キーファがいなくなってからというもの、グランエスタード城は灯りが消えたようだった。 無鉄砲で自由奔放でも、明るくて賑やかで夢を一途に追っていたキーファ王子は、確かに城内の人間の心に光を与えていたのだろう。 皮肉にもその性質こそが、彼をこの地から永遠に奪ってしまう原因となったのだが。 「リーサ様、なにか召し上がって下さい。そのままではお体を…」 「…ごめんなさい。何も食べたくないの……」 扉の向こうから聞こえた弱々しい声に、給仕係の女性は溜息をつく。 暫くその場にとどまっていたが、やがてその場を後にした。 「お兄さま…」 リーサは真っ赤に腫れている瞳から、もう幾度と無く流した涙を零した。 城内に覇気の無い原因は、もうひとつあった。 キーファがいなくなったことによって、もう一人の灯りをともす者であったリーサ姫の光すら、奪われてしまっていた。 兄に比べてその光は弱かったものの、無垢で優しいその笑顔は見るものを幸福にさせる力が確かにあったのに。 今は、哀しみで覆われてしまっている。 枕に突っ伏すリーサの艶やかだった金の髪は乱れ、食欲が無い為にもともとほっそりとしていた身体は更に痩せていた。 何かを求めるように枕元の縫いぐるみを抱き締める。 不意に、扉を叩く音がした。 リーサは苛立ったように掠れた声を上げる。 「食事ならいらないって…」 「リーサ様、アルスさん達がお見えになっています」 びく、とリーサはその小さな肩を震わせた。 先程よりも力を込めて、縫いぐるみを抱き締めた。 かわいいウサギの縫いぐるみ。 いつか彼女の兄が城を抜け出して誕生日プレゼントだと買って来てくれた、彼女のたからもの。 「会いたくない!帰って!」 リーサはありったけの声を振り絞って叫んだ、つもりだったが、それは実に弱々しい声だった。 だが扉の向こうには伝わったようで、何やら問答する声が聞こえた後、去っていくいくつかの足音が聞こえた。 「ごめんなさい…ごめんなさいアルス……」 幾筋も幾筋も涙を流しながら、リーサは何度も謝罪の言葉を続けた。 「キーファのやつ、自分がいなくなったらリーサ姫がああなるってことくらい想像できなかったの?!あんたもよ、アルス!」 城を出た途端、マリベルがその勝気な瞳をアルスへ向けた。 「だって…」 「何がだってなのよ!あんたがとめてればキーファは行かなかったかもしれないじゃない」 「…僕が止めてても、きっとキーファは行ったと思うよ」 「そんなの判らないでしょ!」 いつになく真剣な瞳でアルスに怒鳴りつけるマリベル。 それを困ったような哀し気な顔で受けるアルス。 ガボもリーサの哀しみを敏感に感じているのか表情を雲らせていて。 メルビンだけが、おろおろとしていた。 「今からでも連れ戻しに行けないの?!」 キーファがいなくなったことを告げてからも暫くは、リーサはアルス達に姿を見せていた。 彼がとどまった場所、ユバールでの話や、他の色々な冒険の話を聞きたがって。 面白おかしいその話に、笑顔さえ見せた。 しかし、ある日突然彼女は顔を見せなくなってしまった。 アルスの顔を見るとお兄さまを思い出して辛い、と。 恐らく実感が沸いていなかったのだ。 きっとキーファはいつか帰ってくる。彼女はそう信じていたのだろう。 しかし、アルス達の話を聞いているうちにそれはありえないことなのだと理解してしまった。 実感して、それは確信に変わって。 「無理だよ、連れ戻すなんて。探し回れば会うことは出来るかもしれないけど…」 そこまで言いかけて、はっとアルスは口を押さえた。 「いや、会うのも無理だよ。だってどこにいるかだって想像も」 あわててそう言い直したが、既にマリベルの姿はそこには無く。 兵士を押しのけて城へ入って行く後姿だけが見えた。 「アルス殿、追わなくて良いのでござるか?」 「……」 アルスは、ただ溜息をつきながら頭を押さえた。 マリベルがどこへ向かったのかは判っていた。 だからマリベルが半ば引きずるように引っ張ってきた人物を見ても、やっぱり、としか思わなかった。 「アルス、さっきはごめんなさい!お兄さまに会えるってほんとうなのっ?」 泣きはらした瞳の、キーファと同じ色の髪をした少女。 顔を見るのは久しぶりだった。 マリベルが着替えさせたのか、いつものドレスでは無く軽装である。 と言っても、やはり一目で安物では無いと判ってしまうのだが。 期待いっぱいの眼差しで見つめられたアルスはどう言葉を返したものか判らず、困った顔でマリベルを見ると睨み返されたので、なんとか笑顔を作ってリーサに問いかけた。 