Moonlight step
1話
月夜の出来事
月のきれいな夜だった。
月は金色に輝く絹のような淡い光を、冷たい風が吹くたびにみずみずしさを失っていく細い身体を堅くした野原の草たちに落としている。
彼ら以外の生物たちから吐き出される透明の息が白く色付けされる季節である。
こんな空気の澄んだ季節は月から地球上がよく見える。
月は冴えた空から地上を見下ろすのが趣味であった。
いろいろな生物が生息している地上だが、自然の生態系から逸脱した特殊な生き物、人間という生き物は得に興味深い。
こんなよく晴れた夜は人間たちのやすっぽい寸劇を見るのにもってこいだ。
ときどき、風が運んでくる藍色の雲で視界を遮られることもあるのだが、そのたびに一つ呼吸しては邪魔者を排除し、再び地球上で繰り広げられるドラマを見入る。
しかし、今夜は寒い夜であった。
こんな夜は、身体を毛皮で覆った動物たちでさえ自分たちの住む場所で仲間同士、身体を寄せ合いじっとしているだろう。
ましてや、自前の毛皮を所有していない人々は尚更、家族や友人、恋人たちと暖かい家で団欒とやらを楽しんでいるに違いない。
そんな家々の窓の明かりも、道なりに明かりを燈す町の街灯も、まるで何万光年も離れた小さな星のようなささやかな明かりのように小さかったが、大きな黄金の輝きを湛えた月は敗北感を感じた。
いいや、あの明かりに勝てないのではない、この寒さに勝てないのである。薄絹に包まれた人間たちは暑い夏のあの淀んだ空気の中、眠ることも忘れ、夜の街を徘徊しているではないか。
人間は寒さが嫌いなのだ。
月は自分の自問自答に少し可笑しくなった。
そうして、地上を見下ろした。
寒い夜であった。
月さえも寒さに震えているように見える寒い夜。
ダークグレーのコートの上に無造作に巻いたマフラーに顔を被い、無造作にえる草を踏みつけながら夜に溶け込んだ草原を歩く一人の男がいた。
男は空を仰ぎ、北風と戦った太陽のように暖かく感じられるぐらい強い光を放っている月を見上げる。
男は月明かりに誘われるように、月が照らし出している金色に染まった草原の小高い丘へと歩を進めた。
「・・・?」
男は自分の目を疑う。
一瞬、妖精が月の光に照らされた丘の幻想的なステージでふわりふわりと踊っているように見えたのだ。
男は自分の非現実的な考えに思わず声を出して笑いそうになったが、今にも消えそうな妖精を失うことを恐れ息を止めた。
小さな妖精はゆらゆらとしたおぼつかない足取りで佇んでいる男に近寄りゆっくりと口を開く。
「こんばんは・・・」
妖精は鈴の音のような凛とした少女の声で男に話しかけてきた。
「月のきれいな夜ですね」
ふわりと広げた羽を使って飛んでいるかのように男の正面に歩み寄り男を見上げた。
その見上げた青白い小さな妖精の顔には悲しいぐらい愁いを湛えた澄んだ瞳が二つ幻想的な光を放っている。
(妖精だなんて・・・私も・・・)
もともと現実的な思考の持ち主の男は月の明かりの幻想というベールのためにどうやら麻痺していたらしい、落ち着いて観察をすれば妖精の正体は、ブルージーンズと大振りなタートルネックのセーターといった出で立ちの少女ではないか。
(でも、どうして?)
