平成27年11月1日
【火事供養】
皆さんこんにちは、この間は大変お世話になりました。おかげで最上位様のお祭りも済みました。これも皆さんのお骨折りの御徳によるものと感謝しております。
お祭りの後、私は町内の役員の皆さんにお酌をして回ったんですよ。その時の事なんです。
佐藤さんの所へお酌に行ったら、
「子供がいら(大変に)火悪さをするんで、夜もおちおち眠れないんだよ。昨日も昼間に子どもが三回も火を点けるのを見たんだよ。」
と言うので、私は
「あれまあ、それは物騒ですねえ。」
と言うと、傍の栗原さんが
「俺も家へ帰ろうと思ってパチンコ屋の裏を通ったら、小さい子が二人で火を点けるところだったのでマッチを取り上げたんだけども、本当に物騒だよ。どういう訳なんだろう。何としたらいいんだろうねえ。」と言ったので、
「それじゃあ、私が遠慮なしに言わせていただきます。先日から最上位様のお使いが私に話すのには『今、震災の悪霊が立ち上がっている。そしてこの宮本町の有縁無縁の霊も一緒になってこの地を焼き尽くそうとしている。自分も一生懸命に守るつもりだが、これを防ぐためには火事供養をしてもらいたい。そうすればこの災難から逃れられる。』と言っているんですよ。ですから私は火事供養をすれば良いと
思うんです。」
と言いました。
そして、なんとその晩に下町に火事があったのです。すると、たちまち皆さんが賛成して供養することになりました。
「しかし、火事供養ってどういう風にしたら良いのですか。」
と聞かれたので
「それは、祭壇を設けてそこに餓鬼旛を立て、『魚鳥畜類の諸霊』・『宮本町有縁の霊』・『地内で死亡した霊』を慰め、お経を唱えて供養することです。その祭壇にそれらの霊が集まり、お経を受けて下さるようにしなければならないのですが、私たちだけでは力が足りないかもしれないから蓮華寺さんにお願いしてお経を唱えてもらう方が良いと思います。」
と話しました。
たちまちのうちに話がまとまり、町内の人々はあれやこれやと祭壇に供えて下さり、鳥井さんは
「ぜひ、私も仲間に入れてください。」
と果物一箱を持ってきてくれました。供養の準備が調えられたところに蓮華寺さんも来られて、無事に火事供養ができたのです。
その時は、あちらからもこちらからも
「何年か経ったら、またこの供養をこのようにすれば良いのだね。」
と言う声が出たんですよ。
しかし、不幸にして今日は昭和41年4月8日、いや7日ですね。あの火事供養した年が今の私には思い出せないのです。ざっと10年くらいは経つと思うのですが、その間、心がけてはいたのですが、ついにこの供養は出来ずにいるのです。あれから長い年月、穏やかな日々が続いたのですよ。
敬母心蓮院日祥大法尼を偲んで(5)
長時間の録音で疲れた事が判ります。終わりの方になると、必死の叫びのようでした。
「火伏稲荷」様については、母の在世の時から月初めの4日に信者さんたちと一緒に参詣し、お経とお題目をお供えしており、姉の妙真尼も続けていたようです。いつ頃から行われなくなったのか判りませんが、私は行田へ来て母の二十三回忌を迎えるにあたり、昭和63年に町内の役員さんを訪ね、御開帳して法味を言上いたしました。また、毎年の寒修行中には信徒の皆さんとともに参詣しております。
火事供養については、私は教会を設立した当時から魚鳥畜類の供養日を設け、年に一度行事として行っており
ます。現在では、「いのちに合掌」の宗門の言葉に沿って活動を広げております。
また阪神大震災・東日本大震災の後には、信徒と共に特に御回向・御供養をしております。
母の残した録音を聴きながら教えていただいているのです。そして母のお題目を信じて行う姿を敬愛し、少しでも母の魂に近づきたいと努めております。
次回は、これまた現在でも祭祀されている「吹上の地蔵尊」についてお話しさせていただきます。
【勧請板(裏)】
【勧請板(表)】
【最上位経王大菩薩と勧請板】
【現在の最上位経王大菩薩の社】
【最上位経王大菩薩の勧請】
最上位様の勧請につきましては、テープの破損が激しくて良く聞き取れないので、浄蓮がまとめました。
