平成29年11月1日
妙心寺教会
老尼のお話の部屋
三つの原点
【1 連絡船の思い出】 
 50年以上も前のことです。当時は在家だった私は、姉妙真先生の教会の佐渡寺院参拝に初めて参加しました。
 新潟より大きな連絡船に乗りました。甲板で休んでいると、波が押し寄せ飛沫が飛んできます。甲板の人々の中には、船酔いになり苦しんでいる姿も見えます。
「今自分が乗っているこの船は、観光バスや車が数え切れないほど一緒に乗っている大きな船ではないか。海が荒れていれば欠航になるはず。動いているのは安全だからだ。」
と思いました。

 すると、突然日蓮大聖人に思いが飛びました。
「ああ、大聖人の御遺文には『佐渡配流の時に風定まらず船待ちをなされた事』が記されている。また『船中で風が強く危険な時に、海に向かって書かれたという波題目』の話も伝わっている。 700年も前の事でもあるし、おそらく罪人として取るに足らぬ小舟に乗せられたのであろう。」
と初めて思ったのです。
「こんな大きな船に乗っても、船酔で苦しむ人たちがいるではないか。」
船と海の様子を見ながら生死判らぬ大聖人の御心が偲ばれ、ボーッとして座っていました。
 気が付くと、涙が頬を伝わっていました。大聖人をお偲びして涙を流した最初の事でした。

 先日の佐渡寺院参拝の時、連絡船の方が
「11月になると海が荒れるので、もう船は出さないのですよ。」
と話してくれました。
 大聖人は、佐渡配流の時は一週間も船待ちをされ、乗船は10月28日だったそうです。現在では11月の末です。あの大きな連絡船ですら欠航すると聞き、
「さぞ大変な船旅であったろう。」
と一層強く思うのです。
 50年経った今でも、あの日の涙を忘れることができません。


【2 波木井殿御書の一節】 
 「日蓮は日本第一の法華経の行者也。日蓮が弟子檀那等の中に日蓮より後に来給候はば、梵天・帝釈・四大天王・閻魔法王の御前にても、日本第一の法華経の行者、日蓮房が弟子檀那なりと名乗て通り給べし。・・・但し各々の信心に依べく候。信心だも弱くば、いかに日蓮が弟子檀那と名乗せ給ともよも御用は候はじ。・・・。」

 私は昭和50年1月に妙心教会を設立いたしました。この波木井殿御書の一節は、母心蓮院日祥大法尼が良く唱えていて、今でも耳に残っています。この一節を聞いた人たちは皆感動して
「この法尼についていけば間違いないと思った。」
と話していました。

 この教会を設立した時、母を偲び何度もこの波木井殿御書の一節を拝読しました。そして
「自分が死んで、艮(うしとら)の廊で大聖人にお会いした時『お前はまだ信者とは言えない。もう一度娑婆に戻って修行しなさい』と帰されるかもしれない。そんな事が起こったら、一緒に唱題している人たちに申し訳ない。」
と心から思ったのです。
 そして、「日蓮大聖人・恩師上人・先師上人の御心に添ったお題目をお唱えする事」を心に誓いました。

 教会設立から半世紀になります。その誓いは変わることなく、日々の唱題に励んでおります。


【3 崇峻天皇御書の一節】 
 日蓮大聖人の御遺文の要用を集めた「妙行日課」という書物があります。重要な御遺文を私達に解り易くまとめてあるので、常時拝読しております。

 その中に崇峻天皇御書の一節があります。
「返す返す、今に忘れぬ事は頚切れんとせし時、殿は供(とも)して馬の口に付て、泣き悲しみ給しをば、いかなる世にか忘れなん。たとえ殿の罪ふかくして地獄に入り給はば、日蓮をいかに仏になれと釈迦仏誘(こしら)へさせ給にも、用ひまいらせ候べからず。同じく地獄なるべし。日蓮と殿と共に地獄に入ならば、釈迦仏・法華経も地獄にこそをはしまさずらめ。暗に月の入るがごとく、湯に水を入るがごとく、氷に火をたくがごとく、日輪に暗(やみ)を投(なぐ)るが如くこそ候はんずれ。・・・。」
 この文は四条金吾殿に宛てたもので、拝読した時に
「自分も、大聖人からこのように言われたいものだ。」
と四条金吾殿を羨ましく思いました。

 それは、恩師「円中院日典上人」が遷化された前日の事です。入院している病院の付き添いの方から
「お上人が貴女を呼んでおいでだから、直ぐ来るように。」
という電話がありました。
とるものもとりあえず急いで病院に行くと、付き添いの方が
「お上人が譫言(うわごと)のように『浄蓮何してる、浄蓮何してる』と言われるのです。」
と教えてくれました。
「浄蓮参りました。」
と声を掛けると、お上人は頷き、手を少し動かされました。その時の私は、お上人とお別れするなんて夢にも思っていませんでした。

 その夜、寺の留守番をするために一人で寺に泊まりました。すると、夜中に本堂から木柾の音が聞こえてきたのです。
「こんな時間に誰が来ているのかしら。」
と思って本堂に行きましたが、誰もいません。部屋に戻って心を静めて考えると、それは、いつも
お上人が読経の時に叩かれる木柾の音でした。

 朝になって帰宅する時、道端に可愛い花があったので
「明日、お上人の部屋に持って行こう。」
と思っていましたが、昼近くに病院から遷化の知らせがあったのです。
 その花はお上人の枕花になりました。

 崇峻天皇御書とは少し違いますが、この体験は
「いつでも恩師日典上人が御一緒にいて下さる。」
と言う信念を持って日々を過ごす事の出来る「心の元」になっているのです。