守護神(弁才天 Ⅱ)
平成22年10月1日
【守護神とは、一般には国家や地域社会、個人を守る神・諸尊等を言います。】
鎌倉の歴代将軍、執権や領主から崇敬を受け、江戸時代は弁天信仰が盛んになり、多くの庶民が参詣するよ
うになりました。
この江の島の弁才天については、次のような話が伝わっています。
「昔、武蔵野国と相模の国との境に、深沢と呼ぶ大きな湖がありました。そこに700余才を経た大蛇がいました。
頭は五つ、鼻が高く、ひげは長く伸び、眼は日の光よりも鋭く、身には黒雲をまとっていました。
景行天皇の御代になって、その大蛇がいよいよ凶暴になり、人を食べるようになりました。そのため、人々は恐
れて、岩陰に隠れ住み、すすり泣きの声が日夜を分かたず聞こえていました。 この時、弁才天が大蛇に向かい、
『もしお前が悪心を翻して、殺生をやめ、この国の守護神となるならば、夫婦の契りを結ぼう。』
と言うと、さしもの大蛇は殺生をやめ、「龍口明神」となって、この国を守護するようになった。」
ですから、この弁才天にカップルでお参りすると、その仲を羨み二人の仲が裂かれるという言い伝えもあります。
その他、鶴岡八幡宮、江ノ島の妙音弁才天は二臂であり、琵琶を弾く手つきをしている裸形像として有名です。
また、鎌倉の「銭洗い弁天」は、「硬貨を洗えば財産が増やせる」と言われ、民間に信仰されています。
《日本の三大弁才天》
【厳島弁才天】
安芸の宮島、広島県廿日市市宮島の大願寺(だいがんじ)
に祭祀されています。
明治元年から8年に渡り行われた廃仏毀釈(神仏分離令)
によって、厳島神社から大願寺に遷されました。秘仏であり、
開帳は6月17日のみだそうです。尊容は八臂像です。
寺伝には平安時代開山は「空海」、また一説には、鎌倉時
代建仁年間「了海」によって開かれたと伝えられています。現
在厳島神社の祭神は、「市杵島(いちきしま)姫命」他二体と
なっています。昔は厳島弁才天が主神であり、庶民の弁才天
信仰によって有名になったものと思われます。
地図で見ると、大願寺は厳島神社に相対してあります。厳
島へは何度かお参りしておりますが、この度初めてこのこと
を知りました。平清盛が納経をした紺地金泥の法華経などの
写経された品が残されており、資料館で見学できます。
【江島弁才天】
【当教会の弁才天】
また、ある方から弁才天像を守護神としていただ
きました。お宮の箱書きに、明治の初めに修理した
ことが書かれてありました。しかし、そのころの私は
お宮にあまり関心がなく、その箱をなくしてしまいま
した。
その後、弁才天像のお顔を拝すると、ずいぶんと
昔に造られたように見えます。大切にしなくてはと思
い、この像を彩色し直して、厨子を取り替えたのが40
年ぐらい前です。
きっと、「提婆品の8歳の龍女の成仏を、私の修行
の課題としなさい」という御縁でいただいたものと思っ
ています。
私が生まれた時の名前は「福江」といいました。
行田から加須へ行く125号線沿いに、須戸橋があります。その橋のたもとに昔、「近江屋」という遊女屋があ
ったそうです。その館に「七福弁才天」が祭祀されていました。
よく母と一緒に、その「近江屋」のお祭りに行ったことを覚えています。
離れ屋があり、その庭先の築山に「七福弁才天」が祀ってあり、私の名前は、「七福弁才天」の「福」と「江ノ島
弁才天」の「江」を取って「福江」と名付けられたそうです。
母が私に買ってくれたお雛様は、珍しく弁才天様の人形でした。あまり見かけないので、これも良く覚えてい
ます。
母が遷化するにあたり、「私の守護神は」と聞いたとき、母は「宮の弁天」と言いました。後で、「宮の弁天」と
は、「厳島弁才天」であることが判りました。
《私(浄蓮)と弁才天様》
神奈川県藤沢市江ノ島の江島神社。
祭神は「多紀理比賣命(たきりひめのみこと)」他二体です。
江戸時代までは弁才天を祀っており、「江島弁天」、「江島
明神」と呼ばれていました。現在の祭神は、明治の神仏分離
令の際に改められたものです。北方の「辺津宮(へつみや)」
境内の奉安殿には、「八臂弁才天」と「妙音弁才天」が安置さ
れています。
社伝によれば、欽明天皇に神宜があり、勅命により、江の
島の南の洞窟に宮を建てたのが始まりとされ、神仏習合によ
り「金亀山 予願寺」になりました。
吾妻鏡には、源頼朝の命により、文覚上人が弁才天を勧
請したとあり、この時を創建とする場合もあるそうです。
【竹生島弁才天】
滋賀県長浜市早船町の宝厳寺(ほうごんじ)に祭祀されています。
竹生島は周囲2kmの小島で、島の南端にある船着場を除いて、ほかは急な断崖になっています。島には宝
厳寺と都久夫須麻(つくぶすま)神社が祀られています。これは、明治時代の神仏分離令(廃仏毀釈)によるも
ので、竹生島は平安時代から、神仏習合の信仰が行われていました。 寺伝には、奈良時代に聖武天皇の命
により、「行基」の開創とされ、弁才天を祀ったのが、起源とされています。
この弁才天は霊験あらたかな神として信仰され、平家物語にも副将軍皇后宮亮経(すけつね)が戦勝祈願に
参詣されたと記されています。
【裸弁才天】