ひのえ
うま
(八百屋お七の悲恋物語)
私たちはよく「貴方は何年生まれ」とか言って生まれ年の「十二支(じゅうにし)」をきき人の性質等を言い合います。源は「中国の陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)、十干(じゅっかん)、十二支(じゅうにし)」等から生まれて現代の易学(えきがく)一部門を締めてゐるようです。
さて「丙午(ひのえうま)」については「陰陽五行説」の中での迷信の最たるものと言われてをります。「五行説」によると「丙(ひのえ)」は火の兄で火性であり又「午(うま)」も火性であるので火が重なるのでこの年は火災が多いとされ、それがいつの間にかこの年生まれの女性は気が強く夫に勝ち亭主を尻に敷いて命を縮めると言う迷信が生まれ、特に江戸時代中期は盛んに信じられ弘化三年(西暦1846年)の丙午の年生まれの嬰児は「間引き」されたという、むごい話も残ってをり、又明治三十九年(1906年)丙午年生まれの女性の多くは嫁にいかれなかったといわれ最も近い昭和四十一年(1966年)の丙午の年は例年に比べ極端に出生数が少なかったそうです。
「火事と喧華は江戸の華」という言葉が残ってをりますが、江戸時代の下町は木造の家屋が連なり一度火事が起こると大火になり「明暦の大火、振袖火事」などと言われ現在に伝えられてをります。
表題の物語も火事によって起こりました。 天和三年(1682年)江戸の下谷、浅草、本所、深川等廣い範囲に及んだ大火がありました。江戸駒込で「八百屋」を営んでゐた「お七」の家も焼け出され、お七家族は駒込の吉祥寺に避難しました。その吉祥寺の寺小姓「吉三郎」を見初めた「お七」は間もなく恋仲になったのです。やがて焼け跡に家が建ち二人は離ればなれになりましたが「お七」は「吉三郎」に逢いたく、又火事になれば逢えると思いこみ自宅に火をつけてしまったのです。幸い大火になりませんて゜したが「付け火」の大罪で奉行所に連行されてしまいます。事情を知った奉行は「十五歳以下は死罪なし」の文を見つけ助けようとしましたが取り調べの席で何度聞いても「十六歳」であると答えてしまうので規定通り火あぶりの判決がだされ天和三年三月二十九日に市中引き回しのうえ鈴ヶ森の刑場にて火炙りに処せられてしまったのです。
この事件はすぐに地方に伝わり大阪にゐた浮世草子作家の井原西鶴によって「好色五人娘」の一人として劇化され幼い少女の悲恋物語として今に伝わってをります。中でも舞台の大詰めの「火の見櫓(やぐら)」の場は特に有名で「伊達娘恋緋鹿子(だてむすめこいのひがのこ)」として舞踊化され舞台上に立てられた火の見櫓に上り半鐘を打つ「お七」が文楽の人形に見立てられ黒衣にあやつられて踊る姿は美しく悲しく今でも私の目に残ってをります。
この「お七」が丙午年の生まれであったために前に述べましたような迷信につながったとしたら何とも哀れではありませんか。現実に害を及ぼす迷信等がまだまだあると思います。麻原彰晃の「オウム真理教」の姿もその一つと私は思います。オウム真理教によって生命をなくした数知れぬ家族の悲しみ、今も後遺症に悩む人々の話を聞く度に思うのです。私たち日本人が先祖から伝わる自然界をも含めての生命に対する感謝の心が失われつつある現在、私はもう一度素直になって人としてあるべき姿を考え直す必要があると強く思うこの頃です。 合掌