午前零時十分。
 新しい世界の始まりをベッドの上で迎えることができたらどんなに幸せなのだろうか?
 時計を見ながら、男はそう思った。
 残酷なくらいに整然とされたその部屋は時間という概念を忘れさせることがある。いつの間にか吹き出た汗がシャツを湿らせていることに今頃気づいた男は、袖のボタンを半ば強引に外した。完全に水分を失った口内を潤すために、ディスクの端に置いてあったコーヒーを一口すすった。何時間前に入れたのかわからないコーヒーは飲み物としては最悪の温度であったが、その香ばしい香りだけは男の張り詰めた気持ちをほぐしてくれた。
 だが、ささやかな平安すらかき消された。すぐに現実へと引き戻される。
「室長! こ見てください!」 
 男の傍らでディスプレイを見つめていた女は、突然大きな声を出した。黒ぶちの眼鏡と薄いファウンデーション、白衣とサンダルといういでたちの女は、どのような状況でも素早くやるべきことをこなす有能さを持っている。しかし、男にとってこの時ばかりはその有能さが恨めしく感じた。
「神経系統、身体器官共に正常値です」
 疲れに支配された体にとって、大きな刺激は苦痛以外のなにものでなかった。男は呪文を唱えるような低い声で尋ねた。
「脳波は?」
「8Hzから12Hzの波を確認しました。アルファー波です」
 その言葉は男を飛び上がらせるくらいの威力を持っていた。男は驚いた表情で、液晶ディスプレイを覗き込んだ。
「なんだって?」
 より詳細な情報を表示させるために、女はマウスを握った。新しいウィンドウが表示され、さまざまな波形と数値が現れては消えていく。
「アルファー波は後頭部、前頭部共に広がっています」
「他には?」
「TRH、ゲルタミン酸の分泌、共に微小。伝達効率も正常値に入っています」
 女はディスプレイに表示されているデータを読み上げていく。男はそれらの情報から推測される結論を口にした。
「落ち着いているというのか?」
「そのようです。理論的な平安状態ですね」
 男は反り返って腕をくむ。その出来事はあまりに例のないことであり、男を戸惑わせるのに十分であった。
 二人のいる部屋から窓を通して見えるそれは、落ち着いているということになる。
 二人のいる部屋の隣には小さな窓をはさんで狭い部屋が存在する。その小さな窓から向こう側を覗きこむと、まず椅子の存在を確認するだろう。
 一言で椅子と言ってもさまざまな物が存在する。仕事をする人間の負担を和らげるように設計されている機能美にあふれた椅子。力に満ち溢れた支配者のみが座ることの許される高級感あふれる椅子。座り心地はともかく、コストパフォーマンスと収納性に優れたパイプ椅子。絵に描いたような貴婦人が座るようなノスタルジックな雰囲気を持った椅子。
 だが、その椅子はそれらの中のどれにも当てはまらなかった。
 それは重犯罪者が座るために作られた椅子だった。椅子と言うには重々しく、どちらかというと手術台に近かった。
 二人のいる部屋は精神外科の手術室。
 精神外科とは大昔に作られた心を治すための医者である。精神外科が作られた頃は、ロボトミー手術やチングレクトミー手術のように脳にメスをいれる手術が主流であった。やがて、それら手術の副作用があまりに大きいことや抗精神病薬が開発されたこともあって世界的に精神外科は完全になくなった。
 しかし、時代が進み、医学が進歩して難病と言われた病気でさえ克服できるようになっても、精神医学だけはなくならなかった。むしろ需要が増していった。物に囲まれて裕福になればなるほど、人間の心は脆いものになっていったからである。
 そして、あるときに再び精神外科が脚光を浴びることになる。以前の治療法よりも遥かに効果があり、副作用が生じない安全な治療法が開発されたからである。それは体にメスをいれることで行なわれるのではなく、人間の遺伝子を解析してそれを新しく書き換えることによって行なわれる。この時代の難病とされていたうつ病や自閉症などに、絶大の効果が認められたのだった。
