昔は、朝5時半になると町のサイレンが鳴りました。母の結社ではそれを合図に寒行の朝が始まります。次姉の田中あきは
「朝早くに、信徒の皆さんが見える前に火鉢に火を入れるのが私の役目で、これが辛かったのよ。」
と良く話しました。私より8歳年上ですから、その頃はまだまだほんの小娘です。さぞ大変だった事だろうと思います。私は小学校に上がる前でしたので
「何故、こんなに早く起きてお題目を唱えなくてはならないのだろう。」
と思い、やはり寒行は辛い日々でした。
 しかし大きくなると、遠くから歩いて見える何人かの
信徒さんに対して尊敬の念が湧くようになりました。
 私がまだ小さな頃の、忘れられない思い出が一つあります。
 その日、蓮華寺に行く時には雪が少し降り始めていました。そして、蓮華寺を出て内行田という所に回った時に
はもう大雪になっていました。 そこは長屋が続く狭い道です。道がよく分からなかった私はその道のドブに落ちて
しまったのです。
 赤い長靴を履いていたのを覚えています。冷たい水が入って足がしびれてきました。しかし、そこから家に帰る
道はわからないので、黙ってお上人の後をついて歩きました。
 ようやく結社の近くの橋のたもとへ着いたら、なんとそこで母が待っていたのです。母の顔を見たとたんに、私は
大声で泣き出しました。
 今考えてみると、その時間には結社内で寒修行をしていたはずなのです。どうして私がドブに落ちたのをわかっ
たのでしょうか。あるいは大雪なので迎えに来てくれただけかもしれません。しかし、母がどうして修行中に席を抜
け出したのか、それもわからないのです。
 寒行になると必ずその事を思い出し、その度に母を思い胸が締め付けられるのです。
【現在の寒行行脚 夜】
 小学校の高学年になった頃、同級生のW君が寒行に通ってきました。親御さんが病気だそうで、その平癒祈願
のためです。彼は、堤根から母の結社まで3km以上ある道のりを毎朝歩いて通ったのです。母は、そのW君に必
ず朝食を食べさせていたのを覚えています。
 何十年か経って堤根に転居してきた私は、偶然W君と再会し、喜びと共に思い出話を語り合ったのです。

 朝の修行が終わると、法尼は自転車に乗って遠くの信者さんの家を回り、寒行の法味を言上していました。
 家の近くには「丸大」という自転車屋さんがありました。その店主の小父さんは
「あんた方のお母さんは、行田の女の人の中で一番初めに自転車に乗った人だよ。」
と教えてくれました。まだ、昭和初期の事です。

 日中の寒行が終わると、夜の修行に入ります。午後5時になると町中の修行に出かけるのです。法尼は手甲・脚
絆で、引鏧(いんきん)という携帯用の鐘を持ちます。そして、何人かの信徒が団扇太鼓を叩いてお供をするのです。
私も、何度もお供をしました。だいたい2時間ぐらいかかります。その時間内に信徒や有縁の方の家を一軒ずつ回向
して廻るのです。その歩く足の速いこと、信徒がついていくのが大変でした。
「チーン。」
と引鏧が鳴って回向が始まる時に、団扇太鼓を叩く信徒さん達はまだ間に合っていないのです。
【寒行明けの節分会】
【現在の寒行行脚 昼】
平成28年2月1日
妙心寺教会
敬母心蓮院日祥大法尼を偲んで(8)
老尼のお話の部屋

【寒修行の思い出】
 先年、日祥大法尼の第五十回忌を迎えました。法華経の広宣流布に生涯を捧げた名もない一人の尼僧がいた
事を知って頂く事が、敬母心蓮院日祥大法尼に対する恩返しになるのではないかと思い、このお話を始めたので
す。
 今回は、寒修行にまつわる大法尼との思い出話をさせていただきます。
 しかし、戦時中にはこの寒行は止めさせられました。そして、戦後になって蓮華寺が外回りの寒行を止めたので町の人が母に頼み、また外回りの寒行が再開されたのです。

 外回りの寒行が終わると7時過ぎ、それから結社の御宝前での修行が始まります。狭い道場ですが部屋は一杯になります。毎日2~30人は参加していました。まだ車の普及していない時代なので、皆さんが歩いて修行に来るのです。一里近くを歩いて来た人
もいました。

 私は法尼に言われて、小学校に上がる前から蓮華寺の外回り寒行に行きました。まだ小さかったので太鼓を叩いて歩く事は出来ずに、結社の名前の入った提灯を持ってお上人や他の人の後を小走りについて歩いたのを覚えています。中学年になって太鼓が叩けるようになってからは、外回り寒行の終わり近くになり家の近くまで来た時に別れて帰りました。
 このように、寒の30日間は特別の期間だったのです。

 寒行明けの節分会の時は、盛大に豆まきが行われます。「手拭い・財布・蜜柑・ちり紙」等を、豆と一緒にまくのです。そして、年男年女と共に埼玉出身の力士や芸者なども呼んで、大変な騒ぎになります。集まった人たちの重みで、廊下が抜けてしまった事もあったほどでした。

 このようにして、毎年の寒行が終わります。
最後を迎えるまで、母は寒行を止めませんでした。