ふと、現実に戻された男は、どうして夜遅くに、しかもとても寒い夜にコートも羽織らずに、誰もいないこんな場所で子供がたった一人で何をしているだろうかという疑問に襲われた。
しかし、その疑問は彼自身にも当てはまることではないのだろうか。
もっとも、彼は成人した大人であるのだから少女に“どうして”と問われたところで言い訳はいくらでもあるのだが、彼は少女に疑問を投げかける気にはならなかったのである。
誰にだって一人になりたい事情があるのだから。
だが、そんな男の考えとは裏腹に少女の口から白い息と一緒に漏れた言葉は彼の疑問そのものであった。
「おじさんは、こんな所で何をしているの?どうして、こんな寒い夜に暖かいお家にいないの?」
少女は男の返事を待たずに言葉を続ける。
「おじさん・・・悪魔?」
男の長いダークグレーのコートが風にはためいた。
「わたしを連れにきたんでしょう?」
少女はそう言いながら満足げに笑うと、風に散る花びらに触れるように男の手を両手で包み込む。
「ほらね・・・。こんなに冷たい手をしている。でも、わたし怖くないよ」
僅かな時間のはずなのに時計を外した恋人たちのように永い時を共有したまま動くことを忘れてしまったように、男は少女をどうすることも出来ずに凍えるような冷たい空気につつまれたまま見つめた。
「連れて行ってね・・・」
男の手を捕らえていた少女の手が緩み、映画のスローモーションのように少女の身体が引力に引かれていく。
だが、引力に逆らって男は少女の身体を抱き締めた。
「どうしたんだ?」
少女はけほけほと咳き込む。
「大丈夫かい?」
男は自分でも驚くほど優しい声で少女に言った。
「!」
男は目を疑った。
少女の僅かに開かれた口から光った白い真珠が幾つも零れ落ちてきたのである。
いいや、真珠ではなかった。
男はすぐに少女の口へ手を押し込む。
「馬鹿なこと!!」
口から銀色の糸を引いて白い輝く形の変形した真珠が際限なく感じられるほど生み出されていくのを見ながら男は言う。
「何故、こんなことを・・・」
しかし、それに答えたのは男の足元に転がった蜂蜜色をした小さなビンであった。
「あ・・・あ、なんで睡眠薬なんか・・・」
月の前をいくつもの藍色の雲たちが過ぎて行くように、どれぐらいの風邪が二人を通り過ぎていったのだろう。
凍てつく草原の寒さに身を震わせながら男は自分の黒いコートに包まれて静かに寝息をたてる少女を抱きかかえながら微動だにもせずにその場に座っていた。
さっきまで蒼白だった少女の顔に少し赤みがさしてきているようだった。
「う・・・ん。あ・・・れ?」
黒曜石のような目が開く。
少女は今の自分の状況が判断できていない様子で、大きな目をぱちぱちと瞬かせて男の顔を見上げた。
「気分はどうだい?」
少女は男の言葉に小さく微笑んだ。
「いいよ・・・」
男は自分の膝の上でうずくまる少女からまあるい蜂蜜色の月へと視線を移す。
「どうして、睡眠薬を飲んだんだい?」
「月が綺麗だったから。睡眠薬を沢山のんだから永い間眠っていられるでしょう。そしたらあの綺麗な月へ行けるかと思ったの」
そう言うと少女は男にしがみついた。
「こんなに月が綺麗なんだから、きっと誰だって思うよね。月へ行きたいって!」
少女は男の胸に顔を押し付けて言葉を続ける。
「おじさんは・・・どうして、ここにいるの?おじさんも月へ行きたいの?」
少女が投げかけてきた質問に男は心臓を強く握られるような痛みを感じた。
「・・・そうなのかもしれない・・・。この世で一番大事な者を失ってしまったからね」
男の顔を見上げた少女の大きな目は月の光よりも輝き、潤んでいた。
「可哀想な、おじさん!」
少女は両腕を男の首にまわししがみつく。
「わたしも・・・わたしも・・・なくなっちゃったんだ・・・」
暖かい月の雫のような少女の涙が冷え切った男の首を濡らす。
「大事なパパとママ・・・昨日の夜。パパとママが泊まっていたホテルが爆発しちゃったの・・・だから、わたしも自分で自分を・・・」
「もう、いい・・・。それ以上は何も言わなくても」
男は今にも月にさらわれてしまいそうな少女を力強く抱きしめた。
「・・・もう、辛いことは忘れるといいよ・・・今はわたしが君の傍にいてこうして、抱いていてあげるから」
