Moonlight step

 

3話

寒い夜の出来事3

 

 

 

とても寒い朝だった。

あの朝のようにとても寒い朝であった。

白い壁に囲まれた無機質な病院のベッドでさえも熱に苦しむ妹を介抱する少年にはとても清潔で、そして暖かくとても安らげる場所に感じられた。

少年は妹と病院にいた。

あの事件が起きた後、何処からともなく現れた警察の親切な人たちに、いろいろとあの女や男のことを聞かれ、この病院に連れてこられたのだ。

小さな妹は、少年が少しばかりの幸福感を味わっていた夜、暗く寒い地下室に閉じ込められていた為に肺炎になっていたのである。

妹が肺炎になった原因は、おそらく地下に閉じ込められる前から風邪気味でぐずっていたのにもかかわらず、あの女が泣いてうるさいという理由だけで地下に閉じ込めたことを少年は知っていた。

しかし、ようやく目覚めた妹の小さな唇から発せられた言葉は、少年の心を締め付けた。

妹はこう言ったのだ。

「ママはどこ?」

幼い妹は自分を死の淵へと追い込んだあの女の愛をまだ求めて信じていたのである。

少年の心臓は誰かに握り締められいるかのようにずきずきと痛んだ。

しかし、その心の動揺を妹に悟られないように、黙ったまま彼女を優しく抱きしめた。

(僕が守ってあげるから・・・)

少年はこの瞬間から幼い妹を、自分の一生、自分のすべてをかけて守ろうと決心したのである。

それは、自分が妹の愛するものを奪ったという大きな罪の意識がさせたものであった。

 

「・・・どうだい?」

少年は園長の顔を直視する。

少年が決心をするとき必ずする行動であった。

「妹と一緒なら何処へだって行きます」

太陽のように陽気な光を放っていた園長の顔が一瞬にしてくらくくもる。

「おまえの妹思いはよく知っているよ。でも、今の時代・・・他人の子供を何人も養える家などそうありはしないんだ。おまえならわかるだろう?」

それでも少年は引き下がらなかった。

「でも、僕は妹を守らなくちゃならないんです!」

園長は立ち上がり少年の肩を軽く叩く。

「僕は・・・妹を守らなくちゃいけないんです・・・」

「本当に妹の事を案じるなら、おまえはこのまま黙ってここから出て行きなさい」

「え・・・」

「あの子は、今朝早くにあるお金持ちの家へ養女として出て行ったよ。そんな悲しい顔をしてはだめだよ。私たちだっておまえが妹の幸福を望むように、私たちだって、あの子の幸福を願っているんだよ」

園長の穏やかな小さな目が少年に行き場を与えなかった。

「おまえは頭のいい子だから、私たちの行いを理解できるだろう?」

少年はこくりと小さく頷いた。

 

少年は新しい家、家族をもってから施設にいた頃よりも、さらに勉強に励みより勤勉になった。

養父母はとても喜んでくれていたが、そんな二人の気持ちと裏腹に少年はいつも寂しげで無表情であった。

やがて少年は成人をし、刑事という職についた。

なにも危険な仕事につかなくても、彼の成績なら大手の企業にも入れただろうと養父母は口をそろえていったが、なによりも彼らには自分たちの息子が危険な仕事に就くのが嫌だったのである。

しかし、彼は守るものを奪われてしまい、乾いた心を癒すすべをどうしても養父母の愛から得ることはできなかったのだ。

彼は就任するとすぐに、この街で一番危険で犯罪件数の多いといわれる南署に配属された。

そこは麻薬とそれにまつわる犯罪組織の巣食う地区として有名であった。

 

 

 

どんな危険な事件も単身で飛び込み解決していく彼の活躍は南署内の仲間たちの誰もが目を見張るばかりであった。

しかし、理由はともあれ目まぐるしい活躍を妬む仲間も署内におり、

いつも生命の危機と背中合わせのような捕り物にばかり好んでいく彼の得体の知れない正義感とも勇気とも感じられない捨て身の行動に嗜虐的なものを感じる人間も少なくはなかった。

それもその筈である。

彼が少年時代に自分の全てをかけて守りたかった妹を失い、彼に残されたものが何も無かったとは誰も知る由はなかったのだから。

 

