これは今から七十年の前、私の子供の時に母から教えられたことです。
 ある時、姉が誤って茶碗を割り母に謝りました。
 ところが母は、
「茶碗に謝りなさい」
と言うのです。
 そして私達三人姉妹をその茶碗の前に坐らせました。
母は静かに言い出しました。
 「今この茶碗は、もう使うことが出来なくなったよね。考えてごらん。熱い御飯を手の
ひらにのせて食べられるかい。この茶碗というものがあって初めて美味しく食べられる
のだよね。お皿も湯呑みもみんなそうだよね。物には生命があるのです。その生命を
誤りとは言いながら断ったということは生命を奪ったことになり、それは大変なことなの
です。だからこの茶碗に謝らなければならないの。そして今まで使わせていたた゜いた
のだから有難うございましたって御礼を言うのは当たり前のことですよね」
 そして姉妹三人茶碗の前に手をついて、
「ごめんなさい。有難うございました」
と声をそろえて言ったものです。
 あの頃の私は本当のところ何がなんだか解かりません。
ただ「あゝ、そうなのか」と思い、
言われる通りにしてゐただけのことでした。
 私の母は家が貧しくて七才の時から子守奉公に出され一日も学校に行ったことはありま
せん。
その母から私は色々なことを教えてもらいました。
 今の世を見ると物はあふれ、そして粗末にされ、それが文明だと言わんばかりです。
その上自然を征服したようにに思い上がる人が多く、心の豊かさを求め生きる喜びを知る人は
ほんの一握りのように思われます。

 此のまゝで良いのでしょうか。
私は、先ず一人一人が日常の生活の在り方をもう一度ふりかえり見つめ直し、あらゆる物の尊厳を知り、感謝の心が持てるようになることが今こそ必要で大事な時だと常に思ってをります。                              合掌

(大元聖人御遺詠)

世の人は 衣の垢は 洗えども
       心を洗う  人ぞ少なし

割れた茶碗
妙心寺教会
老尼のお話の部屋