平成23年4月1日
妙心寺教会
仏教とは(3) 仏教経典の成立
老尼のお話の部屋

 お釈迦様の御入滅後、残された教団はその教えと教団の維持、統制を図らなくてはなりませんでした。

「我が滅後は、教法と戒律を師とすべし。」
という遺言に従って、長老大迦葉(だいかしょう)は摩掲陀(まかだ)国の国王阿闍世(あじゃせ)に願って、
七葉窟に講堂を建て、500人の阿羅漢を集めました。

 「持律第一」の優波離(うばり)が戒律を、
「多聞第一」の阿難(あなん)が教法を誦し、
一同が声を出して誦して、仏説と違いないこ
とを確認し合ったと言われています。その期
間は7ヶ月に及び、律と経は完了いたしました。
この集まりを結集(けつじゅう)と言います。
 
 「西遊記」は三蔵法師が孫悟空(猿)、猪八戒(豚)、沙悟浄(河童)を連れて、観音様の守護を受けながら、インド
へ仏教の経典を求めて冒険をするという旅行記です。

 昔、テレビで夏目雅子が三蔵法師を演じた西遊記。近年では、香取慎吾の孫悟空などでも、放映されたことをご
存知ですか。私も昔、本で読んだり、テレビで見たりしたのですが、細かいことは記憶に残っていません。
 しかし、たった一つだけ覚えていることがあります。

 それは、師匠のK上人に教えられたことです。
「浄蓮よ。西遊記の孫悟空、猪八戒、沙悟浄は、人間が生まれながらに持っている三毒を表しているのだよ。」
三毒とは、貪(どん:むさぼり)、瞋(しん:いかり)、癡(ち:迷い、愚痴)の三つの煩悩の事です。

 三蔵法師は仏道を求める修行者であり、供の3人は法師の修行中の心中であると考えられます。修行者は、この
三毒を浄化し、菩薩として世の人の苦しみを救う事を目的としなければなりません。観音様は、その修行を助けてく
ださる菩薩様です。

 孫悟空が斛斗雲(きんとうん)に乗って世界の果てまで飛んでいったと思ったら、仏のさしのべた指の上であった
というお話も、仏の広大な慈悲力を表しているのではないでしょうか。


 「自分たちは、仏の掌に乗っているのだ。乗せていただいているのだ。」
と知った時、私達は限りない安心を得ることができるのです。

 「三蔵法師」といえば「西遊記」を思い出しませんか。
「西遊記」は「中国御伽草子」に書かれた小説です。
明の時代(16世紀後半)に、出版されました。唐の時
代(7世紀)に、インドに御経を取りに行った高僧玄奘
(げんじょう)がモデルになっています。
 ですから、孫悟空や猪八戒、沙悟浄も実在してい
ません。唐の皇帝大宗が命じ、玄奘の口述をもとに弟
子の慧立(えりゅう)、彦倧(げんそう)が書いた「大唐大
慈恩寺三蔵法師伝」が「西遊記」のもとになった本と言
われます。

 その後、幾度か結集が行われました。
しかし、年を経るに従い、教団の中に分裂の兆しが見え始めました。

 それは、僧侶の中で教義の研究に専念する者が現れてきたからです。その事は、お釈迦様の教え
の根本である「一切の衆生の苦を離れしむる」という願いから離れていってしまったのです。そして、
現実に生活する大衆に対して、教えは弘まらなくなってしまいました。

 そこで、大衆と共に活躍していた僧侶や在家の人たちは、新たに教典を編纂する必要が起きたので
す。そのための結集を「華氏城の結集」と言われ、こうして大乗経典が生まれました。

 摩掲陀国の王を継いだ阿育(あしょか)王は、インド統一のため、南インドの強国羯陵伽(かりんか)を
征服しました。その時に阿育王は、戦場で数十万の戦死傷者を見てその悲惨さを痛感し、仏教に帰依
されました。
 王は即位18年の結集を志し、「大徳目犍蓮(だいとくもくけんれん)」を上座として千人の会衆を選び、
「経・律・論」の「三蔵」が結集されました。

 これを「華氏城の結集」と言います。
 この経典は、インドをはじめ、ネパール、セイロン、ビルマ等の諸国に伝えられました。遠く唐に伝えら
れたのは5世紀から6世紀と言われています。

「三蔵」:「三蔵」とは、仏教聖典の総称を言います。
(1)経: 仏教の開祖、お釈迦様の説かれた教え。それにまつわる物語。
(2)律: 出家が守るべき規定。
(3)論: 仏の教えに対する研究や解釈、注釈。
 これらを集めたものを「三蔵」と言うのです。
 そして「三蔵法師」とは、これらを熟知した、または翻訳等をした僧侶を尊称して言います。