卑怯なことをしてしまったと、梧桐は自分を恥ずかしく思う。
半屋の性格を知っていて、あんな言い方をした。
「逃げる」のではなく、元からここにいる義務などなかったのに。
そのまま出て行かなかった半屋に、罪悪感。
自主的にここに居てくれているようで、本当は違う。
いつも、無意識に半屋を操っている自分がいる。

「いつまで転がってんだよ、この酔っ払い・・・。」

頭上でする半屋の声が可笑しく思えて、梧桐は笑った。
半屋はまだ酔っ払って上機嫌なのかと眉を顰めている。
こうやって、半屋に見下ろされるのも初めてだ。
いつも、人の上に立ってばかりいる自分。

「もう酔っ払いではない。きさまのせいで派手に頭を打ったのでな。」

半屋は悪くないのに、嫌味な言い方だ。
少しでも半屋の機嫌を悪くしようと、突っかかってばかりいる。
怒らせて、自分のことばかりを思わせるのが好きなのだ。
自分のことばかりを思ってくれている、半屋が好きだ。

何て身勝手な感情。

起き上がらない梧桐の傍に、半屋も座った。
大きな机に、椅子が6脚。
それなのに、床に居る二人。
異様な光景に梧桐はまた笑った。
そして、突然笑い出した梧桐に、半屋はやっぱり酔っ払いだという目を向ける。

確かに酔っ払ったのかもしれない。
でも、きっとそれだけでもない。
何もかもが可笑しいのは、自分が可笑しいからだ。
今までの自分が、考えるほどに可笑しい。
突然に沸いた虚しさに、心が埋め尽くされている。


急な旅立ちを告げたのは、伊織にだけだった。
それは、自分が帰れないかもしれないという覚悟があったからだ。
昔ほどの強い憎しみは無かった。
だが、頭で抑えることのできない恐怖心があった。
自分に備わったはずの力が、信用できない。
いくら強くなったところで、通用しない気がした。
膨れ上がる強大なイメージ。自分の親を相手に、死をも覚悟した。
怯えている自分を知りながら、それでも会いに行こうと決意した。
父親と、過去と決着を付けなければ、前に進めないと思ったからだった。

居場所を知るクロ助に着いて行くしかなかったので、船旅となった。
それはそれは長い旅。
学生として忙しく過ごしていた毎日から、突然解き放たれた。
何もすることの無い時間に、薄れていた父親の記憶が甦り、憎しみと恐怖が増していくのを感じた。
そして、戻れないかもしれない場所への愛おしさが募った。
毎日通っていた学び舎、自分の居場所だと感じていた生徒会室。
友人と呼べる存在は少なかったが、少ないからこそ、その者たちとの絆は強いのだと思う。
もし自分が戻らなかったら、悲しむだろうか。
そう思うと、申し訳ない気持ちになった。
少しでも自分を大切に思ってくれている者の為にも、何事もなかったように戻れると良い。
だが、その望みは叶わないように思えていた。
だからこそ、更に愛おしさが募っていた。

船を降りた。
そして数日後、父親を見た。

父親を見るまでの数日の記憶はほとんど無い。
ただひたすらに、自分とだけ戦っていたからだった。
そして、父親とは言葉も交わさなかった。
確かに自分の父親だろうと思える容姿の男が居た。
弟子として傍にいるのであろう若い男たちに囲まれている。
その弟子たちを相手に見せた闘い方も、あの父親を思わせるものだった。
想像していた通り、過去よりも強くなっている自分とは昔ほど絶大な力の差は無かったが、それでも勝てないだろうと感じる強い男。
闘いながら、男は笑った。

そこには父親はいなかった。

「勢十郎、帰るのか?」

影からその姿を見ただけでその場を離れた梧桐に、クロ助は声を掛けた。
だが、その表情に驚きは見られなかった。
クロ助は分かっていたのかもしれない。
梧桐が、父親の元に残らないことを。
自分の敵にはならないことを。

