し休んだだけだというのに、学校という場所を懐かしく感じた。
机の冷たさも、硬い椅子の感触も。
気だるい様子で授業を受ける生徒達や、大した熱意も無く教壇に立つ教師の声。
授業から解放されれば騒ぎ出し、友人同士で寄り集まり他愛も無い話題に盛り上がる。
その雑音の波の中、俺だけがこの世界に馴染めていない。
これが日常。
学生である俺の居場所。
数日前までは当り前に座っていたこの場所が、何故こんなにも不快なのだろう。

人の声を、ざわめきを、煩いなどと思った事はなかった。
だが今日の俺には耐えられない。
教室を出て、屋上へ向かった。
常に静かな俺の逃げ場。
校内で一番安らぐ場所。

重い扉を開くと、やはり誰も居なかった。
この場所は良い場所だ。
だが、俺が頻繁に使用する場所だと大方の生徒は知っている。
だから誰もこの屋上へは立ち入らなくなった。
普通科の校舎は一番高い。
その屋上からはほぼ全ての科の校舎を見渡す事が出来る。
俺は一人この場所で双眼鏡を覗くのが日課なのだ。
生徒会長として、などと威張りながら。
毎日ここで校内を見渡していた。
静かで落ち着く場所。
そして誰も傍にいなくとも、こうして双眼鏡を覗けばどこか楽しかった。

いつもの立ち位置に目をやると、俺の双眼鏡が転がっていた。
そういえば片付けていなかった。
半屋がここを訪れた、あの日。
俺は半屋を残して、ここを走り去ったのだから。

双眼鏡を拾い上げ、埃を払う。
いつものようにそれを使い、校内を見渡した。
何も変わらない風景。
校舎のあちこちで小さな事件が起こっては、収まっていく。
怒る者、泣く者、様々な人間の表情。
あまり大きな揉め事は起きていないようだった。

視界が滲む。
何事も無く時は流れている。
この学校という大きな檻に守られて
こんなにも多くの人間が笑っている。
荒んでいると大人達が言うこの高校という場所でさえ、
笑顔に溢れているではないか。

それなのに
何故半屋はあの場所で笑っていないのだろう。
そして
俺は何故笑えないのだろう。

何故、涙など流しているのだろう。

目眩がする。
力の抜けた手の中から双眼鏡が落ちる。
その派手な音と共に、俺の体も崩れ落ちた。
数日間を室内で過ごした俺には、この場所の日光が強過ぎたらしい。
吐き気がする。
激しい頭痛に意識が薄れる。


「お前は幸せになどなれない」

そう男は俺の上で言った。
何度も何度も
俺の中にその声を埋め込んだ。

愛する人の幸せが自分の幸せ。
そんな甘ったるい言葉がそれでも真実であるなら
俺は確かに幸せではないのだろう。

半屋の求める物。
それを俺は与えていない。
聞く事すらしていない。

全て自分の「幸せ」の為に。

そう、「幸せ」なのだ。
半屋が傍にいる心地良さ。
常に俺を意識している事を感じて。
挑んでくる強い瞳が俺のものだと思うと誇らしく。
そして、俺を好いていると感じると
嬉しくて。

本当に半屋の存在を求めていたのは
いつも俺の方だったのだ。

だから俺は逃げた。
俺の醜い部分を知られたくなくて。
半屋はあの澄んだ瞳で
真っ直ぐに俺の全てを見るだろう。
そしてどんな物を見ても受け入れようとする。
単純に軽蔑などせずに、理解しようとする。
そういう人間だと分かっている。

だからこそ、半屋には知られたくなかった。

だが、もう諦める時だ。
これ以上、半屋を追い詰めるのは愚かしい。
何より半屋だけは失えない。
例え俺が半屋を失おうとも。

だからもう手を放そう。
あの日、差し伸べてしまった手を。
瞳を閉じて、会いに行く。
別れの為に。

俺はお前の事を苦しめすぎた。
半屋、これから見る物を受け入れようとするな。
軽蔑して、嫌いになれ。
俺の事を。
もう「嫌い」だと突き放すのだ。
そうすれば、俺の全ては終わる。

俺は全てを失う。