【母の思い出】
(1)仏飯
母は身仕舞には気を遣っていました。朝の洗顔の後、小さな金たらいに湯を入れ、布を使って髪の寝癖を必ず直し、乳液をつけて着物をきちんと着て、朝勤をしていました。朝勤には私たち子供も必ず参加させ、皆に
「私たちは仏飯をいただいている。」
とよく話して聞かせました。
(2)平仮名の経本
どんな時でも経本を離しませんでした。経本と言っても、漢字の読めない母が持っていたのは御首題帳のようなものです。学校に行けなくとも、いつの間にか母は平仮名を覚え、私たち子供たちにお経や御遺文等を平仮名で書かせて、それを読んで覚えたのです。私が小学生の頃にはよく書いた覚えがあります。信徒の前や行事の時には、すべて暗記したものを読むのです。ですから「一心」がこもっているのです。今でも、私の耳には母の声音が残っています。
日蓮宗には「補教」という資格を取る制度があり、母は五回それに参加して「大教補」という地位をもらいました。私も一度参加しましたが、
「漢字の読めない母は、読経の時にどんなにか苦労した事だろう。」
と偲ばれました。しかし、母からは一度も「大変だった」という言葉を聞いた事はありませんでした。寝る時でも、電車に乗っている時でも、いつもいつも離さずに読んでいた母の姿が目に映ります。
(3)麦作り
戦時中の事です。脇を流れる忍川の堤に麦を蒔きました。野菜も作りました。私も朝早く起こされて手伝わされました。二人でバケツに入れた下肥を棒に通して運び、肥料にしました。野菜の種類も様々です。今、菜園での野菜づくりに私が口を出せるのは、その時に母から教えられたからです。収穫した麦は四俵ありました。その麦は、皆出征兵士の留守宅に届けられたと聞いています。また、慰問袋も沢山作り、軍へ送りました。
(4)夕飯
母は、遠くの信者の家には自転車で参りました。そこで一泊するので近所の人も集まるようになり「お題目講」ができました。妻沼・南河原・和田・小針と行っていたのを覚えています。子供の頃の私は、母のいない夜は母の枕を抱いて寝ていたのを思い出します。
また、母は「月経(つきぎょう)」と言って、信徒の家の仏の命日
にはお経を唱えに行きました。病気の人がいる家には、祈祷に行っていました。そして夜遅く帰宅するのです。それから夕飯です。ご飯にお茶をかけ、細かく刻んだ漬物や一寸した惣菜で食べるのです。子供だった私は母の側に座り、「あーん」と口を開いて入れてもらい、一緒に食べるのが嬉しくてなりませんでした。今思えば、信徒の家では「夕飯は済ませた」と言って、お経を唱えていたのでしょう。
(5)指
「『あなたが悪い』と言って相手を指さしたとき、残りの指は自分の方を向いているのだよ。よくよく気をつけなさい。」
と教えました。
(6)ものの命
私が瀬戸物を割ってしまった時に
「お前はこの瀬戸物の生命を奪ったのだよ。謝りなさい。」
と言って、正座させられ手を着かせられました。
このほかにも、数え切れないほど思い出が沢山あります。また、母には16人の孫がいます。その孫たちの中で特に可愛がられたと思えるのは、私の長女です。
長女が赤ん坊の時に実家に帰ると、
「寒い時は、子供はこうして背負うのが一番暖かで良いのだ。」
と言って、自分の素肌に長女を背負っていました。
孫を背負ったのは、この長女一人だけだそうです。
現在、その長女は沙弥となり、当教会でなくてはならぬ人になっています。
学問も、地位も、金もない母が「信心の一念」を持ち続け、多くの人にお題目の功徳を身をもって示し、一生を妙法に捧げた事を知っていただけたら、それが私の母に対しての報恩になると思います。
長い間ご高覧下さり有難うございます。この文が少しでも皆様の信仰心の助けになったならば何よりも嬉しく有難く御礼申し上げます。
合掌
【水行】
【慰問袋領収書 248個とあります】
【皇居参拝】
【朝勤の様子】
平成28年5月1日
敬母心蓮院日祥大法尼を偲んで(11)
【母に頼まれて平仮名で書いた奉讃歌】