「6月の花と言えば、やはり紫陽花ね。」
と言われて、突然に女学校卒業の時に寄せ書きを書いてもらった級友のNさんを思い出しました。そして、寄せ書きの手帳を探しました。それは、引き出しの奥にぼろぼろになってありました。


 「紫陽花」と題して
「忘れじと堅く誓いし君なれど、今は紫陽花の花のごとく、日、一日と変わりゆきぬ。冷淡という花言葉を紫陽花に見当てて、君は必ずかすかにも、いたんでくれればよいかと、私は苦境と愛情の涙を一花に深く深くひめて、君に封じ送りぬ。」
とありました。

 それから、手帳を懐かしく見始めました。一年生の私のために卒業生が書いて下さった別れの言葉。自分が卒業する時に書き合った級友達の言葉。
 第二次大戦中です。皆、「女子挺身隊」として徴用されました。軍需工場に行った人が大半です。
「なよ竹のごとく生きならなむ我が心、うつせみの世にあらし吹くとも」
「くれぐれも御身大切になされ、挺身隊として銃後の生産戦に力のあらんかぎり、戦って戦って戦い抜きましょう」

 家にいることは許されません。短期間の講習を受けて小学校の助教師になった人が10数名、私はTさんやIさんとともに忍(行田)税務署に配属されました。

 忍税務署でも若い男性は戦線に駆り出され、「国務要員」として残された数名の男性と30名程の女性で税務を行っていました。  昭和20年8月15日に終戦を迎えました。そして昭和22年、母の勧めで結婚する事にしました。退職する時に、何人かの方が祝いの言葉を手帳に書いて下さいました。

その一人、E氏から
「心を弛めてはいけない。それでいいんだ。今の気持ちで結婚だ。貴女には大きな使命がある。開拓してくれ。あんたには新たに得たところの大きい未開の土地が待ってゐる。あんたの手によったならば、必ずやその大きな使命を全うすることが出来るであろう。心を弛めてはいけない。」
という言葉をいただきました。      
 
 今考えると不思議な気がします。

 紫陽花という一言から、こんな昔を思い出しました。戦中・戦後の青春のひとかけらです。

【古い手帳です】
【E氏の言葉】
平成30年6月1日
妙心寺教会
老尼のお話の部屋
紫陽花