当時(昭和8年)、母は寒修行の際に何人かの信者とともに行田の街中を巡っておりました。
その時一緒に廻った信者に
「宮本町に行くと、足元に火の玉がまとわりついてきて危なくて歩けない。」
と話していたそうです。
数日が過ぎた日のこと、当時宮本町に住んでいた斉藤万之助様が熱病にかかり、祈祷を願いに来ました。その折に母は斎藤様に寒修行のときに見える「火の玉」の事を話したところ
「あの場所は、昔『小屋掛け』があった所なのです。その小屋が火事になり、ちょうど興行していた女相撲の人たちが焼死した場所なのです。きっとその人たちの霊の仕業かもしれません。」
と言うのです。
続いて斉藤様の祈祷をすると、
「私は、明治43年の大水の時にこの地に流れ着いた
『最上位大菩薩』の使いの者です。この菩薩様を世に
出してくだされば、この宮本町に度々起きている火災は、必ず私が守って火事が起きないようにします。」
と語られました。
町の有力者である斉藤様は早速に町内に声をかけ、最上位大菩薩の行方を捜しました。すると、ほどなく
「確かに私の家にあります。」
とN氏が名乗り出たのです。そして町内の方々が相談して、町の守護神「火伏稲荷」として昭和9年に町内の角地に祀られました。現在は道路拡張工事のため宮本町公民館の敷地に移転しています。
昭和9年と言うと、私が小学校に入学した年です。覚えているのは祭祀の時に町内の方々が集まり、赤と
黄色で小さな巾着袋を作り参詣の人に配布していた
事です。盛大なお祭りであったことをおぼろげながら覚えております。
【最上位経王大菩薩の勧請と火事供養】
母は昭和8年に「妙法正信講」を設立しました。
行田に居を構えた時(昭和2年)は父親は群馬に残り、母と共に生活したのは三女「あき」、四女「はる(妙真尼)」、五女「福江(浄蓮)」でした。行田に居を構えてからの母は、お題目の布教に生涯を捧げました。そして「お題目の功力」を数知れず現したのです。今回は、母がテープに残した話をいくつか申し上げます。
【宮本町内の役員さん】
【最上位経王大菩薩】
ある日、私が和田に出張に出かけたときの事、
「行田の宮本町が火事だ。」
という知らせがあり、急いで帰ってきました。
その火事の場所は、火事供養の時に庭に祭壇を設けた栗原さんの家のすぐ横の家だったのです。炬燵から火
が出たそうです。栗原さんの家とは三尺も離れていず、延焼してもおかしくない場所でした。でも、栗原さんの家は
軒先が少し焼けた程度で何事もなかったんですよ。火元の小川さんの家はけっこう焼けてしまいました。町の人は
「ああ、栗原さんの家が焼けなかったのは火事供養したお陰だ。」
と言っていました。私もそう思いました。そして
「最上位様がこのように骨折って守ってくださっているのだ。」
と思いました。
皆さん、是非ともこのお稲荷さんが安らかになられ、おいでくださるよう願わなくてはならないんですよ。
勘定してみると、昭和9年にお祀りしたんだから今年は三十三回忌になります。私はご開帳してお経を供えようと
思っていたんだけれど、もう私も歳をとりました。今度は皆さんが心を合わせてお経とお題目を供えてくださいね。こ
れが私の何よりの願いなのです。
神様の食事はお経とお題目なんです。これが私の願いなのです。頼みますよ。
これまで町内の火事はなかったんだけれど、今は「神様は嫌い」・「稲荷様は嫌い」という流行(はやり)の人たち
がいて、人集めをしているそうです。そして、その集まりに行くのに線香を立てたか火を燃したとかで、その家だけ
が丸焼けになったそうです。そういう家は御守護がなかったんでしょう。
神様はそれぞれに守護してくださるのだから、自分で信じる神様は自分で信じ、人の信じる神様の悪口を言った
り壊したりするものでは無いんですよ。「神様」といわれる方々は、お国の為、皆さんの為に尽くされた方々だと思
います。自分で信じた神様は自分の守護神であり、自分の身体(からだ)であると信じてお守りすることが良いんで
すよ。どうかそのようにお頼みしますよ。いいですね。ぢゃあまた、ごめんなさい。
【最上位経王大菩薩の社】