4月、桜が咲き、子供たちは入学や新学期を迎え、新入社員は新たな人生のスタートを迎えます。仏教の世界では4月8日は「釈尊御降誕日」で、日蓮宗では4月28日が「立教開宗記念日」です。当教会では「地涌題目奉唱道場(涌唱会)」の発会四十三回の記念日を4月29日に迎えます。そして、私も満90歳を1ヶ月と10日過ぎます。
 この頃、「生きるとは何か」という思いが、常に頭のどこかに棲みついているのです。そこで、著名人の「生きるという事」への考え方を調べてみました。

① 明日死ぬかのように生きよ 永遠に生きるかのように学べ   
(ガンジー)

② 言葉は、勉強すればいくらでも覚える事ができる。だが、それを生きようと思うなら、いくら頭  を使っても難しい。人生がそっと言葉を差し出すまで待たなくてはならない。むしろ、生きると  は時を費やして人生が導いてくれる言葉の意味を深く感じてみることではないだろうか。
  (若松栄輔 「言葉の贈り物」より)


 



③ 人生とは心を高めるために与えられた期間であり、魂を磨くための修養の場であると考えられる人。
そういう人こそが限りある人生を豊かに実りあるものとし、周囲にも素晴らしい幸福をもたらすことができる
のです。
 この経営理念に従い、「人の心」をベースに経営を進めてきたことが現在の京セラをもたらしたのだと私は
信じている。(稲盛和夫 京セラ創業者)

④ 毎日新聞に「延命措置の中止とは?」という記事があった。見出しに「多死社会」とある。何をもって「生
きている」とし、どこからが「死」なのか。医療の発展と価値観の多様化で、この線引きはこれからさらに難
しくなるだろう。そんなことを考えた時、政府が掲げる「人生100年時代」と言う言葉がむなしく感じられる。
健康で経済的な不安がなければ、長生きも悪くな  い。しかし、ただ生きながらえなければならないとした
ら、幸せな状態とは言えないのではないか。(甘糟りり子 「人生100年時代は幸せか」より)

 平成27年の法燈継承式の時に、
「これからは、院首としての余生を過ごしていきたいと思います。」
と話した直後に、中尾先生が
「中野さん、余生なんてないよ。」
と仰いました。そのお言葉をお聞きした時、目が覚める思いがしたのです。
「そうなのだ、『余生』なんてものは無いのだ。死の直前までたゆまなく精進しなくてはならない。」
と気付いたのです。
さらっと「余りの人生などというものはない」と、教えていただいたのです。

 私の「生きる」は、精進しかありません。継承式の当日に中尾先生からいただいた「昼夜常精進」の色紙
を胸に抱いております。

平成30年4月1日
妙心寺教会
老尼のお話の部屋
生きる