「お城を抜け出しちゃって大丈夫なのかい?」 キーファに接する時と同じように自分にも敬語はいらない、というリーサの願いで、周りに城の者が誰もいない時には普通の友達に話すように接している。 「リーサ姫を元気付けるのよ!文句ある?って言ったら誰もとめなかったわ」 リーサの代わりに得意そうに答えたマリベルを引き寄せ、アルスは耳打ちする。 「どうするんだよ。会えなくてぬか喜びさせたなんてことになったら、ますます落ち込んじゃうかもしれないじゃないか」 「そうならないように頑張りなさいよ!」 「頑張るって…」 ひそひそ話をする2人を、リーサは不安な面持ちで見ていた。 半信半疑で来たものの、アルスの表情からすると会えない可能性が高いようだ。 「リーサあ、元気出せ」 心配そうに自分を見上げるガボに、リーサは微笑もうとしたが、笑えなかった。 みるみるうちに視界が滲んで、ガボの姿がぼやけて見えた。 メルビンは自分がまるでキーファの代わりのように仲間に入ってしまっているのを申し訳なく感じていたから、リーサに声をかけることが出来なかった。 「ちょ、ちょっとアルス、なんとかしなさいよ」 泣き出してしまったリーサを見て、アルスとマリベルは言い争いをやめる。 「なんとかって…。あのさ、リーサ姫。会えるかどうかは判らないんだ。会えない可能性の方が高いけど、でも、もしかしたら会えるかもしれない。それでも、行く?」 リーサは力強く頷いた。 ほんの少しでも可能性があるなら、行ってみたい。 リーサの意思を確認したアルスも覚悟を決め、マリベルと顔を見合わせて頷いた。 まずは駄目でもともと、最初にユバールの民と出逢った場所へ行ってみることにした。 大きな神殿、不思議な石版。見たことも無い場所。そしてモンスター。 リーサは恐怖よりもまず驚きと好奇心の方が強くて、声も出ずただただ目を丸くしていた。 ユバールの民の集落があったその場所にはやはり何も無く、火を焚いた名残が僅かにあるだけ。 「リーサ姫、大丈夫?」 もちろんモンスターには指1本触れさせないように皆で守ってきたが、険しい野道は彼女にとって辛いものだろう。 そう思ったアルスはリーサに声をかける。 「うん、だいじょうぶ。お兄さまはこんな冒険をしてきたのね…」 羨ましいな、とリーサは言った。 やはりキーファの妹なだけあって、どこかで度胸が座っているのかもしれない。 周りをくまなく探しても何も見付からず、仕方が無いと一行はまた現代へと戻った。 そして一行の動きは止まった。 そう。ユバールと出逢った場所以外に、一体どこへ行ったらいいのか見当も付かないのである。 それに、ろくに食事を取っていなかったリーサ姫は誰が見ても判るほど疲労していた。 「過去のユバールと近い年代のところをまず調べて…それからその場所で片っ端から聞いてみるしかないのかも」 捜せば会えるかもしれない、なんて軽く考えていたが、それは本当に難しいことなのだとアルスは痛感していた。 「やればいいでしょ。出来ないの?」 「毎日時間をかけて、何年もじっくりと捜し回ればもしかしたら見付かるかもしれない、ってことだよ」 アルス達は、あてもなくブラブラと旅をしているわけではない。 ちゃんと目的がある。この世界を平和にするという。 つまり、毎日時間をかけてじっくり、という方法は、現時点では不可能なのだ。 少し考えれば判ることだった。 でも、アルスだって会いたかった。マリベルも、ガボも。キーファに。 その気持ちが、冷静に考えるということを忘れさせてしまった。 「…じゃあ、どうするのよ」 「どうしようもないよ…」 リーサは座りこんで柱に寄りかかり、足をさすっている。 それをガボとメルビンが心配そうに見ていた。 「…とりあえず、今日はどこかで休もう。リーサ姫も動けないみたいだし」 今日はマリベルの勢いでリーサを連れ出せたものの、今グランエスタード城へ戻ればリーサが連れ戻されることは必至。 同じ理由でフィッシュベルにも行けない。 「あたし、リートルードに行きたいわ」 言うがはやいか、マリベルはさっさとリートルードへの石版のもとへ行ってしまった。 アルスはリーサのところへ行き、落胆を悟られないように声を掛ける。 「リーサ姫、立てる?」 「うん」 アルスの差し伸べた手を取って、リーサはゆっくりと立ち上がった。 「わあ、面白い建物がたくさんあるのね」 少し休んで気分が良くなったのか、リーサは不思議そうな顔をしながら町の奥へと入っていってしまった。 