平成28年7月1日
妙心寺教会
老尼のお話の部屋
恩人信解院大義日要法師 (2)

(7)教会にとっても恩人である法師
 妙心教会創立からの数年間、私は収入らしきものはなく、亡き夫の庇護の下で生活をしていました。
 昭和49年の寒修行には、皆さんがとても熱心に参加されました。特に法師は一日も休まずに寒中30日間の修行を続けました。その修行明けの日に
「先生、修行明けの御礼をしたいから欲しい物があったら何でも言って。」
と言ってくれたので、私は前々から欲しかった「昭和定本 日蓮聖人遺文」の全四巻を頼みました。早速に届いた
「日蓮聖人遺文」が嬉しくて、寝る間も惜しんで拝読しました。「全体を拝読した」とは今もって言えないのですが、拝読するたびに、心に伝わってくる場所が違ってくるのを、初めて知りました。
 しかし、拝読するにつれて意味の分からない箇所が出てくるのです。辞書のようなものがなければはっきりと分かりません。困っていると、その解釈をするための「本化聖典大辞林」という本がある事を知りました。この事を法師に話すと、その年の10月に「本化聖典大辞林」を寄贈してくれたのです。
 現在の私がわずかながらも御遺文に関しての知識があるのは、この「昭和定本 日蓮聖人遺文」をひたすら拝読したからだと思います。あの頃は、拝読すると水が染み込むように心と頭に入ってきたのです。

 その頃、夫は家の2階で税理士事務所を開いていました。妙心教会を創立したばかりの私は、昼は布教のための行脚や祈祷などの法務に追われていました。そして夜になると、日中の仕事を終えた人たちが毎晩のように唱題修行に見えます。
 ある時、夫から
「唱題の声がうるさくて夜も眠れない。家の前の土地を寄付するから早く出ていってほしい。」
と言われました。狭い家の中での修行なので、言われても
仕方がありません。しかし、毎日のようにそれを言われるようになり、その度に苦しみました。
 そんな日々を過ごす中、昭和56年に日蓮大聖人の七百遠忌を迎えることになりました。私は
「その時までに百万遍のお題目を唱えして、授かるものならば道場を立てよう。」
と心を決め、信徒の方々に話しました。信徒の方々も賛成してくれたので、道場建立の趣意書と共に寄付を募りました。その時に中心になって寄付をし、人々を説得してくれたのが法師だったのです。
 そして、有難い事にあの狭い8畳一間の部屋から、わずか7年目にして現在の道場が出来上がったのです。その後も、客殿や宝塔を造成しました。この間、陰でずっと私を支えてくれたのが法師なのです。もし、法師の力添えがなかったらば、この道場を保つ事は難しかったでしょう。


 法師は昭和53年9月13日に、愛妻とこの世から別れました。私も悲しかったです。まだ若い彼女は48歳でした。しかし、その悲しみに打ちひしがれる事なく、尚一層の精進に努めました。
 行脚修行も始めました。愛妻の遺品の整理をしていると法師の行脚修行の支度が全て調えられていたのだそうです。法師の精進を信じ、行脚修行を願っていたのでしょう。愛妻のその心を知り、撃鼓行脚も始めたのです。
 また、愛妻の菩提を弔う心と広宣流布の志を持って、敷地内に立派な堂を建立しました。その堂はM上人に「妙法堂」と名付けられました。

 ある時、法師と
「私はこんなにあなたに守られているけど何故かしら。」
という話になり、二人で修行してみました。すると私達の過去世の縁を教えられたのです。
 私はある屋敷の娘で、「姫」と呼ばれていました。姫は母と早くに死別したそうです。父は領地を守り、土地の見回りや公務で屋敷を留守にする事が多かったそうです。
父が留守の間に屋敷を守り、姫を守ったのが家老の法
師だったのです。その過去の縁によって、今の二人の間柄
があるとの事なのです。
 証拠は何もありません。しかし、現在の二人の姿を見て
私達は納得しました。どなたが教えて下さったのかも判り
ませんが
「不思議な事もあるものだ。」
と二人で語り合ったのです。


【新しい道場の建立】
【創立当時の妙心教会】
【妙法堂の縁起】
【法師が建立した妙法堂】
【報恩御会式と教会公称記念の砌】