「しかし、信じられませんね。この先、この世界はどうなってしまうのでしょう」
 女は手元の書類を見て眉をひそめた。
「犯罪に年齢や性別は関係ない時代なんだから、そんな驚くことはないんじゃないのか?」
 男は冷静に言い放った。その言葉は女の望んだ言葉とかけ離れていた。
「私が言いたいのは年齢とか性別とかではなくて、犯罪の内容のことを言ってるんですよ。殺人三十八件、放火六件、強盗十二件。確定しているだけで、そんなにもあるんですよ。実際はその何倍になるんでしょうか? 一体どんな背景があったのでしょうか? なぜここまでしなくてはいけないのでしょう? 何がこうさせてしまったのでしょうか?」
 女のその悲しみに満ちた言葉は徐々に小さくなっていった。いや、悲しみばかりではなかった。絶望、苦悩、嘆き、怒り。人間の感じることの出来るネガティブな感情すべてが、そこには含まれているようだった。
 少し間を置いて、男は呟くような口調で静かに切り出した。
「気持ちは理解できる。誰もがそう考えると思う。でも、それを調べるのは俺達の仕事じゃないだろ? 仮にその人物の過去を知ったとしても、俺達に何が出来る?」
「しかし!」
 飛びかかるような勢いだった。女は声を荒くして男の方を振り返ると、にらみつける様な視線を投げつけた。
「探そうと思えば、いくらでも!」
 ヒステリーをおこしたような口調は、男を驚かせた。だが、男は一秒もしないうちに平常を取り戻し冷めた口調をとった。
「いくらでもあるというのか?」
 男はそう言い終えると今まで組んでいた腕を解き女の正面に立った。静かな眼差しが正面から女の目を見据える。無表情で感情というものの存在を感じさせない冷たい目が女を見つめた。
「そうです。いくらでも」
 女の声は徐々に小さくなっていった。
 女には男の言っていることがよく理解できていた。だが、決して満たされなかった。その感情は普段なら決して表に出ることは無かった。しかし、今日は違った。
「いくらでもあるはずです! 私達でも何ができることが」
 女は強く言い放った。だが、女が感情的になればなるほど、男は熱量を失った金属の塊のように冷めていった。
 男は無言のまま首を左右に振り、そのまま椅子へ腰を下ろした。今、この話をしても無駄だ。そのような意志表示だった。男のその態度は女の熱をさらにあげることになった。
「ちょっと、聞いているの? 室長?」
 まだ物足りないといった風に、女は再びその形のよい口を開いた。女のこのような行動はとりわけ珍しいわけではなかった。しかし、今日ほど激しい感情を見せたことは無かった。その原因の一つが連日の激務のためであると男は思った。
「はいはい。仕事、仕事。上りゲノム情報の設定終わった? まずはやらなければならないことを終わらせるべきだよ」
 男は手を叩きながら言った。もう、つきあっていられない。そんな態度だった。その一瞬、女は臨界点を超えるほどの激しい怒りを感じた。女は男の後姿をにらみつける。数秒後、怒りをすべて飲み込み、ディスプレイの方へと向き直った。
「今からです」
 女は低い声でそう言うと、キーボードの上に両手をのせた。長い息を吐き自分の仕事へと戻った。
 男は机上の書類を手に取ると、おもむろにページをめくった。女がそのように感じたのも無理は無いと思った。そこに書かれている犯罪の記録は、男が今まで見た中で最悪に近かった。だが、そこに至るまでの経緯を知ることができなければ、知ったところでどうすることもできないのも事実である。
 男は書類を机上に戻すと無理やり話題を変えた。
「明日の昼までに次の精神外科学会の要項を提出しろって、上から言われてさ。ほんと泣けるよ。今日は泊り込みかな?」
 女は男の泣き言を無視してキーボードの上でしなやかに指を動かした。顔は冷静そのものであったが、体全体から立ち上る殺意と怒りは隠せなかった。
「これがすんだら、すぐにとりかからないとな」
 背もたれに体重をのせた姿勢のまま男は泣き言を続けた。
「嫌がらせだよな。俺を仕事に縛りつけるための。俺達二人が一緒にいちゃいけないのかよ」
