鬼形の鬼子母神
入谷の鬼子母神
子育て鬼子母神
平成29年8月1日
台東区入谷の真源寺に祭祀されている鬼子母神は霊験特に著しく、その効験に驚いた大田蜀山人が「恐れ入谷の鬼子母神、どうで有馬の水天宮、志やれの内のお祖師様」 とうたったのが、「地口(ぢぐち)」のもとになったそうです。
鬼子母神様は「妙法蓮華経陀羅尼品第二十六」という御経の中で、十羅刹女と共に釈尊に次のように誓われました。
「法華経を読誦し受持せん者を擁護して、其の衰患を除かんと欲す。」
「若し法師の短を伺い求むる者ありとも、便を得ざらせしめん。」
「寧ろ我が頭の上に上るとも法師を悩すことなかれ。」
日蓮大聖人は、法華経の行者・信者を擁護すると釈尊の前で誓われたことを深く帰敬し、その誓いを4つに分けました。
①法華経の行者・信者を守る。
②行者の信念を試みんとして、障害を加えることがある。
③行者の身代わりとなり、迫害者を罰する。
④もし行者が違約すれば、これを許さず罰を加える。
(宮崎英修著・監修「日蓮宗の守護神」「日蓮宗の御祈祷」より)
私が「鬼子母神」という名を知ったのは、小学生の時です。行田の蓮華寺では、毎月8日に「鬼子母神講」が行われていました。その日は、亡き母が私を連れてその集まりに行きました。「鬼子母神堂」でお経を唱え、その後、本堂でお茶やお菓子を食べ、何かわからないけれどお金を集めていたのです。
30代半ばになってから、東松山の妙昌寺へ修行に行き始めました。妙昌寺には人毛を使った鬼子母神像が祭祀され、毎年4月18日は大祭のご祈祷が行われて、沢山の人が参詣していました。
昭和47年に行田に転居し、中野家の一室を借りて修行を始めました。昭和50年に教会を設立、大聖人700遠忌の昭和56年に現在の地に道場を建立しました。
「師匠から教えられた地涌の菩薩様が唱えられたという『地涌発唱のお題目』を聞いてもらいたい。」
との一念から道場を建立したのです。
すぐに数名の信徒ができ、数年の間に信徒が増えて現
在の道場を新築することができたのです。この間には、人
づてで聞いて祈祷を頼みに来る方が毎日のようにありました。病気だけではなく、地鎮・方位除け・心願成就等様々で、毎日が私にとっては新しい祈願の連続でした。未熟な私は仏祖三宝の加護を願い、鬼子母神様には「助けてください」、「お願いします」という心でお題目をお唱えしていたのです。
しかし、いつの頃からか祈祷をしていると
「鬼子母神様に助けを乞うばかりではならぬ。」
と思うようになりました。
「鬼子母神の命を受け、自分が鬼子母神となって御祈祷ができるようにならなければいけない。」
と考えるようになってきたのです。そして、祈祷の心境が変わってきたのを知ったのです。
現在の私は
「鬼子母神様のお心を本当に知りたい。」
と思うようになり、修行を続けております。
鬼子母神様の御姿について今の私に分かった事は、「子供を守護している御姿も、鬼の形の御姿も同一であり、それは釈尊の大慈悲心の魂を継いで表しているのである」という事です。
忘れられない祈祷の一つを紹介いたします。
かれこれ40年位前のことです。H市から3人の方が見えました。奥様が私のところへ来て
「実は主人は癌で『もう長くない』と医師から言われております。亡くなる前に一度お経を聞かせてあげたいと思いまして伺いました。よろしくお願いします。」
と言うのです。
旦那らしき人は付き添いのお兄さんの手を借りて、ようやく道場に上がりました。早速に祈祷を始めました。唱えているうちに私は
「この方に引導を渡している。」
と感じたのです。
唱題が止まったので、終わりにしました。長い時間ではなかったと思います。驚いたことに、病人は自分で歩いていました。
1ヶ月ほど経って、付き添いのお兄さんから連絡がありました。
「先生、有難うございます。本当に不思議なのですが、帰りに弟は『うどんを食べていこう』と言って食べたのです。そして、今でも生きているのです。」
そのお兄さんは東京の方で、その後も一族の方々は時々参拝に見えていました。
病人は、数年の命をいただいてから旅立ったそうです。
鬼子母神様と私