恩師円中院日典上人は、青鳥山妙昌寺の第三十九世を継承された方です。今年、第五十回忌を迎え、御報恩謝徳の法会を奉行する事が出来ました。恩師上人との思い出をいくつかお話し致します。
昭和45年4月5日の朝の事です。当時、お上人は群馬県の病院に入院されていたので、弟子信徒が交代で寺の留守番をしていました。
留守番明けの朝、帰る準備をしていると病院で看護している先輩から
「お上人が『浄蓮、何している。浄蓮。』と呼んでおられるから、すぐに病院に来なさい。」
との電話を受けました。
病院に駆けつけ部屋に入ると、
「お上人は昏睡状態が続いている。」
と知らされました。しかし
「お上人。浄蓮参りました。」
と声を掛けると、頷かれて、手を一寸伸ばされました。もう、声をお聞きする事は出来ません。その後、先輩から4月7日の夜の妙昌寺の留守番を頼まれてから帰宅致しました。
令和元年5月1日
昭和43年12月16日、お寺で使うアイロンを主人に買って貰い、それを届けに行きました。
本堂で御挨拶をした時、白い紙が御宝前に置いてあるのに気づきましたが、あまり気に留めずにお給仕にとりかかりました。すると、お上人が
「今夜は泊まりなさい。」
と仰るのです。
「すぐ18日に来るのだから。」
と思ったのですが、主人に電話すると快く許してくれました。
夕食が済むと、お上人は電話をかけられました。すると、修行の第一の先輩で総代のI氏が見えました。お上人は
「二人で本堂に来なさい。」
と言われ、修行が始まりました。この時に、あの白い紙をいただいたのです。紙には、大きく「浄蓮」と認めてありました。修行が終わってからお上人が
「中野さんに修行名を授けるため、証人としてI氏に来てもらった。」
と話され、修行名について説明をして下さいました。
こうして「浄蓮」は誕生したのです。
。
恩師円中院日典上人第五十回忌
しかし、修行名をいただいて1年4ヶ月、修行を始めてから足かけ8年間で、お上人とはお別れになってしま
いました。
恩師上人の第五十回忌を迎え、御報恩謝徳の法会を奉行させていただきました。今、蘇ってくるのは
「私は、恩師上人がお唱えになった『地涌題目の奉唱』という『命』をいただいたのだ。」
という事です。
上人の教えそのままに、ひたすら唱題修行を続けて参りました。そして、今は「別願文」の
「必ず願わくは臨終の時、少病少悩にしてあらかじめ死期を知り、正念決定して五根増長し、直ちに霊山浄
土に至り・・・云々」
を唱えながら、恩師円中院日典上人に
「良く頑張ったね。」
と頭を撫でられる事を願っております。
7日の夜の事です。妙昌寺で床に就いていると、本堂から木柾の音が聞こえてきました。
「こんな時に誰が。」
と思って本堂に行くと、誰もいないのです。部屋に戻ると、また木柾の音が聞こえてきます。その音に耳を澄ませ
ているうちに
「あの木柾の音は、恩師上人がいつも叩かれている音だ。」
と気づき
「お上人が来ていらっしゃる。」
と分かりました。夜が明けて、病院から
「お上人は大変落ち着かれた。」
という電話を受けて、帰宅したのです。
ところが、帰宅して間もなくお上人遷化の訃報が届いたのです。
それを聞いた私は身も世もなく泣き叫んで、手から血が出るのも気づかずに拳で畳を叩き続け、家の中を転げ回りました。
思えば、お上人とお会いして初めて妙昌寺の本堂でお題目をお唱えしたのは、昭和38年12月8日でした。唱
え始めると体中に震えが起こり、心は歓喜に満たされ、何も知らないのに
「私が求めていたお題目の世界はこれなのだ。」
と分かったのです。
妙昌寺の唱題修行は、毎月8の日の夜です。
「何としてもこの修行を続けたい。」
と願った私は、家族に頼み込み、毎回寺に一泊させてもらう事にしました。毎月6日間の修行でした。
この間に「撃鼓行脚頭陀行」という、一尺三寸の太鼓を叩いて歩く修行も致しました。
「明覚駅から寺まで行脚してくるように。」
と言われ、約8㎞の道のりを行脚で往復する事を、3年間続けました。
その後は、お上人の体調が思わしくないので、宿泊した日はお給仕に努めました。帰宅は、いつも最終電車で
した。