シャーロック・ホームズ最後の挨拶

ウィステリア荘
 『ジョン・スコット・エクルズ氏の怪奇な体験』『サンペドロの虎』の二章からなるお話です。1892年に起きたとワトソンが書いていますが、この時期にはホームズは滝つぼから落ちて隠れていたので、研究家たちは違う年代を考えているそうです。
 電報を打ってから訪ねてきたエクルズ氏がホームズに事件の概要を話しだす前に、ベーカー街へ警官がやってきます。異様な体験をしたとはいえ、エクルズ氏には思いもかけないことでしたが、殺人容疑が掛かっていたのです。
 エクルズ氏がホームズを訪ねたのは、前夜に泊まったスペイン系男性ガルシアの暮らす、ウィステリア荘の人間が全員、朝になったらいなくなってしまったからなのですが、ガルシアは自宅から1マイルばかりのところで、死体で発見されたので警察が追って来たのです。
 ガルシアが前夜に受け取っていた女性の手による暗号めいた手紙などから導き出された答えは、外国の革命家や独裁者の話へと膨らんで行きます。
 ちなみにこの話の中でホームズは、「人生は平凡で陳腐だ」と言っています。
 
ボール箱
 ちなみに初めて読んだ小学生時代に強く衝撃を受けた、耳が塩漬けにされて送られてくるというこの事件。他にも殺人事件は沢山あるのにやけに怖かった思い出があります。 さて、実際、ドイル自身も、衝撃的な事件であることと、この事件の顛末に関るある事情が不道徳だというので、一度は出版を止めているのだそうです。
 クッシングという独身の隠居女性のところへ、男女の耳がひとつづつ、塩漬けにされて送られて来たことから事件が始まります。耳の入っていた箱の梱包の仕方に特徴があったこと、ミス・クッシングの妹の結婚相手の職業などから、ホームズはレストレードに犯人を指摘します。
 犯人の供述書を読み終えたホームズは、「この苦難と暴行と不安の循環は何の役を果たすのだ?何かの目的がなければならない。さもなくばこの世は偶然によって支配されることになる。そんなことは考えられない。では何の目的があるのか?これは永遠の問題としてのこされる。人知のおよぶところではない」と言っています。
赤い輪
 下宿を経営する主婦、ワレン夫人がベーカー街を訪ねてきます。10日前にやってきた下宿人が、最初に顔を合わせたきり、初日に一度外出したきり、誰とも顔を合わさずに部屋に篭り、朝夜問わずに部屋の中を歩き回っていて不気味だ、というのです。
 多少、興味を引く部分がありはしたものの、シャーロック・ホームズといえども、ただの個人の奇癖かも知れぬものへ首を突っ込むわけにも行かず、ワレン夫人を宥め、なにかあったら力になると言って帰します。
 ちなみに、「ホームズは」からだを乗りだすようにして、その細い手をおかみの肩にそっと置いた。彼は欲すれば催眠術でもかけたように、人心を落ちつかせる力を持っていた」と、ワトソンはホームズを描写しています。
 その翌朝、ワレン婦人の夫が、どうも下宿人と間違われて暴漢に襲われる事件が起こり、夫人がホームズのところへやってきます。 警察、ピンカートン探偵社の人間も絡んで来る中、ホームズが事件解決をします。
 何の得にもならない事件になぜ首を突っ込むのだ、とワトソンに問われたホームズは、「君だって誰かを診療する時には、料金のことなど考えずに、必死に病気と取り組むだろう?」と問い、事件と取り組む姿勢を述べています。
ブルース・パティントン設計書
 街路を隔てた向こう側さえもぼんやりと見えないような日の続いていた1895年11月の第三週のことです。ホームズの兄、マイクロフトが事件を持ち込みます。ガドガン・ウエストという男の事件についてベーカー街を訪ねるという電報が来るのですが、ホームズはいつもの習慣を破ってまでベーカー街に来るというマイクロフトのことを、「田舎で市電に会うようなもの」と表現します。
 『ギリシャ語通訳事件』で登場したマイクロフトですが、ここではさらに詳しくホームズの口から、「兄は政府そのものだと言っても間違いない」と語られます。名誉や年俸を望まずに下級官吏に甘んじながらも、政府の全てを把握し動かす、「マイクロフトの一言が国家の政策を決定した事が幾度だかしれない」男なのです。「そのジュピターがきょうは下界に降りてくるというのだ。いったい何を意味するのだろうね?」。
 アーサー・カドガン・ウエストという、官営へ行き工場に勤める二十七歳の独身青年が、地下鉄で死体となって発見されたのですが、官営兵器工場から盗まれた、ブルース・パティントン潜水艦設計書10枚のうち7枚が死体のポケットから発見されたので、マイクロフトが出てきたのです。果たしてウエストは、設計書を盗んだのか、見付かっていない3枚はどこにあるのか、ホームズが解決します。
 ちなみにこの事件の解決により、ホームズはウィンザー宮殿で一日を過ごし、「尊い名」を持つ貴婦人からエメラルドのネクタイピンを貰います。
瀕死の探偵
 ワトソンが結婚してベーカー街を出て、2年後のことです。ハドソン夫人がワトソンの元へ、ホームズが瀕死の重体だ、急がないと死に目にだって会えないという知らせを持ってやってきます。大急ぎで夫人と友にベーカー街を訪ねたワトソンは、やせ衰えぐったりとしたホームズに再会します。近づこうとするワトソンに、伝染病なのだから近づいたら出て行ってもらうと言い、それでもホームズを診察したいと言うワトソンに、診て貰うのなら僕が信頼できる医者に診てもらう、とまでの暴言を吐きます。
 医者としての自尊心を傷つけられながらも、それならばせめてロンドン一の医者を呼んで診て貰ってくれと頼みます。しかし扉へ向うワトソンの前を猛然とホームズはダッシュして鍵をかけてしまい、僕を心から心配してくれるのは君だけだからここから出さない、6時まではここにいてくれと言い出します。仕方なくホームズの言い分を飲むワトソンですが、マントルピース上の小箱を手に取ると、ダッシュした時よりもさらに驚かす勢いで、ホームズが注意してきます。「君は医者のくせに患者を精神病院へ追いやるようなことをする」と言われ、とうとうひどい精神錯乱を起こしたものだといやな気分で6時を待つワトソンでしたが、6時になるとホームズに、カルヴァートン・スミスという人物を呼んできてくれと頼まれます。今度は、精神錯乱を起こす友人を置いてはいけぬと出掛けたくないワトソンでしたが、またまたホームズに強く頑固に言われて、呼びにいきます。
 ホームズの病気は果たしてどうなるのか?ホームズとワトソンの硬い友情と信頼の一端がのぞける一編とも思えます。
フランシス・カーファックス姫の失踪
 故ラフトン伯爵のただ一人の直系であるフランシス姫は、お金こそ沢山持っているわけではないものの、スペイン風の銀の飾りに珍しいカットのダイヤモンドを配したものを肌身離さず持ち歩いている、中年に差しかかったばかりの美人です。昔の家庭教師、ドブニー嬢に決まった間隔で手紙を出す習慣を持っていますが、ある時からそれがなくなり、ホームズに依頼が持ち込まれます。
 最後に小切手を切ったのは、スイスのローザンヌで、何者か分からぬマリー・ドヴィーヌ嬢宛てとなっていました。ロンドンを留守に出来ぬホームズは、ローザンヌでの調査をワトソンに頼みます。
 ローザンヌではワトソンも色々と調査してフランシス姫の足取りをいくらか掴みますが、そこで労働者の男と喧嘩になり掴みかかられます。ワトソン劣勢だった喧嘩を横から助けてくれた男は、ロンドンを離れられたホームズの変装でした。ワトソンの調査をあまり認めてくれぬホームズですが、ホームズ自身も調査を進めており、ワトソンと喧嘩になった男が、フランシス姫と両思いでありながらも一緒になれなかった、つい最近まであれくれた生活を送っていた男であり、その男を部屋に呼んで話を聴くことになります。
 果たしてフランシス姫の行方は?ホームズが意外な場所から発見します。
 
