川の石垣には階段が作られています。その脇に信徒が立っていて手を差し伸べ、川面まで誘導するのです。川面には向こう岸までの仮橋が作ってあります。そこでは、鳶の頭などの何人かの人が灯籠を流す時に危険がないように見守っているのです。
川の中央には商店の名前が入った何艘かの小舟に灯が入り、川面を照らしています。その側を灯を入れて川に流された灯籠が、ゆらゆらと揺れながら川下へ流れて行きます。
この灯籠流しは、夏の夜の縁日となっていました。川沿いの道に沿って何軒もの露天商が並び、アセチレンガスの匂いが流れ、浴衣を着た子供たちの高い声が聞こえます。一寸離れたところからは若い人たちの笑い声も聞こえ、花火で遊ぶ人たちの姿が闇に浮かんでくるのです。
沢山の人出で、歩くのもままならなくなっています。橋のたもとの空き地では見せ物小屋が掛けられ、呼び込みの声が高く聞こえます。一寸むしろを開いて見せる「ろくろ首」や「蛇娘」に人だかりが出来、木戸銭を払って中に入っていく人もいます。
結社の前の農道には舞台が掛けられ、芸人の寸劇や民謡、花笠踊り等が休みなく行われています。団扇を片手に見物している人も沢山いました。
また、少し離れた暗がりでは「鈴虫」や「ガチャガチャ(くつわ虫)」を売っている店もあり、子供達が群がっています。こうして、短い夏の夜は明けるのでした。
この灯籠流しも河川に関する法令が変わり、母の遷化の後は辞めざるを得なくなりました。私の子供達も小さい時には良くに縁日に出かけたものでした。残念ながら写真が一枚も残っていません。
昭和47年にこの堤根の土地へ越して来た時は、裏を流れる川が灯籠流しを行った忍川の下流だとは知りませんでした。昔のこの川は清く川底まで見え、鵜飼が鮎を獲っていたのです。今は茶色に汚れた水が流れ、大小のゴミが沈んでいたり流れてきたりする川になってしまいました。
「もう二度と、あの灯籠流しはできないのか。」
と思うと、残念でなりません。
地域の方々や信徒と共に盛大な灯籠流しを続けていた母のバイタリティを思うと、やはり尊敬の念が増すばかりなのです。
平成28年3月1日
敬母心蓮院日祥大法尼を偲んで(9)
【灯籠流し(川施餓鬼)】
毎年8月27日にこの行事が行われていました。この日は「日蓮大聖人松葉ヶ谷御法難会」に当ります。結社の道
場入り口の軒端には、寒冷紗に描かれた「大聖人御法難」の大きな行灯が掲げられます。
また午前中には、結社の守護神であり、母の守護神として祭祀されている「厳島弁才天の御縁日」も行われました。
【現在の忍川】
【熊谷の灯籠流し】
【当時の灯籠】
【灯籠流しの様子】
何日も前から準備した灯籠流しの法要は夕方から行われます。結社に沿って流れる忍川のほとりには、川施餓鬼のための祭壇が設けられているいます。祭壇には、水によって生命を落とされた方々の回向供養のために、何体かの卒塔婆が建ててあります。また、信徒から奉納された回向供養の品々も沢山供えてあります。祭壇の前には大きな香炉が置かれ、どなたでも線香が手向けられるようになっていました。祭壇の脇には、何日も前から作られた灯籠が何段にも積み重ねられています。
蓮華寺のお上人を始めとする何人かの方々で法要が始められます。唱題に入ると、信徒各家の先祖代々の名が書かれた灯籠が流されます。法要が終わる頃には辺り
はすっかり暗くなり、灯籠を流すの
を待つ人が並んで待っています。灯籠を申し込んだ人には、係りの人が氏名と願いを書いて渡しているのです。