Moonlight step

 

2話

寒い夜の出来事1

 

 

 

少年は生計を助けるために毎日休むこともなく朝早くから夜遅くまで、自分の出来る限りの仕事をしていた。

そんな冬の寒いある日、少年がパン屋の仕事を終えて店を出た時だった。

パン屋の並びにあるケーキ屋が少年に声をかけてきたのである。

「ぼうず、毎日感心だな。ところで、明日のクリスマスケーキなんだけど、作り置きするのもいいんだが、なるべく作りたての物を皆に食べてもらいたと思っているんだ。明日の夜明けから作り始める予定なんだが、よかったら臨時で働いてくれないかい?」

ケーキ屋の主人は少年が毎日甲斐甲斐しく働く姿に惚れ込んで、仕事を申し入れてきたのであった。

「どうだい?」

少年はクリスマスに妹にあげるプレゼントを思い描き、一つ返事で了解した。

「そうか、じゃあ、もしよかったら今夜は我が家に泊まるといい。そうすれば、朝、寒い思いをしなくてすむからな。あ・・・でも、母さんが心配するかな?」

少年を心配する母親は存在しない、悲しいことに彼は瞬時にそう答えを出すことが出来たのである。

「ぼうず。ラッキーだぞ。明日はうちの店が一番忙しい日だから、我が家では一日早いクリスマスパーティだ。うちの妻の手料理は上手いぞ!!ぼうずは今夜の特別ゲストとして招待しよう」

誇らしげに言う真夏の太陽のような笑顔のケーキ屋の主人を見て少年の心がとても温かくなる。

「ありがとございます」

大きな暖かな手が少年の頭の上に優しくのせられた。

主人は店と家を隔てるドアを開け若い妻の待っている小さいが小奇麗で整頓された明るいキッチン兼食堂に少年を通した。

「今日のゲストだ!王様の客室は開いているかな?」

「お帰りなさい。あら、小さなお客さま」

主人は自分の横で自慢の我が家に見惚れている少年の背中を押す。

「さあ。椅子に座りな」

「あ・・・素敵な・・・家ですね」

「わたしが造ったんだよ」

「あなたは、家までケーキのように作ってしまうんですね」

「褒めてくれているのかな?嬉しいな」

「え!」

主人に抱きしめられて戸惑っている小さな少年を見て妻が助け舟を出す。

「あなた、いい加減に自慢するのはやめて、その芸術的な腕前で食器を並べるのを手伝ってちょうだい」

「おお!それも褒め言葉なのかい?」

男は頭をかきながら今度は妻に抱きく。

「もう、調子にのらないの」

少年の方を見て呆れ顔で妻は肩を竦めて見せた。

豪快に笑って男が食器棚の方へ歩いていくと、ケーキ屋の美しい妻は少年を食卓の椅子に座らせ小声で言う。

「あなたね。主人が言っていた子。隣のパン屋さんの仕事を手伝っている子って。あの人はあなたの仕事ぶりを見ていつも言うのよ。男の子だったらああいう子が欲しいって。おまけに自分の若い頃そっくりだって。でも、あなたのほうがハンサムになるわね」

暖かい指が少年の頬に触れる。

「そうだ、お家の人には今日、うちに泊まることは言ってあるの?」

「貧しい家では仕事で家に帰れない子供は沢山いますから」

ケーキ屋の妻は少しだけ悲しげに微笑んで頷く。

 

少年はその晩、生まれて初めて本当の幸福を手にした王子様のように幸せな一時を過ごした。

勿論、次の日は夜も明ける前からケーキ屋の主人と妻と共に働き始め、その日の昼過ぎまで休むことなくケーキ作りの手伝いをした。

遅いお昼を食べ終え一息ついたところでケーキ屋の妻がコーヒーを幸せそうに味わう夫に言う。

「あなた。今日のお給料をあげて」

主人はにっこり笑って少年に茶色の封筒を渡す。

それを受け取った少年は想像以上に厚みを感じる封筒にケーキ屋の主人と妻の顔を交互に見つめる。

「中を確かめな」

少年は言われるままに封筒を開けてみる。

「こんなに・・・」

「何言ってるんだ。おまえはそれだけの仕事をしたってことさ。わかるかい?クリスマスに一人前の仕事をしたんだよ。それぐらい当たり前だろう?」

「そして、これがわたしからよ。これはわたしが作ったケーキよ。これを食べたことがあるのはこの世で夫だけ。でも、あなたとこれから生まれてくるわたしたちの子供が食べることになるでしょうね」

ケーキ屋の妻は少年に赤いリボンで飾った白い小さな箱を渡すとすかさず少年の頬に暖かい唇を押し付けた。

「クリスマスおめでとう!」

頬どころか耳まで赤らめた少年に若い夫婦は微笑んだ。

「ぼうず、お返ししてやりなよ。一人前の男だったらそれぐらいやるもんだぞ」

少年は夫のほうを見てから恐る恐る妻の方へ向き直り乾いた唇で花びらのような柔らかな頬に優しく触れる。

「クリスマス、おめでとう」

「おめでとうぼうず」

ケーキ屋は少年の痩せた肩をポンと叩いた。

少年はにっこり笑うと重たい茶色の封筒と甘い香りのする小さな聖なる箱を持って歩き出した。

「寄り道しないでね」

夫に肩を抱かれたまま妻は幸福そうに手を振る。

少年も二人に手を振り返す。

妹に最高のクリスマスプレゼントを両手に持って少年は歩き出した。

 

幸福を両手に少年は古びた木造の家にたどりついた。

錆びた蝶番から吐き出された音を耳にしたとたん、少年は現実へと引き戻されていくのが分かった。

そうだ、一晩も家を空けたのだ。

一晩、家を空けた後ろめたさが今頃になって沸々と湧いてきたのである。

この今にも壊れそうな暗い家が今まで味わったこともない幸福さえも一瞬にして吹き飛ばす。

少年は静かにきしむドアを開けた。

 

居間と食堂とキッチンで占められている狭い1階の部屋には昼も過ぎたというのに誰もいなかった。

少年は薄っすらと誇りのかぶったテーブルにケーキの入った箱と茶色い封筒を置いて、妹と自分の部屋がある2階へと上がって行った。

しかし、2階の子供の部屋には誰もいなかった。

隣の母の部屋から二つの寝息が規則正しく聞こえてくるが、母とそれ以外の少年の知らない何者かのものであることは分かっていた。

では、妹は何処に?

