平成27年10月1日
敬母心蓮院日祥大法尼を偲んで(4)
法華経との出会い
【法華経との出会い】
ある日、近所の『おすてさん』が来て
『医者が見限ったんなら、信仰してみる他はないがね。信仰してみたら
どうだい。』
と言うので、私は
『信仰はもうみんなしたよ。でも良くならない。おすてさんの言う信仰は
なんだい。』
と訊くと
『南無妙法蓮華経と唱えることだよ。』
と言うので
『わたしゃ南無妙法蓮華経は大嫌いなんだよ。でも、もうする信仰がな
くなったから、もしかしたら良くなるかも分からないから唱えてみるよ。』
と決心して、唱え始めました。
拝んでいて人の足音がすると、恥ずかしいから止めて声を出さずにいます。
すると、おすてさんは
『そんな事では、その足は治らないのではないかね。小見にお祖師様が
あって、皆がご利益をもらっているそうだから行ってみたら。』
そう言われて、小見へ行くことになりました。近所の藤太さんの荷車に
乗せてもらい、お袋と一緒に行ったのです。
お祖師様に着きました。私は4人に抱きあげられて座敷に上がりました。
私の足は二升樽のように腫れてドドメ色に紫がかり、膿の一升も出るかと
思われました。しかし、医者がいくら針を刺しても膿は出てこないのです。
お袋は先生の前で
『この子の足がこのように悪いんです。信仰して治してやりたいから、どうか
拝んでください。』
と頼むと、先生は
『本当に信心ができるのか。』
と訊くので
『法華は百日法華(一時的に帰依する事)と言うそうだから、一生懸命に唱
えます。』
と言ったそうです。すると先生は
『何を言うんだ。この大病なのにそんなことを言うのなら信仰するな。』
と断ったのです。私はそれを聞いて
『親兄弟が拝まなくても、ベロ(舌)のあるうちは私一人でも唱え続けます。』
と泣き伏して頼みました。傍にいた人が
『こんなに言うのだから拝んでやったら・・・。』
と取りなしてくれたので、拝んでもらうことになりました。
いつの間にかウトウトして、目が覚めました。私は神様の前で寝てしまったの
です。
『ああ、私は神様の前の座敷にいるんだ。今日は初めて眠れた。』
と思い、足を見ると土踏まずに米粒ぐらいの血の色が見えたのです。
『何日も眠れなかったというのに・・・。もしかしたら治るかもしれない。』
と思ったのです。そして、改めて信仰することを先生に伝えました。すると先
生は
『お前は家から通えるのか。』
と訊くので
『とても通えません。』
と答えると
『それならば、ここに泊まっても良い。しかし、泊まるとなるとどこにあっても食
い扶持はいるのだ。本当は一日十五銭なのだが、お前は貧乏だから十三銭
にまけておく。また、お前みたいな罪障たかりは代理を頼まなくてはならない
。代理は一日十五銭、米二升なのだ。どうする。』
と言いました。金はありません。考えて、お袋の奉公先の「おひささん」に借り
る事にしたのです。お袋は
『この子の足が治れば奉公させます。』
と言って頼み込み、金を借りて払うことになりました。
そして、泊まり込んでお題目を唱え始めました。すると、
一週間目に障子に摑まって立てたんです。どんなに嬉し
かった事でしょう。
二週間経つと、杖をついて6尺ほど歩けるようになりました。
三週間経ったら、お百度を踏みました。杖をついてなんとか踏めるようになっ
たのです。
四週間目、お百度が終わりました。
五週間目には、
『これほど良くなったのだから。』
と思い、家に帰ることにしました。
小見から杖をついて家に帰ったのです。
家に帰り、お題目を唱えていました。そんなある日、近所に来た先生が顔を
出したのです。私のお題目を聞いて
『お前、信心が鈍ったな。このまま治らなくて今度拝んでくれと言っても、座敷
にも上げさせないぞ。』
と言って帰りました。自分では一生懸命拝んだつもりなのです。ところが10
日も経ったら、また動けなくなりました。
お袋は、相変わらず毎日日傭とりをしていましたが、雨が降ってきた日に
『今日は雨が降ったから、お前と一緒に何が何でも小見へ行こう。』
と言い、小見へ行く事になりました。お袋は傘をさして、しょこしょこと歩いて行
きます。私は簑笠です。とてもついていけないのです。日が暮れてしまいまし
た。
道中、白川戸橋にかかりました。その白川戸橋に腰をかけて
『いよいよ死のう。』
と思ったのです。
『私が川に入って死んだら、皆は、借金を返さずに人に迷惑をかけっぱなしで
あの娘は死んでしまったと思うだろう。私が死ぬまで信仰して死んだら、あの
娘は死ぬまで信仰していた、可哀想にと思ってくれ、借金は香典と思ってく
れるのではないか。』
と思ったからです。
気を取り直して、小見のお祖師様の家に向かいました。座敷へ這い上がり
、泣いて頼んで許しを請い、塩断ち・穀断ち・お百度参り、そしてお題目を唱
え続けました。
お題目を唱えていると、田んぼが見えてきました。そして、だんだんとその
絵が上がってくるのです。遠くから馬方節が良い声で聞こえます。大鍬を付
けた馬の前に「はなどり」が綱を持って歩き、後には「しんどり」がついて田ん
ぼを耕しています。女たちが青草仕込みをしているのが見えています。
そして、結願の日になりました。馬の手綱で足を縛って「はなどり」が腰を掛
けて休んでいます。その横には「しんどり」もいます。
突然、大鍬を付けたままの馬が北を向いて走り出しました。「はなどり」は馬
に引きずられていきます。そして、「はなどり」は大鍬にかかって死んでしまっ
たのです。馬も足を切って殺されました。
それが見えてからです。これまで土を踏むと頭の芯まで響いて痛かったの
が、いくら地を踏んでも痛くならないのです。結願の五週間目の日でした。そ
れから唱題をしたり供養したりして、六週間目を迎えました。
『ああ、私は今まで動けなくて皆さんの世話になっていた。申し訳ない。』
と思い、七週間目は掃除をしたり手伝いをしたりのお礼奉公をしました。
その後は、須加教会の信仰の手伝いをしていたんです。
昭和2年6月に、行田に出て「妙法正信講」を立ち上げ
ました。その後に蓮華寺所属の「妙法正顕結社」となり、
私も今は80歳になりました。
母の生い立ちの、大体の話を書き留めました。このテープの話は長時間にわたっています。途中苦しそうな声に
なったり、息が弾んでいたり咳が出たりしております。
これで一応、前段を終わりといたします。追いつめられた母が伝えたかったのは、信仰と言う事の難しさと一筋の
信心の大切さではなかったのではないかと思っております。
この後は、母が体験した数々の法華経の功力を話しております。
赤羽さの様(小見の先生)の墓
建立発起人は渡辺なか(心蓮院)
法華坊(小見のお祖師様)の碑
【現在の法華寺(小見のお祖師様)】
新しくなった白川戸橋