夢だと信じたい。
誰も知らない出来事ではあるし、自分を困らせている当人も覚えてはいない。
あとは自分だけ、夢だと軽く流してしまえば。
そうやって忘れることが出来れば。

悩めば悩むほど、記憶を消すことが出来ない。
あの姿も。
声も。
憎らしいほど鮮明に甦る。
暑い夏の日。
一夜の思い出。

もう夏なんて二度と来なければ良い。

こんなつもりでは無かった。
いつものように決闘を理由に呼び出された自分が、何故缶ビールを持っているのか。
そしてそれを飲みすぎだと分かっていて、飲み続けている。
冷静に考えると、訳が分からない。

そして、もっと分からないのは、自分の足から離れていかないものの存在。
重いし、熱い。
何度殴っても、一向に目覚めない。
梧桐の寝顔があまりにも幸せそうで、半屋の感情は苛立ちとは違うものに塗り換わっていた。
それがどんな類のものであるのか、半屋には理解出来ないが。


今から数時間前。

「あ、半屋君・・・。」
生徒会の外人の顔が漫画のように青ざめていった。
隣にいた青木もその声に半屋を振り返り、同じように青ざめた。
そして、怯えた目でこちらを見ている。

その様子に、半屋は大体の事情を理解した。
決闘を目的に訪れたのだが、それは無理な状況なのだろうと分かる二人の表情。
だが、その冷静さは次の瞬間にどこかへと消え去ってしまう。
それほどに、衝撃の出来事だった。

「半屋ーっ!遅いぞぉ!!」

そう、聞きなれた声が聞きなれない調子で室内に響く。
幻聴だろうかと疑った瞬間、今度は椅子が倒れた音が聞こえ、その声の主が立ち上がり、走ってきた。
その人が自分に向かって走ってきた事自体に困惑していたら、そのまま飛び掛られてしまった。
ただでさえ、同じ大きさの同性に抱き付かれれば衝撃が大きいのに、その上相手は馬鹿力の持ち主。
力いっぱいの衝突に、そのまま支えきれずに倒れる。

「いっ・・・てぇ・・・・・・。」

何とか咄嗟に庇ったおかげで頭を打たずに済んだが、その分他の箇所が数倍痛かった。
だが、痛みが納まらない内に、半屋は身体の痛みを忘れた。
飛び掛ってきた人間が、半屋をそのまま抱きしめたからだった。
何なんだ。
何なんだ。

「あ、あの・・・・・・、半屋君ゴメン!!!」
状況をどう説明しようかと考えあぐねたらしきクリフが、その場から逃走した。

「ええ!?クリフさん、ちょっと!!えええええ???」
クリフに取り残されてしまった青木が、それでも真面目さから自分も逃げ出すことを選択できずに困惑している。
だが、そんな青木を気遣うことも出来ないほどに、半屋も困惑している。
梧桐は何だか半屋を抱きしめて、満足げに笑っていた。

「遅かったではないかぁ・・・。15分遅刻だぞぉ・・・。」

語尾の間延びした口調が酔っ払いを思わせたが、梧桐は別に酒臭くはなかった。
酔いがここまで人間を変えるとすれば、相当な量を飲んでいるはずだと働かない頭で半屋は考える。
そこまで考えるのがやっとであった。
あとは何も分からない。
分からないが、梧桐は半屋に抱きついたまま、離れない。
じゃれている犬のように、半屋を嬉しそうに抱きしめている。

「あ、あの・・・半屋さん、大丈夫ですか?」

梧桐に抱きつかれて完全に固まっている半屋に、青木の声がかろうじて届く。
半屋より早く気持ちの落ち着いたらしい青木は、意を決して半屋に事情を説明しだした。
青木は痛い目に合うことを覚悟で口を開いたが、結局半屋には叱られる事も無く退室できた。
と、その生徒会室のドアの前には同じ恐怖に逃走したはずのクリフがいた。
どうやら二人がどうなるのか聞き耳をたてていたらしい。
青木はクリフのことをどうしようもない人だと思った。


「半屋ぁ・・・。」

鳥肌が立つからやめて欲しい。
梧桐の声なのに、何でこんなに甘ったるい音なんだ。
青木が去ってから十分ほど経っていた。
だいぶ落ち着いた半屋は梧桐をそれはもう必死で引き剥がそうとした。
だが、引き剥がそうとすればするほど、梧桐は力いっぱい半屋に抱きついた。
絶対に離れない、と全身が訴えている。
暑さや重さや気持ち悪さや、様々な理由を並べても、梧桐は聞き入れようとはしなかった。
その内に、半屋は諦めた方が良いのだと判断して抵抗を止めた。
体力を温存しておいて、逃れられる隙が出来るのを待っていた方が有効だと考えたからだった。