 男のため息の後、部屋にはエアコンの低い動作音と女がキーボードを忙しく叩く音のみが存在した。だが、それもつかの間ですぐさま男の泣き言は再開した。
「大体、あいつは俺達が二人でいると妙に文句を言ってくる。職務中だろうがとかさ、周りの目を考えろとかさ、外でやってくれとかさ。仕事中は一緒のグループなんだからしょうがないのに」
「終わりました」
 女はそう言い終えると、急速に帰る準備を始めた。男はその姿をみて残念そうに声をかける。
「今日は帰るのかい?」
 女がパソコンををシャットダウンした瞬間に、仕事をする人間ではなくなることを男は知っていた。その瞬間に上司と部下の関係は崩れることも。
「私、好きじゃないの……まるで死刑。出来ればあまり立ち会いたくないの。それにもう勤務時間を超えてるから問題ないでしょ?」
 数秒間沈黙がその場を支配し、やがて男は静かにほほ笑んだ。
「そうか。分かった。お疲れ様。気をつけて帰りなよ」
 男の軽々しい口調ではあったが、その表情には深々とした疲労を刻んでいた。痛々しいまでに充血した目と激しく乱れた髪を女は直視できなかった。
 女は視線を落とし、染みひとつないフローリングの一点を見つめた。
 考えてみれば感情をぶつけるだけぶつけて先に帰ってしまう自分は自分勝手だ。彼だってどうかしたいと思っている。本当にささいなことだけど、できることをやろうとしている。それなのに私は何もせずにわめいていただけだ。私は幼稚だ。女はそう思った。
 今頃になって冷静になった女は、不自然なほどに空虚な胸を感じた。時間の経過につれて、いたたまれない気持ちがこみあげてくる。
 そのような女の心中を読めなかった男は、明るい声を出した。
「後は一人でもできるから気にしなくていいよ」
 この人は私が早く帰りたいだけだと勘違いしている。いいえ、違うの。私は自分の行いが幼くて馬鹿げていたことに気がついて落ち込んでいるだけなの。そう伝えようとした矢先だった。
「さぁ、早く早く。もう、駐車場が閉まっちゃうよ」
 男は立ち上がり、女の帰宅を促した。女は男の気遣いに好意的な溜息をつき「そう。じゃお願い」と微笑み返した。
 部屋を出る直前、女は立ち止まった。
「今日、久々に親がきてるの、だから自分の家のほうにいるつもりだったの。どっちにしろ一緒にいれなかったわ」
「そうか。じゃ、仕事がんばるかな」
「それに、もうきめちゃえば?」
「ん? どういう意味だ?」
「さぁ、その優秀な頭で考えて。それじゃ」
 そう言うと、女は部屋から出て行った。後にはCPUファンの発する低い音と微かな香水の匂いのみが残った。
 男はその言葉の意味を深く考えずに、椅子に腰かけた。ディスプレイに向きなおり、キーボードの上に手をのせた。それは今日の男の仕事が最終段階に入ったことを示している。男のしなやかな指がキーボードの上で跳ねる。工程を一つ二つと確認して、男の視線が上下する。やがて、すべての設定の確認を終えると、長いピアノの曲を弾き終えたかのように、ポンと一つキーを押す。ハードディスクが小さな音を立てる。ディスプレイに新たなウィンドウが開き、男の設定した情報に問題がないか確認プログラムが起動する。
 男が目を閉じこめかみを押さえている間に、画面上に各タスクの準備完了を示すウィンドウが表示されては消えていく。
 やがて、男はゆっくりと立ち上がると部屋の隅へと足を向けた。
 縦長の鏡の前に立ち、頬を数回なでた。ここ数日間続いている激務のせいか、頬の肉が少し減ったようだった。男は苦笑いしながらネクタイをしめなおした。それが終わると隣の部屋への扉へ手をかけた。
 最後の時間のために。
 人格矯正処置
 犯罪者の人格を新しく形成する処置のことである。それは人のゲノム情報を強制的に書き換えることによって行われる。目的は犯罪者を社会に適応できる人間にすることである。その処置は全ての犯罪者に対して行なわれるわけではない。更生が不可能であると判断された重犯罪者に対してのみ行なわれる。死刑制度が世界的に廃止されてから、この処置が多くの国において採用されるようになった。