「リーサ姫行っちゃったわね…。あたし達は宿取ってくるからアルス、あんたリーサ姫捜して連れてきてよね」 「え、一人で?」 「なによ、リーサ姫捜すの嫌なの?」 「いや、そうじゃないけど…」 「じゃあ行ってきてね」 マリベルはアルスの背中を強引に押すと、戸惑うメルビンとぼけっとしたガボを連れて宿へ向かっていった。 そう広くも無い町だから、捜すのにそう時間はかからないだろう。 そんなことを考えながら歩き出すと、案の定すぐに聞き覚えのある声が聞こえた。 「これ、とっても綺麗だわ。これいただける?」 その言葉に、アルスは思った。 リーサはお金を持っているのだろうか? 嫌な予感がして、急いでその声のもとへと向かう。 「リーサ姫!」 「あ、アルス。見てみて。これ、小さくて綺麗でしょ。小指専用のリングなのですって」 リーサの右手の小指には、凝ったデザインの指輪がはめられていた。 確かに野良仕事も水仕事も知らないリーサの白い手には似合っていたが、それは今はどうでもよい。 アルスは店員に聞こえないように囁いた。 「リーサ姫、お金持ってるの?」 「え?いつものようにお城に請求してもらえば…あ!」 やっぱり…とアルスは思った。 「ご、ごめんなさい。仕組みはよく判らないけど、ここではそれは駄目なのよね?」 すまなそうな顔でその指輪をはずし、店員に返そうとしたリーサをアルスは止める。 「いいよ。買おう。リーサ姫の初めての冒険の思い出に」 「えっ?でも…」 リーサが何か言う前に、アルスはリーサから指輪を預かるとさっさと清算を済ませてきてしまった。 「はい」 笑顔で差し出された小さな箱を、リーサは遠慮がちに受け取った。 「ありがとう。お城へ戻ったらお金…」 「いらないよ。これは僕からのプレゼントだから」 「プレゼント?ほんとう…?……ありがとう」 リーサはその日、初めて笑った。 本当に久しぶりの笑顔だった。 庶民の食べ物で大丈夫かと一同はヒヤヒヤしていたが、リーサはあっけなく食事を口にした。 そういえばパンてこんなに美味しいものだったのね、とリーサは思う。 ここ最近は何を食べても味のしない毎日だったから。 でも今日は、味を感じることが出来る。 それは皆と一緒だからだろうか? キーファもきっと、こんな暖かい気持ちで旅を続けていたのだろう。 リーサが食事をたいらげるのを、アルスも、マリベルも、ガボも、メルビンも、嬉しそうに見ていた。 「ん…」 宿のベッドの中で、リーサは目を開けた。 窓からは月明かりが漏れていて、まだ夜中のようだった。 もう一度眠ろうと目を閉じたが、どうも寝付けない。 グランエスタード城以外で眠るのが初めてということもあるかもしれない。 リーサは横で気持ち良さそうに眠っているマリベルを起こさないように、そっと部屋を出た。 廊下を歩くと、少し軋む音がする。 ふと自分の歩幅とは違う軋みを聞いた気がして、リーサは足を止めた。 軋む音は止まず、やがて前方に人影が現れた。 心臓がドキドキしてその場から逃げ出すことも出来ず、きゅっと目を瞑る。 「あれ、リーサ姫?」 その声に瞳を開く。 「あ、アルス…」 リーサはほっと息を吐いた。 「どうしたんだい?こんな夜中に」 「なんか目が覚めちゃったの。アルスは?」 「あ、僕はトイレに行ってきたんだ。…眠れないなら、散歩でもする?一人だと危ないから僕も付いていくけど」 「うん、行きたい」 嬉しそうな顔で、リーサは頷いた。 いつも賑やかなこの町も、今はしんとしている。 空には綺麗な三日月と、満天の星。 「あのね、アルス…」 暫く黙ってアルスの横を歩いていたリーサが、おもむろに口を開いた。 「今日はほんとうにありがとう。でも…明日はお城に帰りましょう」 その言葉に、アルスは驚いて振り向いた。 「お兄さまを見付けるまで絶対に帰らない」とリーサは言っていたから。 「難しいのよね?お兄さまにお会いするのは。そうなんでしょう?」 否定することも出来ず、アルスは頷く。 「私ね、ちょっとだけだけど皆と冒険して、ドキドキしてワクワクして…きっとお兄さまもこんな気持ちだったんだろうなって、そう思ったの。あんな窮屈で退屈なお城…逃げ出しちゃって当然だよね」 勝手にいなくなった兄を恨めしく思うこともあった。 兄を止めなかったアルスを恨めしく思うこともあった。 でも、確かに今日という日はリーサにとって忘れられない日となっていた。 とても楽しくて、暖かかった。 