梅雨

 「入梅が 明ければいいな 梅食べる」
姉の小学生の時の作品です。
 青い梅の実は、毒があると言われ「梅雨」が明けるのを待って、少し色づいた実を、薄塩に漬けて、「カリ、カリ」と食べるのがオヤツとしての楽しみでした。
 また赤紫色に色づいた「桑の実」をドドメと言って、甘酸っぱい実をもぎとりながら頬ばり、口のまわりを赤紫に染めた顔を指さしあいながら、笑いあったことがこの頃になると思い出されます。
 今年は第二次世界大戦終戦後六十年を迎えました。同級生の中には、「予科練」に入った人、また「赤十字」に入って看護婦になって戦場に行った人もをります。私の女学校時代は、足袋縫製の盛んだった街は「被服敞(ひふくしょう)」と言って軍服を集める大きな建物がたてられ、街の工場もその管理下に置かれ、学校は「学校工場」といって動力のミシンが入り、軍服やそれに類する縫製が中心となってゐました。
 又「出征兵士の家」と言って人手の足りなくなった留守宅に何人かずつ組になっては「田植え」「田の草取り」「養蚕」などの手伝いに行きました。
 授業では英語は禁止になりました。そのため私は今でも新聞やテレビで見る英字やカタカナ語は、まったく苦手で覚えられず孫達に教えてもらっています。
 その頃の忘れられない思い出があります。私の家の脇は忍川が流れていました。その土手と道場の叢(くさむら)を耕して作物をつくりました。母が農家の出でしたので、農作業に詳しく野菜も色々つくりました。その為、学校へ行く前には色々手伝いをさせられました。なかでも下肥を入れたバケツに棒を通し姉と二人で持って母の待つ所まで運ぶのが私にとってはたいへんなことでした。
 

 また、麦を作ったことがあります。草取り、種まき、麦ふみ、麦刈りもしました。ですが私には、それを食べた記憶がないのです。後で聞いた話ですが、二俵分の麦が獲れたそうですが母はそれをリヤカーに乗せて全部を出征兵士の留守宅に配って歩いたと言うことでした。
 終戦後六十年、私が此の戦争体験によって知った結論は、いずれの国でも表向きは国益を計り国を守る為といいながら実は一部の上層部の人の野望や見栄によって、庶民は戦争にかりだされ、生命まで奪われ、窮乏の生活を強いられ苦しみ悩んだということです。現在行われてゐる戦争はどのようにして成り立ったのでしょうか?「恨みは恨みによっては解決しない
」と言われてをります。佛教には「少欲知足(しょうよくちそく)」という言葉があります。私は、どのような意義があったとしても戦争という外交手段には反対です。年老いた今ようやくそれが表明できるようになり永い間のモヤモヤが薄れていくのを感じてをります。

母の遺品の中に上の紙が大事にしまわれてを
りました。その時の懸命な姿が思い出されてな
りません。

老尼のお話の部屋
妙心寺教会