 男はその最終段階の作業を行なうために隣の部屋に入った。隣の部屋は人格矯正処置を実行するための手術室である。一般の手術室と異なり、狭い部屋には犯罪者を固定するための椅子と人格矯正処置を行なう装置のみが置いてある。
 最終段階の作業とは、その処理を受ける人間が新しい人生を送るといった趣旨を伝えることである。
 それら一連のことを行なうのがこの男の仕事である。つまり、男は人格矯正の必要があると判断された犯罪者を新しい人間へと変えることのできる立場にある。
 いつの頃からか最後の瞬間を告げる人間として、この男のような人間は死神と呼ばれるようになった。
 死神と犯罪者の接する最後の時間は死神の抱擁としてGod embraceと呼ばれている。



 空気とは窒素と酸素の混合物である。それはいかなる場所でも同じであり、例外は無いだろう。だが、物理的、化学的にその構成は同じであっても、それの持つ性質が異なることがある。
 扉が数センチ開くと、そこから異様な空気が流れてきた。男はいつもこの異質な空気を感じる。何度同じ状況になっても決して慣れることのできない負の流動。その空気は人の神経系を麻痺させるかのように、男の胸を締め付ける。
 男はさらに数十センチ扉を開けると体をその内側へと入れた。
 先ほどの部屋より、やや薄暗かった。そこに入れられる人間の気持ちを落ち着かせるために、特殊な蛍光灯を使用している。男は椅子の方へ静かに近づいた。
 男は呼吸を整えると、椅子に座っているあるものに声をかける。
「どう? 起きてるかい?」
 椅子に座っているのは人である。体中を拘束具で固定され、目にはアイマスク、口にはマウスピースがはめてあった。束縛という言葉が、その状態を表すのに最も適した言葉であろう。そこにくくりつけられた人物は男の呼びかけに気づくと、わずかに動く首を縦にふる。
 まず、男は口にはめてあったマウスピースをそっとつかんだ。このとき別の人間には、かまれたことがある。その経験からつけられていた人間が違和感を感じないように、男はゆっくりと慎重にマウスピースを外しにかかった。
 作業が終了すると男は小さく息を吐き、いつの間にかにじみ出ていた額の汗を袖でぬぐった。一難去ってまた一難。その次にも極度の緊張を伴う作業が続く。
 次はアイマスクをはずさなくてはならない。作業自体は非常に簡単である。だが、そこにはとてつもない危険が潜んでいた。
 この椅子に拘束されている人間は大量殺人犯である。男はこれからそんな人間と向かい合わなければならない。それはただならぬ緊張と恐怖を伴う。本当に最悪な殺人犯ほどその雰囲気や殺気というものを奥に隠すことを男は経験から知っていた。ある瞬間にその雰囲気や殺気が漏れることがある。
 その雰囲気や殺気に心をのまれたことのある人間が言った。それは雪山に一人立っている自分に突如襲い掛かる雪崩れのようなもの、または何も無い静かな道路を歩いていたときに気が付いたら足元が無かったときのようなものであると。
 その人間は数日後に自殺した。男の先輩にあたる人物だった。
 男にはまだその経験は無かった。だが、その恐ろしさを理解しているつもりであった。
 目は口よりの多く語る時がある。その言葉を心の中で何回も繰り返す。それらに負けないようにするための、心の準備のつもりであった。
 準備が済むと慎重にアイマスクの端をつかむ。男はその言葉をもう一度口の中で繰り返すと、ゆっくりとアイマスクを外した。
 白い肌、整った輪郭。女であった。
 女は突如強度を増した光に対して、まぶたをきつく閉じた。やがて、ゆっくりと目を開ける。
 きょとんとした大きな目が現れた。栗色の大きな目だった。
 その瞬間はどこか遠くを見ていたが、ピントがあうと視線はゆっくりと男のほうへ向けられる。
 やがて、二人の目があう。
 消えてしまいそうなほどに脆い表情。こんな場所にいるのは、似つかわしくない外見であると男は思った。そして、女の真っ直ぐな視線に目をそらしたくなった。しかし、ここでそらしたら相手に自分のことを悟られてしまうかもしれないと思った。