熱く燃える矢のように忘れられるはずも無い痛みが少女の心臓を貫き、そして男自身の心臓にも刺さっているようであった。
しかし、その痛みは少女の受けた大きな痛みと同様、男自身にもあったのである。
そして、こうして自分の腕の中で震えている少女の存在が、失った自分の幼い妹と重なった。
寒い夜・・・いつもこうやって抱きしめあっていた。
妹と彼はまだ年端も行かない幼い頃に母親に捨てられいくつもの親戚の家を、てんてんとしていたが最終的に幼いながらも、貧しい親戚がけっして彼らのことを快く受け入れていなかった事を察し、少年だった男は妹を連れて国営の孤児の施設へ身のおき場所にしたのである。
施設のシスターたちは慈悲深いその瞳で二人を迎え入れてくれた。
しかし、少年はそんな彼女たちの職業に対する自身に満ちた態度にしばし戸惑っていた。
それは、彼女たちの優しさがこの世に生を受けた時に課せられた一生涯の義務の為なのか、それとも本当の愛から生まれているものなのか図り切れずにいたのである。
だが、シスターたちと楽しそうに笑う小さな妹を見ていると母から得られることのなかった暗闇に灯るの甘い色をした月のような笑顔と母性が後者であることを妹のために願わずにはいられなかった。
少年は施設に来てから数ヶ月でシスターたちに気に入られる術を学んだ。
少年は妹を守りたい一身で、自発的にシスターたちの手伝いをしながら、ボランティアの人たちが寄付をしてくれた古い本が並ぶ黴の匂いのする図書室でありとあらゆる本を読み漁った。
そんなある日の午後、少年は園長室に呼び出された。
日当たりのよい園長室には、いつものようにあの愛想のよいふくよかな顔の園長がまるで絵本を読んであげるかのように楽しそうに微笑んでいた。
「おまえは、本当に良い子だね。おまえがここへ来て3年という月日が経った。このへんでおまえにご褒美をあげなければねと思っているよ」
園長はそう言って一呼吸つくと、彼女の横に立っていたシスターがもったいぶっているとでも言いたげに肩を竦めて見せる。
少年はそのおどけたシスターを見てそれに笑顔で答えた。
「おまえは、勉強が好きなようだから、勉強に専念できるように私は一ついい事を思いついたんだよ」
そう言うと園長は自分の隣にいるシスターに目配をする。
シスターは頷き、自分の後ろにある応接室につながる扉を開けた。
「さあ、これがお前への最初で最後のプレゼントだよ」
開かれた扉から人のよさそうな中年の男と女が現れた。
「この二人が、お前を引き取りたいと言っている」
少年は呆気にとられ、棒立ちになったまま園長と二人の客の顔を交互に見比べる。
園長はそんな少年の戸惑いを気づいているのか気づいていないふりをしているのか、二人の客について大まかな事柄を説明し始めた。
この二人は結婚して20年経っているが、子供がおらず寂しい生活を送っていたが、この学園に来て少年の存在を知り是非、養子にと望んでいるということであった。
「どうだい?とてもいい話だと思わない?」
呆然としている少年の前に女がやってきて両肩を優しく撫でてきた。
「そうよ。あなたみたいな勤勉な男の子が欲しかったのよ。あなたが望めば大学にだって行かせてあげられる!」
園長は一つ咳払いをして、興奮しきった女の言葉を遮った。
「ミセス。喜ぶのはいいのですが、なによりもまず、彼の意見を聞かなければ」
「す、すみません・・・嬉しくて・・・つい」
園長は少年に視線を移す。
「どうだろう。いい話でしょう」
「妹と一緒なら、僕はどこにだって行きます」
その幼い少年の顔には恐ろしいぐらいの決心があった。
母親と別れてから、妹から母親を奪ってから、彼は自分の人生を妹を守るだけに捧げようと決心していたのである。
男に全財産を持ち逃げされ貧しさに喘ぐ母親の姿を少年は忘れることが出来なかった。
そして、少年は母親が結婚し、彼女を捨てた男に似ているというだけで恨まれていた事を知っていた。
だが、少年はそんな母親が自分だけでなく妹までも苦しめるのだけは許せなかったのであった。
だから、少年は幼い妹から母親を奪ったのである。
いいや、奪ってしまったのであった。
あれは、寒い夜だった。