8話
3章 月の夜の出来事 II
パトカーのサイレンの音。
男は耳慣れた音に気づく。
「もう、お家へお帰り」
男の発した言葉に少女は目を大きく見開いた。
「どうして?」
少女の冷え切った頬に優しく手をあて、男は立ち上がる。
「現実の世界に帰る時間だよ、アリス」
月の魔法がやがて終わりを告げることを男は知っていたのだろうか。
「君の夜は永遠じゃない。朝になれば何かが変わるはずだよ」
二人が出会ったときよりも月の色が少しずつ霞はじめているのは、やがて来る陽の光のせいであった。
「おじさんは・・・。おじさんには朝は来ないの?」
少女の顕著な反応に男は少し面食らった。
「さあ・・・」
男は感受性が豊かな少女に曖昧で卑怯な答えを返す。
しかし、彼には解っていた。今日の月は二度と見ることが出来ないことも、陽の光を浴びることが出来ないことも。
「私・・・私・・・どうしたらいいのかわからない」
自分の頬に触れている冷たい男の手首を両手で包み込みながら少女は目を強く閉じた。
「おじさんがいるから、いてくれたから・・・。一人ぼっちじゃなくなったのに」
男の手の平に少女の熱い涙が落ちてゆく。
「私は、君にとって今夜の月と同じ存在なんだよ。朝が来るまで一緒にはいられないんだ・・・」
少女の目から堰を切ったようにとめどなく流れ落ちる涙は、月の金色の粒子を浴びて甘い蜂蜜のようだった。
3章 月の夜の出来事II おわり
4章 冬の月
少女の家はこの街では有数の大牧場を経営しており、農場から数十キロ離れた場所に屋敷をかまえ、その屋敷で父親の弟にあたる叔父とその妻、そして数十人の使用人たちと暮らしていた。
「クィーンズホテルのパーティにどんなドレスを着ていったらいいかしら?ことりさん」
大きなクローゼットの前で、本来の年よりも十歳は若く見える、シルクのランジェリー姿の女性が小首をかしげながら、とても重大な問題かのように問いかけている。
あれこれと服を選んでいるそんな母親を娘は絨毯から腰を上げて笑いながら言う。
「これはいかがでしょう?奥様」
クローゼットから取り出した淡いすみれ色のドレスを少女は母親に差し出す。
「まあ・・・素敵」
ドレスを受け取り身体に当ててポーズをとる。
「素敵だよ、ママ!それならパパも惚れ直しちゃう」
女は娘に褒められて嬉しそうに微笑むと娘も笑顔を返す。
「君のドレスは今夜の月より綺麗だなあ」
二人は声を合わせてそう言うと、思わず笑い出す。
「パパは不器用だから、いつも服のことしか褒めなんだもの」
少女は肩を竦めた。
準備が整うと二人は仕立てのいい黒のタキシードをぎこちなく着込んだ男の待つ階下へと降りて行く。
男は降りてきた妻の美しい笑顔に初恋のようなめまいを覚えた。
「あ・・・。綺麗だ。君のドレスは今夜の月よりも綺麗だよ・・・」
二人のレディは一瞬、呆気にとられたが、直ぐに顔を合わせて笑い出す。
「二人で何笑ってるんだ?」
淡いすみれ色のドレスの裾を躍らせて女は紳士の腕に自分の腕を回し微笑みかけた。
「あなたも素敵よ。月の王様」
少女は小さな王国の王妃様と王様のやり取りを見ていると、心臓が熱くなっていくのを感じた。
これが至福の時。
永遠にこの時が続くことを願わずにはいられなかった。
「さあ・・・小さなナイト君。いいや、姫君。君は我々の留守の間、この小さな城を守っていてくれたまえ」
そう言うと男は少女を抱き寄せて、姫君の頬にキスをした。
「いってらっしゃい。王妃様。王様」
母親も少女の額に軽く唇を押し当てるとウィンクをする。
「楽しんでくるわね。お姫様」
まるで始めてのデートにいくかのように嬉しそうに二人が出て行くのを少女は見送った。