その年、一番の冷え込みを記録した寒い夜だった。

彼は何人かの刑事たちと麻薬売買の現場に乗り込み、売人たちを逮捕した。

一番若い刑事が数人の男たちに警察が犯罪者たちに言う決まり文句を述べている時であった。

「警部補、この奥に隠し部屋があるようです」

一人の警官が小さな手柄に、ここぞとばかりに叫んだ。

「おまえ・・・見て来い」

しかし、警官の喜びとは裏腹に小太りの警部補は面倒くさそうに優秀で目障りな刑事に指示を出した。

刑事は黙って警部補の言われるままに、大型オートのグロックを利き手に収め、警官に従っておくの部屋にある隠し部屋の入り口まで行く。

「あとは一人で行く」

刑事は警官を一人、その場に残して本箱と壁の隙間から見える奥の部屋へと入っていった。

ギシギシと足元から古い床の悲鳴がしている。

刑事は黒く重く光るグロッグを静かに構えゆっくりと前進する。

本箱の陰に隠れていた隠し部屋の奥は薄汚れたカーテンで閉ざされてた。

「誰・・・?」

カーテンの向こうから細い女の声。

刑事は銃を持たない方の腕でカーテンをゆっくりと開ける。

「!」

刑事はカーテンを開けた瞬間、自分の力が萎えていくのが分かった。

「な・・・」

「あなたはだれ?」

見覚えのある顔だった。

思い出したくもないその息を呑むような美しく端正な顔立ちをした長い髪の女に刑事は動けなくなった。

「動けなくなるほど、私って怖いのかしら?」

ただその場に佇む刑事を一瞥すると女は乱れた髪を掻き分けながらくすりと笑う。

「ハンサムさん。どうしたの?その黒いものを降ろしてくださらない?」

女は白いガウンを身にまといベッドから静かに素足を下ろし、茫然と立ち竦む間抜けな刑事の顔を覗きこんだ。

「若い女を見るのがはじめて?」

妙に艶を帯びた赤いルージュをひいた唇から洩れる声がさらに刑事を混乱させていた。

「綺麗な顔して・・・そんなもの持っているんだもの」

女が不意に刑事の唇を白い指で触れた。

刑事は震え上がった。

顔や声どころではなかった、仕草までがあの女と同じなのだ。

死んだはずのあの醜い女。

そう、あの女は死んだのだ男は自分にそう言い聞かせて任務を遂行することに集中した。

「麻薬所持の疑いで逮捕する」

女は笑った。

手錠を掛けられても女は笑っていた。

あの女と同じ声で。

そう、彼の母親だった女と同じ声で。

 

「先輩・・・」

年下の刑事が彼を呼んでいた。

「あ・・・」

「警部補が呼んでいますけど」

勢いよく立ち上がったために机が揺れ、刑事はすっかり冷めたコーヒーで書類の上に琥珀色の湖を作り上げてしまう。

「しまった・・・」

「先輩。ここは俺がやりますから。警部補のところへ行ってください。警部補は取り締まり室ですよ」

「ありがとう」

刑事は後輩の刑事にお礼を述べると警部補の待つ取調室へと向かう。

 

取り締まり室では小太りの警部補と、あの女が待っていた。

「この女がおまえと話したいと」

そう言うと不愉快そうに警部補は取り締まり室から出て行った。

「醜い男は嫌いなの」

「麻薬をやる女のほうが醜い・・・」

刑事は憎まれ口を叩く女と真っ赤な口紅がついたタバコの吸殻を交互に見比べると、女の向かいの椅子に腰をおろした。

「麻薬どころじゃなく・・・煙草を吸う女も嫌いなようね。おまけに美人も嫌いなのね」

刑事は黙ったまま女を見据える。

「私を捕まえて気持ちいいんでしょうね。金持ちを捕まえるって、ストレス解消になるのかしら? でも、いつまでも拘束できると思っていないわよね」

女は煙草の煙をくゆらせながら淡々と話す。

「保釈金ならここの刑事を全員、買収できるぐらいあるのよ。ハンサムさん。私の恋人はとてもお金持ちなのよ。御存知?」

刑事が女の煙草を持った方の手首を掴む。

「だからなんだ?金で何でも出来ると思っているのか?おじょうちゃん」

ハイスクールを卒業したばかりのような幼い顔を持ちながら、女という表情で不適な笑いを浮かべた唇は、ひっくり返った月を思わせた。

「世の中そんなもんじゃなくって?正義で何でも片付くなんて思っているほうが変なんじゃない?ぼうや」

女の手首を放し、男は椅子から立ち上がると鉄格子のついた窓へ歩いていった。

「外見だけじゃなく・・・こころまであの女に似ている人間がいるとは」

「あのおんな?」

「・・・母だ・・・君を見たとき思い出した。外見は誰よりも美しく飾られたあの女を・・・」

女は軽蔑の眼差しで男を見据えるとため息をついた。

「たとえ似ていてもわたしはあなたの母親じゃなくてよ。あなた、いい年してマザコンじゃないの?」

「残念ながら、マザコンになれるぐらい母に愛されたことなんてないよ」

そう言うと刑事は今までとは一変して職無用の冷たい表情になった。

「さあ。御指名どおり、私が来たんだ。素直に質問に答えてもらおう」



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