「キーファは…グランエスタード城を窮屈で退屈だなんて思っていなかったよ」 アルスの真剣な声色に、リーサは顔を上げる。 「いつもお城のことを気にかけてたし、いつも君のことを心配してた」 「だったら…!!」 どうして、とリーサは叫びそうになった。 せっかく腫れのひいた瞳から、また涙が零れそうになる。 アルスに言っても仕方ないことだ、そう判っていても感情が抑えられない。 いよいよまぶたに涙が溜まり始めた時、リーサははっとした。 アルスが、泣いている。 リーサに顔を向けていなかったけれど、でも、涙が頬をつたった跡が月の光で光って見えた。 兄以外で自分より年上の、それも男の人が泣いているのを見るのは初めてで、リーサは戸惑う。 「ごめん…僕もキーファと会えなくなるのは辛かったし、君が哀しんでいるのを見るのはもっと辛いけど、でも…キーファをどうしても止められなかった。キーファはいつも輝いていたけど、あの夜…ユバールに残ると言った時のキーファは自分の道を見付けて眩しいほどに輝いてた。その光を……僕には消すことが出来なかった」 ああ、アルスも哀しんでいるんだ、兄のことを。 そして哀しんでくれているんだ、自分が哀しんでいることを。 「ありがとう、ありがとうアルス…。私、もうお兄さまのことを哀しんだりしないから……強くなってみせるから…だから泣かないで」 リーサの涙は、いつの間にか引っ込んでしまった。 「私も…私もね、アルスが哀しんでいるのを見るのは辛いの…」 一生懸命にアルスを慰めようとするリーサに、アルスは涙目のまま微笑んだ。 その顔を見て、リーサも花のような笑顔を見せた。 まだ完全に戻ってはいないけれど、それは確かに城内に光をもたらしていた頃の、顔。 「それじゃ、お休み」 散歩が終わり、アルスに部屋まで送り届けられる。 「おやすみなさい、アルス…」 さっと掠めるようにリーサはアルスの頬に口付けをして、あわてて部屋へ入ってしまった。 後には、真っ赤な顔で頬を押さえるアルスの姿があった。 「リーサ姫!」 「リーサ!心配しておったのだぞ!」 翌日、グランエスタード城に現れた一行は、案の定玉座まで強制連行された。 「ごめんなさい、お父さま。私、どうしても行きたくて…。お願い!私はどんな罰でも受けます。アルス達に罰は与えないで下さい!」 「そんな。いえ王様、リーサ姫を強引に連れ出したのはあたしです。どうか公平な罰をお与えください」 「マリベル!だめよ!」 「そうです。連れまわしたのは僕達ですから」 「アルス…!」 玉座の前でぎゃんぎゃんとわめきたてる子供達に、バーンズ王は苦笑した。 「…もうよい。マリベルの言葉通り、確かにリーサは元気付けられたようだ。それに免じて、今回のお咎めは無しということにしよう」 「…お父さま!」 リーサ姫は嬉しそうな声を上げてバーンズ王に抱きついた。 それを愛しげに見下ろすバーンズ王と、微笑ましく見守る家来達。 まだまだ淡い光ではあるが、それは城内を照らす灯りとなっていた。 「アルス、あんたリーサ姫のこと好きなの?」 「えっ、な、なんで?」 マリベルの突然の質問に、アルスは動揺する。 「だってさっき別れる時もなんか見詰め合っちゃって2人の世界って感じだったし、今だって物足りなそうな顔しちゃって」 そうだっただろうか。 アルスは顔を赤くした。 それを見たマリベルは、意味深に笑う。 「あんた達が昨日、夜のデートしてたのも知ってるのよ」 「う、うそっ!」 「本当よ。ね、メルビン」 その言葉に、メルビンも頷いた。 「メルビンまで…」 助けを求めようと残りのメンバーを見るも、ガボには話の内容など判る筈も無く。 「前から怪しいと思ってたのよね。あんたリーサ姫にはやたら優しかったし。今日はじっくりと話を聞かせてもらうわ」 「わしも興味津々でござる。身分違いの恋、風流ですな」 「あ、あの…」 2人の気迫にアルスは逃げることも出来ずに、ずるずるとフィッシュベルへ引っ張られていった。 きちんと整えられた、可愛らしい部屋には少女が一人。 ウサギの縫いぐるみに問いかける。 「『君が哀しんでいるのを見るのはもっと辛い』って、アレ、どういう意味かな。告白だったのかな…?どう思う?お兄さま」 何も答えないウサギを見つめながら、少女は桜色に頬を染めた。 「リーサ様、お食事の時間です」 「今行くわ」 リーサはウサギを大事そうに置くと、はめていた指輪を嬉しそうに眺めてからそっとはずして隣に丁寧に置いた。 それは彼女に出来た、もう1つのたからもの。 |