【「挨拶」とは】
  日蓮宗新聞に、中条暁秀上人が書かれた挨拶についてのお話がありましたので、お伝えいたします。
 
「挨拶」という言葉の「挨」も「拶」も「押す・迫る」という義で、「挨拶」という熟語にして「押して進む・押し合う」との意がある。これは、修行僧が自分の心境や意見などを仲間に打診して、その反応を見て切磋琢磨することから出たという。
 これが次第に人間同士の対応のことを意味するようになって、相互の返答・返礼・応対・応接等を「挨拶」と言うようになった。



  人は一人では生きられない。心を通じ合わせるために相手に対して「押して」みて、その反応を見るための行為であり、人間の智慧が生み出したものである。だからこそ「親しき仲にも礼儀あり」という言葉が残っされたのであろう。
 挨拶は、その根底に「信頼」と「敬い」がなければならぬし、相手に対して暖かい血の通うものがなければならぬであろう。「私はあなたを信頼し尊敬いたします」という誠意を伝えるものが「挨拶」であり、「真心を推し進める事」なのである。

 私は今まで何気なく「おはようございます」とか「おかげさま」とか、日常で様々なご挨拶をしてまいりました。このお話を読んで、私たちが日常使っている言葉にはそれぞれの意味があり、言葉遣いをもっと大切にし、気を付けなければならぬと思いました。

【気になる日本語】
 先日のテレビで「現代は『ら抜き言葉』が流行っていて、それが通じてしまっている」という話題を目にしました。例えば「見られる」は「見れる」になってしまっていることなど、いくつかの例をあげていました。
 また、私が分からなくなるのは短縮語です。「スマホ」・「爆問」くらいなら何とか分かりますが、「コラボ」になるともう駄目です。その言葉の意味が分かるまでに時間がかかり、人に聞いて確かめたりしております。世の中が忙(せわ)しいので、このようになってきたのでしょうか。日本語が失われつつあるように思えてしまいます。

【終わりに】
 今の私は、朝の「おはようございます」の挨拶が出来る事を有難く思っております。そして、
「これからは、もっと心のこもった挨拶ができるよう心がけたい。」
と思っているのです。
平成28年11月1日
妙心寺教会
老尼のお話の部屋
挨拶

【一日の始まり】
 私の挨拶の第一声は「おはようございます」です。毎朝ブログのコメントを印刷して持ってきてくれる副担任との挨拶です。その後、道場に朝の勤行に出掛け、皆に「おはようございます」と声をかけて一日が始まるのです。