妙心寺教会
老尼のお話の部屋

5月5日は子供の日 水子さんは

平成18年5月1日

 30年程前、寒い冬の夜中のことでした。不意に、赤ちゃんの泣き声が聞こえてきたのです。空耳かと思い、じっと
耳を澄ませてみました。間違いなく聞こえます。廊下一つ隔てて寝てゐる甥のK上人に声をかけました。
「ねえ、赤ちゃんの泣き声が聞こえない?」
「そうだよね、叔母さん」
「もしかしたら捨て子かもしれないから見てくるね」
 月が煌々と光ってゐました。泣き声に導かれるように外の階段を登り、御本堂の前に来ました。扉を開けると、泣
き声はその中に入っていきました。始めは何人かの泣き声だったのが、そのうちに数え切れないほどの泣き声に
なりました。それは陰々と地を這うように迫ってきます。私は「世の中にこんな悲しい声があるものなのか」と思いま
した。
「エーン、エーン・・・・」
「あ、これは水子さんだ」
と解った時、その声は自然となくなりました。

 次の朝のことです。執事長の御上人が
「中野さん、うちでも水子供養をしようと思って作っていたパンフレットが昨晩できたので持ってきたよ、見て」
と話されるのです。
「御上人、水子さんは昨晩から来てゐましたよ」
と昨夜のことをお話致しました。

 この出来事が、私に水子さんの御供養を思い立たせ、今に至っております。今でもあの
「エーン、エーン・・・・」という泣き声が耳から離れることはありません。
 皆さんも色々な形で水子さんの御供養をなさった事が有ると思います。私達は本当に水子さんの身になった御供
養が出来てゐるでしょうか。

「可哀想だったから、たたりがあると怖いから、供養してあげれば安心できるから、仕方がなかったから」等々、よく
よく突き詰めてみると自分のことばかり考えてゐる事が多いのではないでしょうか。

 ようやく人の身として世に出る生命を与えられたのに、その身を失う苦しみ、悲しみ。
その心に私達は気付いてゐるでしょうか? また、一度産声をあげた生命を絶てば殺人罪に問われる身であると
考えたことがあるでしょうか。

 水子さんの御供養と一口に言いますが、本当に水子さんに通じる心・在り方をもう一度考えていただきたいので
す。

 近頃は水子さんの御供養に男女二人で来る方が多くなりました。昔は、隠れるように来る女の方の姿がありまし
た。今は男性が強い関心を示しているように見られます。時代の流れを感じます。どうぞよい方向に風が吹き流れ
ますよう祈っております。

 今月は私の所では水子供養会が行われます。