「師範の元に残れば、君は強くなれるのに。きっと世界中の誰よりも。」

自分を否定することになるが、クロ助は言葉にした。
弟子の一人である自分にはないものを、同じ血の流れる梧桐は持っている。
そして、師範は彼の中からその力を引き出すだろう。
父親に磨かれたこの子供には、きっと敵わない。
どれだけ望んでも自分には手に入らないその強さを、彼だけが手に入れられる。

梧桐がそれを放棄するからこそ、クロ助はそう彼を表した。

「オレは、そんな強さは望まない。」

クロ助は自分の望む通りの言葉を得られたことに満足し、それ以上は何も言わずに梧桐を見送った。
笑顔で手を振るクロ助に背を向け、梧桐は歩き出した。

帰りは空港を見つけ、飛行機で帰った。
日本へと向かう飛行機の中、梧桐はただ呆然としていた。
クロ助に向けた言葉に嘘は無い。
父親の元で強さを得ようなどとは全く思っていなかったし、誰よりも強くありたいという欲は自分には無い。
ただ、決着を付けたいという思いだけで、この旅は始まった。
だが父親を前に、分からなくなった。
何をどうすれば、決着と呼べるのか。
自分はどうすれば満足を得ることができるのだろう。
過去に味わった苦痛や、大切だった母親を思えばその憎しみは計り知れない。
もし過去に戻ることができるのなら、迷うことなく父親に挑むだろう。
殺せるのなら、殺してしまうかもしれない。
それを望んで得た力だ。父親への憎しみを糧に得た力だ。
今でも思いは変わらない。
きっと憎しみの元を断てば、自分の中の醜い感情も消える。
それが望みだった。
だが、過去の父親は、所詮過去の存在だった。
今を生きるあの男に憎しみを向けて、存在を消したとしても、憎しみが憎しみを呼ぶだけだ。
自分が死ねば、悲しむ者がいると思った。
きっとあの男にも、悲しむ者がいる。
目の前の光景に、そう思えた。
もうあの男は独りで存在するのではない。
過去の自分を苦しめた父親は、初めからどこにも居なかったのだ。
それなのに、自分だけが変わることなく、父親を思っていた。


閉ざしていた目を開けると、そこには半屋が居た。
梧桐が眠っているのだと思ったのだろうか、窓の外を呆然と見ながら黙ってタバコを銜えている。
見慣れた色の白い顔が夕陽で赤く染まっていた。

その横顔に、何故だろうか涙が出そうになった。
こういう訳の分からない状況を「酔っている」というのだろう。
半屋の方に近付くと、気が付いた半屋が眉を顰めて近寄るなと威嚇する。
だが、きっと酔った梧桐の行動など誰にも予想が出来ない。
伸ばした腕で、梧桐はあっさりと半屋の膝を捕らえた。

「なっ・・・!!てめっ、何してんだよ!!!」

半屋は頭を叩いたり肩を押してみたり梧桐を退かそうと暴れていたが、当の梧桐は非常に楽しそうだ。
痛みに怯む様子も無く、そのまま半屋の膝に頭を乗せた。
見上げると、半屋の顔が分かりやすく赤くなっていて、梧桐は何だか嬉しかった。
そのまま離されないようにと、半屋のブレザーをしっかりと掴む。

「眠いから寝る。このまま膝枕をしろ。」

静かだと思ったら突然理不尽な要求をする。
酔っていても変わらない梧桐の身勝手さに、半屋はきっと戻ったことを後悔しているのだろう。
そう思いながら、それでも半屋が諦めて大人しくなるまで梧桐はしがみ付いて離れなかった。

夏は終わろうとしていたが、今日は本当に気温が高い。
膝枕には暑すぎて、額や首筋に汗が流れた。
だが、熱過ぎるくらいが丁度良い。
今は過剰すぎるほどに、半屋が傍にいることを感じていたい。

「この、酔っ払い!!」

一声怒鳴った後、半屋は諦めたらしく大人しくなった。
梧桐は目を閉じた。
日本に帰ってからはずっと眠ることが出来ず、こんなに睡魔に襲われたのは初めてだった。
暫くしても、半屋は梧桐を膝から落とすこともない。
安心したと同時に、そこで意識が途切れた。


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