「親思う心にまさる親心」。
 これは群馬県からいただいた教箋の言葉です。
「ああ、これは吉田松陰の辞世の歌で、下の句は『今日のおとづれ何と聞くらん』だったな。」
と知り、吉田松陰の生涯について調べた事を簡単に信徒さんに説明して済ませました。
 ところが、今になって教箋の言葉の「親」が気になってきたのです。
「あの『親』とは何を意味しているのだろう。私は浅はかに松陰の辞世の歌を説明してしまったが、もっと深い意味があったのではないか。」
と思うようになったのです。
 肉親としての「親」は、直ぐに思いつきます。
「80歳の母親が60歳の息子と道を歩いていて『ほらほら、水溜まりがあるから気をつけなさい』と注意した」などの笑い話がありますね。

  私も90歳を越えているのに、まだ子供たちに余計な心配をしています。子供たちの世話になり、手助け
をしてもらっている現在です。口出しはしないつもりでいますが、時には
「親の思いを分かって欲しい。」
と考える事もあります。

 日蓮大聖人の御遺文を拝読すると、肉親としての「親」に対する感謝や孝行に関する文を随所に見受けら
れます。
・孝と申すは高(こう)なり。天高(たか)けれども孝よりも高からず。また孝とは厚(こう)なり。地あつけれども
孝よりは厚(あつ)からず。聖賢の二類は孝の家よりいでたり。いかにいわんや仏法 を学せん人、知恩報恩
なかるべしや。(開目抄)
・古の賢人は四徳を修せよと也。 四徳と者、一には父母に孝あるべし。二には主に忠あるべし。 三には友
に合て礼あるべし。四 には劣れるに逢て慈悲あれと也。
一に父母に孝あれとは、たとひ親はものに覚えずとも、悪さまなる事を云とも、聊かも腹も立ず、 誤る顔を見
せず、親の云事に一分も違へず、親によき物を与へんと思て、せめてする事なくば 一日に二三度笑(えみ)
て向へと也。(上野殿御消息)

 しかし、それだけではなく、開目鈔や祈祷鈔では「釈尊こそが私達の真の親である」と説かれているのです。
・釈迦仏は我等が為には主也・師也・親也。法華経を信じたらん衆生は是真仏子とて、実の我子なり。(主師
親御書)
・我等が慈父教主釈尊。(聖愚問答鈔) 
・釈尊は我等が父母なり。一代の聖教は父母の子に教たる教経なるべし。(法門可被申様之事)

 私が恭敬し讃仰している釈尊は、考えられぬほどの大慈悲心をもって私達を教え導いて下さっています。
その「子」であることを有難く思っております。

平成30年3月1日
妙心寺教会
老尼のお話の部屋
親思う心にまさる親心