何事も便利が一番、物の消費が増えることによって経済の流通が良くなり、日常の生活が豊かになる、というような考え方にいつの間にか侵されてゐることに気づかない現代の世相。私の小さな思い出が胸に蘇ってきます。
 今から四十年ほど前のこと私は東京都内から埼玉の山寺に通っていました。そこで生まれて初めて風呂を焚くのに古い丸太棒を薪にしたり、それから出来た消炭を使って練炭をおこしたり、タラの芽や山菜を採って惣菜にすることを覚えました。
 ある時、寺の本堂が修復され落慶式が行われ他寺のお上人方がいらっしゃり、私はお上人方の祝宴の席の給仕を致しました。
 「中野さん、つま楊枝」
と声がしました。早速茶箪笥等を探しましたが見あたりません。もとより近くにお店などはないのです。仕方なくマッチ棒の先を削り不細工をおわびして席に持参いたしました。
 後で師匠からつま楊枝の源を問われ、「この寺には、木はいっぱいある。この枝を使えば『つま楊枝』は出来るね」と教えられました。本当にそうだったのです。当時の私は、便利な所に住んで出来上がった物のみを使う生活を続けていたためにこんな事でさえ思考出来ない自分になってゐたのです。愕然としたのを覚えています。
 今世相を眺めると「文明、文化」と言いながら実際には快楽、便利さのみを追求し、それにともなうべき精神の成長が置き去りにされ、そのために様々な事件が起きてゐるのではないでしょうか。例えば、子どもの欲するままに物を与えれば良いという愛情のはき違えが、登校拒否、引きこもり、情緒不安定、世の風に耐えられない人となったりする幾分かの原因になってゐると思うのですが・・・・・・。又昔はそれぞれの家の味「お正月の昆布巻きはAさん」「漬け物はBさん」「うどんのお汁はCさん」というようなものがありました。今はただ簡便化が第一で味は一色にぬりつぶされ人の味覚は失われてゆくように思います。「人は五感(視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚)の発達によって精神も向上することができる」と言う話も聞いてをります。
 現代の与えられ過ぎた生活によって生じる気力のない在り方から脱出すべきと思います。深く物事を思考し、それから生み出される有形無形の創造、それが実行できる人こそこれからの日本を救うために必要な人と思います。冨、名誉を求めて生きる人には真実の生きる喜びを知ることは出来ないと思います。生きるという真実を知ってそれに誠実であった時、幸福も安心もそして平和をも手に入れることが出来ると私は思います。               合掌

「つま楊枝」の思い出

庭に咲いた牡丹です。(平成17年4月30日撮影)

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