梅原純子先生の 「『まっとうする』ということ」の一節です。

 
「まっとうした」という思いには、後悔やその他のネガティブな感情が入り込む隙間がないのではないか、と気づいた。
 「志」は自分が選び自分の人生で成し遂げる目標や結果だと思う。しかし、「その目標のために今日一日分のひとときをまっとうする」という事が、「人生をまっとうする」事でいいのではないだろうか。
 目指す目標にむかって今ひとときを十分に楽しみ、あるいは集中し、大切に過ごすと、死は決して悲しいものではなくなるだろう。


 この文を読んで、昔H寺の鬼子母神堂で唱題修行をした時の事を思い出しました。修行中に
「はい、やります。」
という言葉が口をついて出たのです。
「一体誰に向かって言ったのか。」
と考えてみると、釈尊・日蓮大聖人・鬼子母神様に向かって言ったのだと思います。また、それは自分自身に言った言葉であるようにも思われました。

 その後、行田に教会を設立しましたが、時には疲れが原因で入院したり、人との話し合いで折り合いがつかずに悲しくなって
「この唱題修行を止めて、どこかに逃げ出してしまいたい。」
と思い悩む日もありました。
しかし、そんな時にあの
「はい、やります。」
の言葉が思い出されるのです。面と向かって誰かに言った言葉ではないのに、何故か心から離れないのです。
 その後、私は
「『はい、やります』の言葉は神仏への誓いであり、約束なのだ。」
と思うようになりました。そして、再び唱題修行に励む事が出来たのです。

 私のこの世での目標は「この涌唱会のお題目を世の人々に知ってもらい、唱えてもらう事」です。
 齢、卒寿を過ぎました。しかし、まだその目標にはほど遠い現在です。 

 生命ある限り、目標に向かって精進する事が出来て死を迎えた時に、「まっとうした」と言えるのではないかと思っています。

平成30年7月1日
妙心寺教会
老尼のお話の部屋
まっとうする