と言うのです。私が
『切る金がない。』
と答えると
『村長の証明を持ってくれば、只で切ってやる。』
と言うので、その時は
『ああ、そうですか。』
と言って帰りました。
しかし考えたのです。
『足を切った私を養ってくれる力は家には無い。また、
自分で生きていけるかどうかもわからない。井戸や川
へ入って死ぬしかないかもしれない。足を切って片輪者
になって死ぬと、今度生まれ変わった時に片輪になっ
て生まれるかもしれない。どうせ死ぬのならこのまま死
んでいく方が良いのではないか。』
と考えながら斎藤医者に行きました。
先生が
『証明書を持ってきたのか。』
と訊くので、
『持ってきません。』
と言うと、
『今の治療は東京の腫れ物に行田で膏薬を貼っている
ようなものだ。今日の診察料は要らないからもう来ない
でくれ。』
と言われました。
私は先生に
『この腫れ物はどういうものなのですか。』
と聞いたら、
『この腫れ物は骨に虫が入り、その虫に骨が食われて
砕け、その周りの肉も溶けて痛い死にをする芯喰い脱疽
というものだ。』
と教えてくれました。医者にそこまで言われても、やはり
切るのは嫌だったのです。
平成27年9月1日
敬母心蓮院日祥大法尼を偲んで(3)
私が物心ついたときには母と姉二人とで行田市長野桜町という所に住んでいました。家の脇には忍川が流れ、
裏には秩父鉄道が通り、鉄橋を渡って遊んでいたのを覚えています。庭に大きな「合歓の木」があり、吹き井戸が
ありました。脇の道は馬車が通り、夏の暑い日に霍乱(かくらん)になった馬に冷たい井戸水を浴びせていた、そん
な家でした。
昭和9年、小学校に上がる年、川に沿って南に10分ほどの行田市長野竹花町3776番地に移転しました。富士
山の高さと同じ番地だったので、よく覚えています。
この頃の母はほとんど家に居た事はありませんでした。期日が定まっている加持祈祷の日には、朝から人が来て
番号札を持ち母の加持を待っていました。時には泊まりがけで信徒の家に行き、その信徒の近所の同信者が集ま
る「お題目講」を作ったりという本当に忙しい人でした。
母が泊まりの時は母の枕を抱いて寝ていたのを覚えています。
【現在の桜町正信講跡】
綺麗に管理されています
それから何十年か経ち、昭和41年になりました。
母は自分の死期が近いのを悟ったのでしょう、自分
の生い立ちや入信の動機などを何人かの前でテープ
に録音しました。
今日は皆さんに集まってもらって有難うございます。
私のことについて皆さんからよく聞かれていましたが、
細かく話す機会がありませんでした。今日はそれをお話
ししておこうと思ったので、こうしてお集まり願ったのです。
【遺されたテープ】
「そんなわけで家が貧乏だったから、母ちゃんは7つのときには子守奉公に出されたのさ。だから母ちゃんは学校
に行ったことはないんだよ。お前に字を書いてもらったりするのはそういう訳があるんだよ。子守が終わると、農家の
下女として年季奉公に出された。奉公先の主人の姿を見て『私も羽織を着て暮らせる人になりたい』と年中思ってい
たさ。そして、今こうして羽織を着て座っているようになったのさ・・・。」
その頃の私には母の言ったことなどは信じられませんでした。
「母が七歳で子守奉公に行ったなんて。年季奉公の給金を父親が先借りしていたなんて。そんな事はあるはずが
ない。」
と思っていたのです。
その話だけはよく覚えているのですが、後で考えると、私は小学校に上がる前から姉と一緒に学校へ通い、教室で
も自分の椅子と机をもらってそれに坐っていました。姉の担任の柴崎先生が可愛がってくれて、私を抱き上げて
「高い、高い。」
をしてくれたのを覚えています。
また、小学校に上がる前の身体検査に当日行けず、学校から抜け出して直接校医さんのところへ行ったことも覚え
