平成28年6月1日
妙心寺教会
【日要法師と当教会の縁】

(1)当教会に見えるまで
 法師の祖母Wさんは、昔、S教会の信徒であったそうです。その祖母Wさんが他界した時に、長男の「TK氏」が続いてS教会の信徒となりました。その当時、私の母の「心蓮院日祥大法尼」はS教会の布教の手伝いをしていたそうです。
 母は昭和2年にS教会を離れ、行田に居を構えることになりました。その時に「TK氏」を始めとする3人が、母と一緒にS教会を離れたそうです。その後、母は昭和6年に「蓮華寺所属・妙法正顕結社」を創立致しました。
 T家は地方の名家であり、一族の中には、あの「クラーク博士」のもとで勉学に励んだ方もいました。また、その家系を尋ねると、行田の名刹である「長久寺」の住職をされ、現在も参拝者が絶えないと言われる「法印光浄(明和6年9月10日遷化)」を始めとして、出家された方が2名いらっしゃるという旧家でもあります。私も法師の父「TK氏」とは何度かお会いしております。
(4)H寺に行って
 この頃、私は群馬県H寺のT上人から唱題修行の指導を受けていたので、毎月一度の修行日には一人でH寺
に通っていました。法師が修行に来るようになったので、お願いして二人でH寺に通うようになりました。H寺まで
は車で約一時間半ほどかかります。
 その間おとなしくしていれば良いのですが、あの頃は若かったので二人で口論する事もありました。行田を出る
時に雪が降っていたので
「群馬は、もっと雪が凄いのではないの。大丈夫かしら。」
「いやいや、こちらで雪が降ってるからといって群馬も雪とは限らない。」
などと子供のような言い合いをしたり、雪が止んだ月の綺麗な晩に
「あれ、ライトが点かなくなった。」
「車屋さんで修理したら。」
「もう遅いからこのまま帰る。」
と雪明かりを頼りに、ライト無しで帰ったこともありました。無事に帰ってから
「今日は雪のお陰で助かったねえ。」
と笑い合いました。
【柏崎の番神堂で奥様と共に】
(3)修行の始まり
 唱題修行が始まりました。驚いたことに「奧さん」と、弟の「TH氏」・「TJ氏」が一緒に参加してくれました。当時の修行は接骨医のS氏夫妻、会社員のO氏夫妻、N氏夫妻が主なメンバーでした。亡き夫が建てた家の8畳一間を借りた道場です。修行が終わると、隣の4畳半でお茶を飲みながら遅くまで話し合いました。
 また、群馬県H寺のT上人が泊まりがけで指導に来てくださり、その晩は皆眠ることも忘れてT上人のお話をお聞きしました。皆が燃えていたのです。当時43歳の私より、
皆が年下でした。中でも、法師とS氏は毎晩修行に見えたのです。
(2)日要法師との出会い
 昭和47年のことと覚えております。私は母の妙法正顕結社で御会式の手伝いをしていました。その時に、偶然に
法師が来たのです。これが初めての出会いでした。
 寒修行の話題になりました。法師は
「太鼓を叩いて街中を歩くのは御免だよ。」
と言うので、
「私の教会では、唱題修行と言って寒中はお題目を唱えるのです。」
と答えると
「へえ、それなら先生のところへ行くよ。」
と言って、それからの長い付き合いの始まりとなったのです。
 法師は花園を経営していました。研究熱心で新しいことに取り組む姿勢がありました。日本で初めてポインセチア
の苗を輸入する許可を取り、その栽培と販売を始めたのです。そのため、当時は法師の花園には何名もの研修生
がいました。
【寒修行成満記念の昭和定本日蓮聖人遺文】
【大義日要法師と奥様】
【法師と七面山で御来光を拝する】
老尼のお話の部屋
恩人信解院大義日要法師 (1)
(5)寺院参拝
 朝早くに、弟の「TJ氏」と一緒に来て
「先生、これから会津の顕本法華宗の寺へ参詣に行こう。さあ、すぐに起きて起きて。」
と言われて飛び出したこともあります。
昔の車は100キロ以上スピードを出すと
「ピー、ピー。」
と音がするのです。
ぼんやりした頭の中で、ずーっとその音を聞きながら車に乗っていました。
思い立つと、比叡山の定光院までも夜討ち朝駆けです。
佐渡にも三回行きました。
奥さんと一緒に行ったこともあります。
法師の奥さんのことを話し出すと、きりがなくなります。
奥さんは私の最高の理解者であり、支援者でもありました。
「法友」と言うよりも、「深い姉妹」のように思っています。

(6)維摩居士だねえ
 この頃、教会での修行の中で修行者に経文や御遺文が良く示されました。文の中の文字を指でなぞっていくのですが、それが飛び飛びなので、その時にはよく判りません。法師は手早くそれを書いていくのです。修行が終わった後でそれを一つの文にすると、意味が通じるようになります。そこで、その文について皆で話し合うのです。
 後に高崎のM上人が法師のことを
「維摩居士だねえ。」
と話されました。
「維摩居士(ゆいまこじ)」とは、釈尊の時代の在家の人ですが、何事もよく知り、法論になると釈尊の御弟子方も負けたそうです。