【 「百ヶ日」 平等王(本地:観世音菩薩) 】
この王の所へ参る道には「鉄冰山(てつひょうざん)」と名付けられた河原があります。
この河原は、広さが500里四方あるといいます。普通の氷と違い、厚い鉄のような氷が張っています。
亡者は渡ろうとしますが、あまりにも寒いので、氷に触れないうちに肉が裂けて血が流れるのです。氷の上を吹く風は嵐のようで、その音は雷のようです。
亡者は氷の中に入ることが恐ろしくて、立ち止まってしまいます。立ち止まると、獄卒が後から責めたてます。獄卒は
「悪業を造って冥途に赴く者は、このような苦しみを受けると、知らないはずがないであろう。」
と責めたてるので、亡者は氷の中に声をあげて飛び込むのです。
氷は、亡者が入るのを待っているかのように破れます。そしてまた閉じられるのです。この氷は身を切られるようで、まるで剣のようです。
いま、頼みになるのは、裟婆の追善だけなのです。その故に、必ず追善をなして亡者の重苦を助けることが大事なのです。
また、親子の縁は深く、特に母の恩を考えれば、母体に宿ってより世に出る間の母の苦痛、また、その後の厚恩を思えば、親の菩提を弔らわずにいる事は、あさましく、諸天も悪(にく)むことなのです。
その上多くの親は、子を思う故に、地獄の重苦を受けることもあります。ですから、親の後生を弔うことは、最も大事なのです。
大覚世尊(釈尊)は、忉利天に昇り「報恩経」を説いて、母「摩耶夫人」の恩を報じました。大聖すら、このようになさいます。凡夫の身は尚のこと、二親の菩提を弔う事が大事なのです。
この王の前で、生処が定まらぬ者は、次の一周忌の王(都弔王)に渡されるのです。
このような苦難を経て、ようように、平等王の御前に参ります。
大王は、亡者に向かい
「汝がここに来たのは、人の導くにあらず。おのが心からなり。そ
の訳は、汝、裟婆にありし時、風の前の灯火、水の上の泡の如き
身を持ち、老少不定を目の前に見ながら、自分は千年も万年も生
きるように思い、遊び戯れて過ごした報いなのである。『楽は苦の
種、苦は楽の種』という言葉を知らずや。先々の王にて定めて聞
きつらん。今言うも甲斐無き事なれど、何ぞ佛道を成さざるや。汝、
愚かなる者。」
と恥ずかしめます。
亡者は後悔の涙を流すのです。
【観世音菩薩】