平成26年2月1日
妙心寺教会
撃鼓行脚頭陀行(2) 浄蓮の修行Ⅰ
老尼のお話の部屋
【妙昌寺行脚修行】

 「撃鼓行脚頭陀行(きゃっくあんぎゃずだぎょう)とは、太鼓を
叩いて街を廻ることである」と知ったのは、昭和40年(1965)
の暮れに母の教会で妙昌寺の住職渡辺錬定上人にお会いし
たからです。
 渡辺上人が
「中野さん、『唱題修行』という修行があるが、来てみないか」
とお誘いしてくださったのが御縁でした。
 当時の私は、お題目は唱えてはいましたが、私の求めてい
るものとは違っているような気がして迷っている時でした。そ
こで、早速妙昌寺に伺い、そこで初めての「唱題修行」を体
験いたしました。
 そして「このお題目を唱える心境こそが、私の求めていた世
界である」と感動し、「是非、この唱題修行を究めてみたい」と
思ったのです。
 
 中野駅から新宿・池袋・飯能と乗り換え、八高線の明覚駅で降りて行脚修行が始まります。明覚駅
から妙昌寺までは、およそ三時間かかります。
 渡辺上人に教えられた通り、太鼓を叩きお題目を唱えて歩きました。
 道端で立ち話をしている女の人が
「あれまあ!まだ若いようだけど何があったんだろうねえ。」
と驚いたように話していたのを覚えています。
 渡辺上人は、いつも玄関の敷台に座って迎えてくださいました。
 翌日の午後は、妙昌寺から明覚駅まで行脚をして帰宅するのです。

 そのようにして、一年が過ぎました。渡辺上人から
「次からは、嵐山の八代大明上人の所で修行してから妙昌寺に来るようにしなさい。」
と命ぜられました。それとともに
「自分で『教箋』を作りなさい。そして、回向もするのです。」
と言われたのです。
 歩くのは何ともありませんでしたが、知らない家の前で回向するのは随分ときつい事でした。
 
 こうして足かけ7年の歳月が過ぎました。
 妙昌寺での修行は、渡辺上人が昭和45年4月8日に遷化されたので、その後一年を経て終わった
のです。
 年が明けると、渡辺上人から「妙法誌」を手渡され、前述の(一月掲載の老尼のお話の部屋)「撃鼓
行脚頭陀行とは」を読むように言われたのです。一応、読むことは読みましたが何も解ってはいません
でした。
 日ならずして寒修行が始まりました。私も先輩の会員さんと共に太鼓を叩いて、夜の外回りの修行に
出かけました。その寒修行が終わった翌月、渡辺上人は「次は行脚修行をするように」と話されたので
す。

 妙昌寺の唱題修行日は、毎月「八の日の夜」なのです。当時は東京の中野に住んでいたので、どう
しても一泊しなければ修行はできません。そこで、唱題修行日の昼の時間を行脚修行にあてました。

 修行の前日から家族の食事の用意をし、当日の朝に家族を送り出すと、掃除・洗濯・当日の夕食、そ
して翌日の食事を用意してから出かけました。その頃の私は、修行に対してひたすらに燃えていたの
です。長男は中三、次男は小六、長女は小三でした。
 「もう子供は大きいし、私が一日や二日いなくとも何の迷惑もかからない。この修行を続けることによっ
て、家の中が幸福になるのだ。だから家の者に少しは迷惑がかかったとしても、それは仕方のないこ
となのだ。」
と思っていたのです。
 しかし、この時の私はとんでもない考え違いをしていたのです。「一ヶ月の内の六日間、家を留守に
している」、その時間を許してくれた家族に感謝の念など持っていなかったのです。そんな様ですから、
家族に良い感情を持ってもらえないのは当然です。
 そのことに気づいたのは、半年も修行に通ってからでした。「有難い」と家族に感謝の念を持つよう
になった頃から、家族の心持ちも変わってきました。掃除・洗濯や食事の準備が終わらない時でも、
快く送り出してくれるようになったのです。
【昭和43年 身延山参拝】
【昭和45年1月 師匠渡辺錬定上人と共に】
(この時の写真が遺影になりました)