少年が仕事から帰ってくると一目散に抱きついて喜んでくれる妹の姿が見当たらない。

少年の心臓は激しくなる。

少年は妹の名前を呼んだ。

最初は母とその恋人に聞こえないように小さな声で。

だが少年は激しくなる鼓動に耐えられず、大きな声で妹を呼んだ。

何度も何度も呼んでみたが返事は無い。

「!地下室!地下室だ!」

少年はよく自分が閉じ込められる階段の下にある地下室のドアを開けようとしたときである。

「何をしているの!」

少年は身体を硬くした。

清潔だとはいえないガウンを身にまとった母の後ろから、母の好みそうなだらしない身なりの男が大あくびをしながら階段を下りてきていた。

「そこを開けるんじゃないよ」

少年は女に構わずドアのノブを回したが鍵がかかって開かない。

「開かないわよ。鍵はわたしが持っているんだから」

女は息子の腕を掴み自分の方へ向かせ近くにあった箒を振り上げた。

「勝手なことしないで!」

少年の身体に振り下ろされる箒の柄。

どうしてかわからないが少年は今までのような恐怖に駆られることはなかった。

彼はただ黙って醜い女の顔を見据えていた。

「なによ!生意気な子ね!」

女は少年が血だらけになっても箒で叩くことをやめようとはしなかったのである。

しかし、少年は涙一つ流さずにいた。

「おい、美味しいケーキだな」

母親と一緒に下りて来た男が何かを言っている。

「上手いな」

「やめて!それを食べないで!」

少年は生まれて始めてもらった贈り物を頬張る男に飛びついた。

「何するんだ!」

「やめて!食べないで!」

「けちなガキだな」

男が悪態をついて残りのケーキを床に叩きつける。

「食いたきゃ食えよ」

「ひどい!!」

少年は自分の2倍以上もある男の身体を叩いた。

男は少年の痩せた肩を掴みケーキと同じように床にたたきつけると、テーブルの上にケーキと一緒に置いてあった茶封筒に気づく。

「なんだこれは?」

男は薄笑いを浮べ、封筒を開く。

「ほお。この家じゃあ大金じゃないか。盗んだのか?悪い奴だ」

そう言うと男は封筒からお金を出して古びたズボンのポケットに入れ玄関の方へ歩き出す。

「ちょっとお!待ちなさいよ!それはわたしのだよ。なんであんたが持っていっちゃうのよ?この家にある物はかまどの灰までわたしのものだよ!」

男は女のヒステリックな叫びにそ知らぬ顔で扉を開けようとドアノブに手をかけた瞬間、片方の足を力いっぱい引っ張られバランスを崩し倒れた。

「よくやったわ!」

女がキッチンから包丁を持ち出し倒れた男の傍らに屈み込み、ポケットからこぼれ落ちたお金を拾い始める。

「お願い!そのお金はあなたたちみたいに汚い手の人間が触っちゃいけないんだ!」

「き、汚いですって?」

女は自分の息子から発せられた言葉に、とっさ的に反応し持っていた包丁をそのまま振り上げた。

少年は危険を本能的に感じ取り、すばやくその場から離れる。

グサ

少年は生まれて初めて耳にする音に身体を固くする。

「う・・・何をするんだ?」

自分の身体に刺さった長い包丁をはずした男はすかさず女に掴みかかった。

少年は目を閉じた。

いろいろな音が、悲鳴が、何時間も何年も続いたような長い時間、今度、目を開けるときは幸福が待っていることを、いいや待っていて欲しいと少年は望んだ。

しかし、現実は容易く少年の希望を与えてくれなかった。

沈黙。

あまりの静けさに少年は目を開く。

昼間でも薄暗い日当たりの悪い家の中に真っ赤な血の色をしたバラの模様を身にまとった女が倒れていた。

男は後ずさりする少年をみて笑って見せた。

醜い。

少年は二度とその男の血で汚れた顔を見たくないと思った。

キシ  キシ  キ・・・シ

男が少年に一歩一歩近づくたびに床が軋む。

「おにーちゃん!おにいちゃん!怖いよ・・・」

地下室から小さな叫び声が聞こえてくる。

「大丈夫。おまえの後にちゃんと殺してあげるから」

少年は男を睨んだ。

「そんなことさせるか!」

少年は男の横を走りぬけ、女の死体を飛び越しキッチンへ一目散に駆け込み、武器になる物を探す。

相変わらず嫌な笑いをした男は少年の方へ足を向けた。

その一瞬であった。

男はすでに動かなくなった女の身体に足を引っ掛けて倒れこむ。

グサ

ついさっき聞いたことのあるような音が少年の耳を貫く。

男は動かなくなった。

おそらく、転んだときに自分の手にした包丁が刺さったのだろう、男は2度と動かなくなったのである。

しかし、少年にはそんな事はどうでもよかった。

少年は地下で泣き叫ぶ妹の名前を何度も何度も呼んでいた。



  3話 寒い夜の出来事2