 男は苦し紛れに、首を固定している拘束具をゆるめた。
「ありがとう。少し楽になった」
 女はほほ笑んだ。その全てを見透かされてしまいそうな笑顔に男は寒気さえ覚えた。
「どうしたしまして」
 女に自分の表情が読み取られないように、後ろを振り返った。
 俺は何をあせってるんだ? こんな二十やそこらの女の子に。俺と十歳は離れてるんだぞ。それに相手は大量殺人犯。動揺しているのをみられたら、とんでもないことが起きるかもしれない。男は心の中でそうつぶやいた。
 男は気を取り直して女のほうを向き直った。一つ咳払いをすると声のトーンを落とした。
「これから、君は何が行なわれるのかわかってると思う。だけど、決して君の生命を奪うものではない。死刑制度は八年前に完全に廃止されている。君個人の感情の一部をゲノム情報を上書きすることによって、少し操作させてもらうだけだ。人格矯正処置なんて言われているけど、治療といったほうが適切だ。心の治療だ」
「私は消えてしまうの?」
 女は目を大きく見開いて静かに尋ねる。
「その表現はあまり正しくないな。ただ、君がいままでの君であったということを忘れてしまうだけだよ。だから、君という人格が消えてしまう訳ではない」
「ふうん」
 女は小さな口を尖らせる。その表情はどことなく憂いを帯びた顔であった。
「私なんて無くなってしまえばいいのに」
 男にはその意味が理解できなかった。
「でも、私は今までの私じゃなくて、もっといい人間に生まれ変われるんでしょ?」
「どんな人間がいい人間かなんてわからない」
「そっか。いろんな人が私のことを気にしてくれるといいな。私はいろんなことに気持ちをそそげる人間になれればいいな。そうすれば、誰もが私の味方になってくれるよね」
「そうだな。それにきっとなれるよ」
 女はどこか遠くを見るように視線をさまよわせた。すると、部屋の隅にあったシランの花が目に入ってきた。花言葉が”お互いを忘れないように”であるその花は、生気を帯びた鮮やかな紫の花びらをいっぱいに広げている。女はその花とその花言葉を知っていた。気品と艶やかさに満ちたその紫の花は、女の脳裏にさまざまな記憶を蘇らせた。映画のワンシーンのように流れていく記憶は、決して楽しいものではなかった。
「じゃ早くやってほしいな。こんな感情をずっと持っているのは、もう疲れたよ」
 女はそう言うとゆっくりとまぶたを閉じた。その顔は眠りにつく赤子のように安らかで優しい表情であった。男が今まで見てきた中でこういう状況は初めてだった。
 男は装置の最終確認にとりかかった。
 (なるほどね。もう自分でいることを拒否していたのか。だから、人格が死ぬことに恐怖を感じてなかったのか。前例のないタイプだな。普通の犯罪者達の中で、どう説明してもその恐怖から逃れることのできる人間はいなかった。もっとも、普通はそれが当たり前だと思うけど。俺だってそうだよ。死刑制度は無くなったといっても、完全に死刑と同じだ。死ぬのは、自分がいなくなってしなうのは誰だって怖い)
 男は床に伸びている二本のプラグを手に取ると、お互いの接続部を結合させた。それは装置と女の精神が接続されたことと同等のことであった。接続がなされたことを示すグリーンのライトが点灯すると同時に、頭上から女が声をかけてくる。
「ねぇ。あなたが今の私と話した最後の人になるね」
「最後の人間がこんなさえない男で残念だったな。でも、これからのことはどうにでもなる。君はまだ若いから」
 女の口から小さな笑い声が漏れた。
「そうかな? じゃ、そうするよ。今の私ではできなかったことをやってみたい」
 普通の犯罪者であればここでは、自分を消されることの恐怖から拘束具が外れんばかりに暴れたり、大きな声でわめき散らしたりする。今までで最悪だったのは舌をかんで、自殺した例だった。
 今回はそれらに比べれば遥かに楽な作業であると男は思った。
 しかし、今回は自分の方に不具合があった。
「おいおい。しっかり、やっておいてくれよ」