だが、それにしても耐え難い。
結局そのまま子供が甘えるように半屋に抱きついたままの梧桐と、床に寝転がっていた。
なんで生徒会室の床で寝転がっていなければならないのか、と通常は思うところだが、そんな問題はどうでもいい。
とにかく、梧桐がいる。
別人のようでも、この男は梧桐であって。
その梧桐にもう十数分も抱きしめられている、という状況がここにある。
それ以上重大な問題などあるはずがない。
そして、この状況の中で半屋に浮かんでくる感覚。
それが、何と言っても一番耐え難いものだった。

青木の話を整理するとこうだった。
まず、梧桐に元気が無かった。
そしてあの外人は大学が夏休みで暇なので遊びに来ていた。
梧桐を元気付けようとしたのか、ただ単に遊ぶチャンスだと思ったのか青木には分からないらしいが、とにかく。
クリフは梧桐に酒の入った謎の飲み物を飲ませたらしい。
外国のレアな飲み物らしいそれを梧桐の好みそうな材料を並べて興味をひきつけて飲ませたらしい。
梧桐は酒の類は全く飲まないので、青木もクリフもどうなるのか分からずに飲ませたらしいが。
こうなった。
ということらしい。
本当に一口飲んだだけらしいが、どんどん梧桐がハイになってしまい手を付けられずにいたところに半屋は来てしまった。
「梧桐さんがこんなにお酒に弱いなんて知りませんでした。もっと本気でクリフさんを止めていれば・・・。」
と、青木は本気で謝っていた。
どう考えても青木のせいではない。
それに、二人の好奇心を責めることが半屋には出来なかった。

「ここまでとはなー・・・。」

梧桐の唯一の弱点だろうと思っていた。
酒に弱いのだということは密かに知っていた事だったので。
ただ、酔うとどうなるのかは知らなかったので、半屋も過去に興味が沸いたことがあった。
きっと梧桐を知る人間なら誰もが多少なりとも興味を抱くことだろう。

「何がだ?」

半屋のぼやきに梧桐は半屋を見た。
ものすごく顔が近い。
全身が更に耐え難い変化をする。
もう半屋には限界だった。

「もう・・・離れろーーーっ!!」

半屋は生まれてこの方出したことの無いほどの大きな声で叫んだ。
さすがの梧桐も間近で出された大声に怯んだ。
その隙に半屋は梧桐を跳ね除けた。

身体が異常に熱かった。
それは季節が夏で、しかも人間の体温に長い間包まれていたから。
という単純な理由だけでもなかった。
相手が梧桐だからだ。
梧桐に抱きしめられていたから。
初めての事だった。
そんな風に意識したくは無かったのだが、それでも半屋の中からその興奮は消えてくれなかった。
そんな自分が、半屋には耐え難かったのだ。

呼吸を整えると、それに伴って異常だった心拍数も体温も落ち着いていく。
冷静になれたところで、跳ね除けたままだった梧桐を見ると、寝転がっていた。
転がったまま目を閉じている。
ぴくり、とも動かない。
全力で突き飛ばしたので、もしかしたらその拍子に頭でも打ったのかと、半屋は心配になった。
だが、すぐに梧桐なら大丈夫だろうと、心配する必要などないと、そう思い直した。
そして、今の内に退室しようと立ち上がった。
梧桐なら置いて行っても大丈夫だ。
頭を打っていたとしても、大したことはない。
酔いが覚めれば勝手に帰る。
明日には今日の奇行など忘れているか、覚えていても真っ赤になったオレをネタに笑うだろう。
心配などしても無駄だ。
梧桐なら、大丈夫。

立ち上がり、倒れている梧桐の脇を通る時。
梧桐は背を向けていて、その表情は分からなかった。

子供のように笑ったり、甘えるように抱き付いてきたり。
酔った梧桐の姿はどれも初めて見るものばかりだった。
そういえば、梧桐に元気が無かったなどと、青木は言っていたか。
元気の無い梧桐など、見たことがあったか?
初めて見る、別人のような梧桐。
大丈夫なのは、昔から知る馬鹿で呆れるほどに元気で、誰よりも強い梧桐。

今日の梧桐は、大丈夫ではないのかもしれない。

ドアの前まできて、足が止まる。
この重いドアを開けて、早く出て行ってしまえば良い。
そう頭の中で自分の声がする。
何度も何度も、自分の声に急かされる。
それなのに、腕が上がらない。
身体が思うように動かない。

「出て行かんのか?」

梧桐の声が聞こえた。
振り返ってみても、寝転がって背を向けたまま。

「逃げ出すのなら、今の内だぞ。」


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