平成23年7月1日
妙心寺教会
仏教とは(6)  浄土宗 真宗
老尼のお話の部屋
  【浄土宗】
開祖 法然上人 源空
法然上人は、13歳で比叡山に登り、16歳で天台三大部(智顗の主書・法華玄義・法華文句摩訶止観:ちぎのしゅしょ、ほっけげんぎ、ほっけもんぐまかしかん)を3年で読了したという俊秀の人です。
 当時の仏教界は修行・教学・寄進を主としていました。しかし、世間は保元の乱・平治の乱・平氏の滅亡などが続き、戦乱や貧困に悩む人々があふれていたのです。
 上人は比叡山の西塔、黒谷にこもり、仏道のあり方を探し求めました。結句、この苦しみから離れ極楽往生をするためには、念仏を唱えることであると知り、「選択本願念仏集」等を著し、京都東山に庵を結び、1175年に浄土宗を開かれました。
本山 華頂山 知恩教院大谷寺
総面積7万3000坪、東山36峰の一つ「華頂山」を背負い、境内は上中下の三段構えに広がっています。上段の中心は御廟、中段は御影堂、下段は三門となり、法然上人の終焉の地として信仰を集めています。
 徳川家康の庇護によって今日のような規模にまで発展しました。
 「知恩」という名は、法然上人が亡くなってすぐ始まった追善回向に由来したものです。
本尊 阿弥陀仏
経典 浄土三部経(無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経)
お勤め(勤行) 開経偈、歎仏頌、四誓偈
《法然上人の御言葉》
「念仏を申さん者は、ただ生まれつきのままにして申すべし。」
(法然上人伝記)  
すべての人に救われる資格があるのだから、念仏を唱える者は、
ただ生まれつきの性格のままで唱えると良い。
 大無量寿経に説かれている「南無阿弥陀仏」の本願を信じ、
名号(南無阿弥陀仏)をお唱えすることによって、この世の苦
しみからのがれ、浄土に往生することができる。


《親鸞上人の御言葉》
 「安楽浄土にいたるひと、五濁悪世にかえりては、釈迦牟尼
仏のごとくにて、利益衆生はきはもなし」 (浄土和讃)
西方極楽浄土に往き生まれた人々は、世俗世界に還り生まれ、
生きとし生けるものに対し、釈迦仏がなしたように慈悲を修する
であろう。 なお、「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」
で有名な「歎異抄」は弟子の唯円が親鸞上人の言葉を伝えた語
です。    
開祖 親鸞上人
親鸞上人は9歳で出家し、比叡山に登り29歳で山を下り、法然上人の弟子になりました。
1207年、専修念仏が弾圧され、法然上人は四国へ、親鸞上人は越後に流されました。その土地で恵信尼と結婚し、1211年に許されて常陸の国(茨城)稲田に居を構え、20年間、そこに住まれました。
 この地で「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」を著述し、62歳で京都へ帰り、90歳で亡くなりました。父の最後を看取ったのが覚信尼で、東山大谷の地に墓が作られ、後の本願寺の前身といわれます。
本山 東本願寺
親鸞上人の墓所、大谷廟堂の流れを受けて、徳川家康から境内地を寄進されました。
 正式名称は真宗本廟といい、現在の諸堂は明治28年(1895)に再建されました。
 寺の周りには筑地塀をめぐらし、城郭のような重厚な掘割りがあります。また、門主の隠居所の「渉成園(しょうせいえん)」は17世紀に作られ、回遊式庭園として有名です。
本尊 阿弥陀如来
経典 浄土三部経(無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経)
お勤め(勤行) 礼讃文、正信偈、念仏、和讃等
 【真宗】(大谷派)
【知恩教院大谷寺】
【法然上人】
 堂塔を建立し寄進する貴族たちには、功徳があるというが、
大半の人は貧しく、その人たちに光明はないのかと修行した
結果、阿弥陀仏の本願を信じて「南無阿弥陀仏」と唱える「称
名念仏」こそ、法然上人の選んだ易行で、誰にもできる仏道
修行であると、勧めました。
 阿弥陀堂
阿弥陀堂門
御影堂
【東本願寺】 御影堂門  
【親鸞上人】