 疲れた口元からひきつった笑いがこぼれた。接続が正常になされたことを示すグリーンの発光ダイオードが消灯し、、コリジョンを示す赤の発光ダイオードが点灯した。男のその小さな嘆きは、事が上手くいっていないことを表していた。
「どうかしたの?」
「いや、こっちにちょっとしたミスがあってな、そうだな準備に後四十五分から一時間くらいかかる」
 男は片目を閉じながら、申し訳なさそうに言った。
「じゃ、私はまだ後一時間くらいは私なんだね」
「ああ、できるだけ急ぐからそのままで少し待っててくれ」
 男はシステムの変更をするために隣の部屋へ戻った



 数分後、男は手に二つのコーヒーカップを持ってきて部屋に入ってきた。
「申し訳ない。装置に不具合があった。システム変更が必要になる。今から一時間十二分かかるみたいだ。プログラム任せだから、ただ待っいるだけでいいのだけど」
 男は女の片腕の拘束具をはずす。そして、片方のコーヒーカップを差し出す。
「そうなんだ。いいよ、別に」
 女は声のトーンを一つ落とした。コーヒーを一口すすり、一つ間を置くとゆっくりと口を開いた。
「私にとっての最後の一時間。何をすればいいのかな? あっ、でもこうしてるしかないのかな」
 女は目線を下に落として少し微笑んだ。少しすると何か思いついたように男の顔を見上げる。
「ねぇ? あなただったら自分の最後の一時間何をしたい?」
「俺? そうだな」
 男は近くの壁に背をつけた。腕を組み、色々と考えをめぐらせてみる。しかし、結局今自分がしたいことが思わず口から出てしまった。
「寝てたいな」
 女は予想もしない答えに思わず笑ってしまった。
「なにそれ?」
「そうか? おかしいかい?」
「おかしいよ。だって、ひひっ」
 女は思い出したようにまた笑い出す。男は少し馬鹿にされているように思えて、少しむきになって言った。
「じゃ、君は何がしたいんだよ」
「ん? え、私?」
 女は突然の質問に戸惑い考え込む。
「そうね……私の大好きなチョコレートケーキをもういいってくらい食べていたい」
「それって、俺と同じレベルじゃないか」
「そうかな?」
 女はコーヒーを一口だけ口に含んだ。優しい香りが鼻から抜ける。コーヒーを喉に流し込むと、まだ残っているカップの中の液体を見つめた。砂糖とミルクの量をおさえたコーヒーは、甘い物が好きな女には少し物足りなかったがドリッパーを使って入れられており、豆の香ばしい香りと高級感のある苦味は女の気分を落ち着かせるのに大きな役割を果たした。
「でも実際にその立場にたたされてみると違うかもしれない」
 男は言葉を失った。自分にはそのシチュエーションはありえない。だが、この女にとってはそのシチュエーションは現実に今起きている。自分が確実に消えて無くなってしまうまで、後一時間。男は自分だったら正常な精神でいられないと思った。
「こうなるってわかっていたら考えておけばよかった」
 女はそっけなく言った。そして、再び穏やかな表情でカップの中の液体を見つめた。
 その姿を見て、男は胸が痛くなった。
 自分達のミスによって、作り出された残酷な時間に罪悪感を覚えた。まるで、自分がこの女の命の権利を握っているように思えた。
「あのな。こうなったのも俺達の責任だから、それなりのことなら叶えてあげられるかもしれない。何かあったら言ってくれれば……」
 女は何も言わずにコーヒーを一口含んだ。時間をかけてのどに流し込むとゆっくりと口を開いた。
「私が今の私でいられるのは後一時間。その後は誰も今の私のことを知らないことになるんだよね。だったら、あなたに今の私が存在していたことを覚えていて欲しいな。こんな私でもこの世界にいたんだって」
「わかった。とても大切なお願いだ。でも、どんなことを覚えておけばいいんだろ?」
 女は栗色の目を男の目にゆっくりと合わせる。
「じゃあ。後一時間の間、私が今の私でいた頃の話を聞いて欲しいな」

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