「いのちの供養会」の始まり
それは昭和の初め、今から100年近く前に遡ります。当時はこの行田の地は「忍町」と呼ばれていました。
この忍町には火事が多く、中でも「火事といえば宮本町」と言われるほど宮本町には火災が集中して起きて
いたのです。町内の方々も不安の日を過ごしていました。
ある年、その宮本町にあった芝居小屋で火事が起こり、そこで興行していた「女相撲」の方たちが焼死して
しまいました。心蓮院日祥大法尼(以下法尼)は、その「女相撲」の方たちの回
向を頼まれました。すると、回向の中で「宮本町のどこかに最上位経王稲荷の御神体がある」ということを感
応しました。そこで、その行方を調べてもらったところ「明治43年の大水の時に流されてきた稲荷で、御神体
は某家に放置されてある」ということが判ったのです。 そこで、町内の役員方が相談して「宮本町の守護神」
として祭祀されて現在に至っています。 祭祀された後は、町内での火災はピタッと無くなったそうです。
焼死した「女相撲」の方たちの回向に伺った法尼に、芝居小屋の主人のK氏から声がかかりました。
「実は飼っていた猫が焼け死んでいるのです。この猫の供養をしてもらいたいのです。」
と頼まれました。それを承知した法尼は、日を改めて御回向に伺ったのです。すると、読経中に焼死した猫
だけではなく、一般家庭で飼っていた猫や犬までもが「回向を受けたい」と願い頼ってきたのです。
帰宅した法尼は、この旨を信徒や一般家庭の方に呼びかけただけでなく、牛・豚・鶏を育てて生計を立て
ている家、魚や肉を販売して生活をしている方々にも一生懸命に呼びかけました。そして、この回向供養が
始まったのです。
初めての供養の日には街の一角に祭壇を設け、御本尊を中心に施餓鬼幡・水向け・供養の品が供えられ、
大勢の人が集まっていたのを覚えています。その中で特にはっきりと覚えているのは、御供物として供える
「七色菓子」のことです。法尼は
「『御馳走』という文字は、『馳せ走る』と書くそうだ。あちこち駆け回って集め供えて、初めてご馳走になる。」
と言いました。
この言葉は現在でも私の胸に深く止まっていて、行事等で御宝前にお供えする御供物の供え方や、人を
おもてなしをする時の私の心の基本となっています。
現代ではあまりにも便利すぎて、このような心は失われつつあります。しかし「この心を忘れてはならない」
と常に心がけております。
【宮本町の最上位経王稲荷】
「いのちの供養会の始まりと私の願い」
私の願い
このようないきさつを経て、私も「魚鳥畜類の供養会」を行ってまいりました。ところが、ここ数年前から「これ
だけで良いのだろうか」という思いが生じてきました。 それは「日常食する食物の『いのち(魂)』に対する感
謝の心を表さねばならぬ」ということです。
そこで「いのち」に「魂」という意味も含めて、「魚鳥畜類の供養会」を「いのちの供養会」という名前に変え
ました。
人は、生きている間は他の「いのち」をいただいて生かされているのです。
「そのことを心から知ってもらいたい。そのためにはせめて年に一度ぐらいは『いただいたいのちに手を合わ
せる時』を作らねばならぬ。」
と考えるようになりました。
私たちのこの身体は、食した「いのち」によって保たれています。この身体は、それらの「いのち」の変形な
のです。そのように考えていくと、「日・月・雨・風や山・川・草・木、すべてのお陰によって生かされているの
だ」ということにたどり着きます。
私たちの生命は、自分だけのものではないのです。それを知っていただきたい。そしてその心を行動に表
してもらいたいのです。それらの「いのち」に感謝し、合掌し、「南無妙法蓮華経」と唱えていただきたいので
す。「南無妙法蓮華経」は、人はどのように生きるべきかを教え、また、他の成仏を祈ることのできる唯一の
言葉なのです。
当教会の境内には、「魚鳥畜類慰霊の碑」が建立されています。この意義を深く知っていただき、この心を
大勢の人に解っていただいた時に、生命の尊さを知ることができ、ひいては、今、世界で起きている戦いもな
くなると思うのです。
どうか、この「いのちの供養会」の意義を、他のどなたかに一言お話しください。一人でも多くの人の心に訴
えかけてください。この「いのちの供養会」の心が少しでも広がっていくことが、私の日毎の願いなのです。
どうぞ皆様のご協力を心からお願いいたします。
合掌
平成26年2月27日 中野浄蓮