ています。ですからきっと母に向かって何か駄々をこねたので、こんな話をしたのだと思います。
何とか家に帰りました。そして
『医者に見放されたんだから、もう信仰しかない。』
と思い、不動様・御岳様・○理教・八百万数の神様を信仰しました。しかし、一向に良くならないのです。
私は、埼玉県北埼玉郡須加村下中条八番で明治20年9月20日に生まれました。父は『七蔵』母は『くら』と言い、5
人姉妹の4番目でした。父は酒好きであまり働かず、母の『日傭とり』の働きで一家は暮らしておりました。そんなわけ
で貧乏でした。そのため、私は七歳で子守奉公に出されました。体が小さいので、赤ん坊を背負うと土に引きずるくらい
だったのです。ですから、学校には一日も行っていないのです。その後、12歳になったときは父親が給金を先借りして
6年間の年季奉公に出されたのです。
着物は『お仕着せ』と言って年に1枚、下着は年に2枚、正月と盆に手ぬぐいをもらいました。それだけが年季奉公の
主人からのくだされものでした。
ようやく17歳になりました。
『ああ。今年で年季が明ける。そうしたらお袋に小遣いでもあげられるようになるのでは。』
と思っていたのです。
忘れもしない、その年の5月18日のことでした。草取りをしていたのですがどうにも気持ちが悪く、少し休ませてもらお
うと奥さんに
『休ませてください。』
と頼んだら、
『もうすぐ夕方だよ。』
と言われてしまいました。しかしどうにも具合が悪く、今度は旦那さんに頼みました。旦那は
『それじゃあ仕方がない休んだらいいよ。』
と言ってくれたので、家へ引き返したのです。その時はもう股引を脱ぐ力もなく、上がりはなで寝込んでしまったのです。
夜明けに足が痛くて目が覚めました。痛い、痛い、痛い、もう痛いの痛いの、どうでもいたたまれないくらい痛いのです。
そのまま三日間過ごしました。その三日間の間に畳をむしり取って転げまわったので、寝床の周りの畳は毛羽立ってい
ました。
『そんなに痛いんじゃしょうがない。医者にかけよう。』
ということになり、お袋と下男の仙さんがついて医者に行きました。
初めは村の医者の荒木さん。次は赤岩の医者、館林の医者と巡りました。その医者たちは
『これは俺の手に負えない。』
と言い、羽生やその他の医者に行きましたが
『これは足を切らなければならないので、私の所ではどうにもできない。』
と言われてしまうのです。結局、22軒もの医者を回ってしまいました。
そうこうしているうちに、その年は閏年の5月があり6月になってしまいました。
どうしても良くならない。医者も手を付けられない。それでは行田に斎藤という医者がいて博士だそうだ。もうそこより他
に行く医者は無いだろうと言う事になり、斎藤医者に行きました。
先生は一生懸命に手当てをしてくれました。しかし足は良くならず、もう動けなくなってしまいました。先生は
『この足は切るより他に手は無い。』
【母が語った生い立ち】
【須加村下中条八番付近の廃屋】
【堂の裏にある八手弁才天】
【母の生い立ち】
私が小学校の3.4年生の時だったと思います。母がこんなことを話してくれました。
「母ちゃんの父さんは七蔵と言って、酒好きでいつも酒を飲んでいたんだよ。たまには歌を歌っていたけれど良い声だったよ。母親はおとなしい人で、いつも父親のことを心配していたけれど、家が貧しいので『日傭(ひよう)とり』といって近所の農家の手伝いに行って金をもらい、それで暮らしていたんだよ。この石井家は昔はお大尽と言われた家だったのだけれど、父ちゃんのお祖父さんが借金の肩代わりをして家屋敷・財産全部をなくしてしまったんだそうなんだよ。それで、跡取りの七蔵さんはやけになり、働かずに酒飲みになっちゃったんだそうだ。」