悪魔の足
 なんとこれは、普段はワトソンの発表をあまり快く思っていないホームズが、自らこの事件の発表を促した一編です。
 『コンウォールノ戦慄ヲナゼ発表セヌノカ。アレハ僕ガ手ガゲタモットモ怪奇ナ事件ダ』という電報を受け取ったワトソンは、取り消し電報が来る前にと、急いで物語の発表に取り掛かるのです。ちなみにホームズは、電報で用が足りる場所にいる時には、決して手紙など書かぬ男、なのだそうです。
 事件は1897年、ホームズが衰弱を示して、ハリー街の名医、ムーア・エーガー博士から転置療養しなければ取り返しが付かないことになると言われて、コンウォール地方へワトソンと共に移動していた時に起こります。古代コンウォール語の研究に没頭していたホームズとワトソンは、働かなくてもいい身分で牧師館の一部を借りて住む、モーティマ・トリゲニスという人と知り合いになり、お茶に招かれた事もありましたが、ある日、牧師がトリゲニスと共にやってきます。
 前夜、トリゲニスは、兄弟のオウエンとジョージ、ブレンダという妹の住む家に、カード遊びに行っていましたが、朝、その家で異変が起こったと聴きつけて行くと、原因不明で兄弟は発狂、妹は死亡していました。
 ホームズは調査にとりかかりますが、モーティマ・トリゲニスも謎の急死を遂げてしまいます。
 事件の真相を解き明かしたホームズは、犯人を見逃してしまいます。
 「僕は恋愛の経験はない。しかしもし恋愛したとして、相手の女がこんどのような目にあえば、やっぱりあの無法なライオン狩りと同じことをやりかねないよ」
最後の挨拶〜シャーロック・ホームズの結詞〜
 シャーロック・ホームズが引退して養蜂に精を出していた頃、政府に持ち込まれて解決した事件。聖典に登場する中で、一番に年取ったホームズの活躍です。
 ちなみにこの物語は、いつもの書き手のワトソンでもなく、ホームズが書いたのでもなく、三人称で描かれます。
 第一次世界大戦がもうすぐ起こる頃、ドイツ人の有能なスパイで、イギリス人受けも良いので疑われていないフォン・ボルグを逮捕するためにホームズが乗り出します。
 事件の最後にホームズは、「東の風になるね、ワトソン君」(東の風とは、イギリスでは冷たく不快な風を指すそうです)と、第一次世界大戦へ向う世の中を暗示します。