「はあ…」

いつも穏やかな天気の飛空都市にしては珍しく、陽射しの強い日。
ロザリアは薔薇色の頬を更に上気させ、汗ばむ額を拭った。
背筋は丸くなり、足下もおぼつかず、苦しそうに目を瞑り、呼吸も心なしか荒い。
その疲れた姿はいつもの彼女からは考えられないものであったが、今日は特別にハードな一日であったのだ。

まず、ロザリアは昨夜ろくに寝ていなかった。ルヴァに借りた本が面白くて、つい朝になってしまったのだが、そんな理由で寝坊するわけにはいかない。彼女はいつも通りに起き、アンジェリークも起こしに行った。
そして朝一番に本を返し、そのまま王立研究院へ向かう。大陸に降りた後、民の要求に満たないサクリアの育成の依頼に、また聖殿へ行くが、育成を頼むべき守護聖の姿が見当たらない。公園の噴水と飛空都市の様々な場所を往復し、やっと聖殿に帰ってきたところを捕まえ、育成の依頼をすませた。
帰りにアンジェリークと会い、お喋り兼散歩に付き合わされる。占いの館と公園に引っ張りまわされた挙句、アンジェリークはお気に入りの守護聖を見付け「じゃあね」と、去っていった。公園を出ようとした時に声をかけられ守護聖の落とし物を預かるが、その落とし物は誰のものなのか見当も付かない。ロザリアは今日四回目の聖殿の門をくぐり、守護聖達に訊きまわった。
そしてやっと持ち主に届け、聖殿から出て来たのだ。

今日だけで何日分歩いたことか、というのは言い過ぎだろうか。
だが彼女が何日分も疲れていたことは確かだ。

「ちょっと……疲れ…ましたわ…」

加えて寝不足から来る体調の悪さで、ロザリアは今日は朝から何も口にしていない。
そして強い陽射しでいつも以上に体力を消耗する。
彼女の身体は切実にエネルギーと休息を欲していた。

(わたくしとしたことが……)

「あっロザリア!どう?頑張ってる?」

「やあ、ロザリア」

急に声を掛けられて驚いたロザリアだが、そんな様子は微塵も見せず、模範的笑顔で振り向いた。

「まあ、ランディ様、マルセル様、ごきげんよう。ええ、絶好調ですわ」

丸まっていた背中をしゃんと伸ばし、おぼつかなかった足元はしっかりと地面を踏みしめ、いつもと変わらぬ優雅な立ち姿でロザリアは答える。
たった今まで倒れそうな程疲れていた者とは思えない、見事な様であった。

「ははっ君らしいな」

「僕達いつでも力になるからね。じゃあバイバーイ!」

二人が見えなくなるのを見届けると、ロザリアはほうっと溜め息をつく。
幸い、彼らは何も気付かなかったようだった。

『疲れた時にはねえ、守護聖様の所で休ませてもらうの』

そういえば、アンジェリークがこんなことを言っていた覚えがある。
ロザリアにも、少し休ませて欲しいと言えば快く、それどころか歓迎してくれる守護聖もいる筈なのだが、彼女のプライドがそれを許さなかった。

(疲れた姿なんて、絶対に見せられないわ)

だが、自分を取り繕うのも限界だ。今度誰かに会えば見られたく無い姿をさらけ出すことになってしまうかもしれない。
早く帰らなければ。しかし今いる聖殿と帰るべき寮は、この身体で帰るには少し距離があり過ぎた。
遥か彼方にぼやけて見えるのは、寮の赤い屋根だろうか。
そこまで歩く気力も体力も、ロザリアには残っていないようだった。

(そうだわ、森の湖なら)

あそこなら、ここから近いし、誰もいないかもしれない。
例え誰かいたとしても、樹や草の陰で気付かれずに休むことが出来るかもしれない。
ロザリアは最後の気力を振り絞り、森へと向かった。



*



森の湖は人の姿も無く静かで、滝を流れ落ちる水の音が耳に心地よい。

(よかった…誰もいないわ)

ほっとした瞬間、足元はふらつき、痛みを増していく。
太陽はジリジリと容赦なく彼女を照りつける。
ロザリアは堪らず、木陰に倒れこんだ。

「はあ、はあ、はあ…」

まるで身体全体が心臓になってしまったよう。
折角の水のせせらぎも、頭に響く激しい動悸で彼女には聞こえない。
だから、自分に近付く足音にも気付かなかった。

「おい、大丈夫かよ」

不意に掛けられた言葉に、ロザリアは驚いて顔を上げる。
いつの間に来たのだろう。何やら荷物を背負ったゼフェルが自分を見下ろしていた。
とっさに立つ体力も無く、それでも精一杯取り繕った笑顔で何とか答える。

「ごきげんよう、ゼフェル様。何でもありませんわ」

もうバレバレなのに。プライドが邪魔をして、助けを求めることも出来ない。

「何でもねーって…」

笑顔を崩さないロザリアを見てゼフェルは小さく溜め息をついた後、持っていた荷物から小さめのペットボトルに入ったミネラルウォーターを取り出し、蓋を開けた。

「ほら、飲めよ」

「えっ…」

ロザリアは戸惑った。この鋼の守護聖とは最近やっと普通に話をするようになった程度で、特に仲が良いというわけでもない。
会うのも育成の依頼の時ばかりであったし、怒鳴りつけられることも多くあった。
そのゼフェルが自分に、しかも好物のミネラルウォーターを差し出すなんて。
躊躇するロザリアに、ゼフェルが言葉を続ける。

「まだ口付けてねーから大丈夫だぜ」

そういう事では無いのだが。だが自分の身体は確実にそれを欲している。

「……有難う…ございます」

ロザリアは素直に受け取り、一気に流し込んだ。
乾いた身体に冷たく清らかな水が浸透し、正に生き返るとはこういうことだろうか。
ボトルから直接、その上いっぺんに沢山飲むなんて、とてもはしたない行為なのだが、今のロザリアには、そんなことを構っている余裕など無かった。

「おいしい…」

飲み終わった後も、しばらく全身を巡る透き通った感覚に浸る。

「だろ?いつもうめーけどよ、疲れた時には特にイイんだぜ」

ゼフェルは満足気にそう言いながら空になったペットボトルを受け取ると、ロザリアの隣に座り込んだ。

「ったく、おめーって本当にハンパじゃなく頑張んだな」

いつもとは違う、優しささえ感じさせる彼の声に、またロザリアは戸惑う。
この動機は疲れの為か、それとも

「当然ですわ。努力無くして女王になることなど、ありえませんもの」

なんとか平静を装い答えるロザリアに、ゼフェルは笑う。

「っと、スゲーよ。おめーって」

(笑った…)

初めて見る彼の笑顔に、ロザリアは三たび戸惑う。
…顔が熱いのは、きっとこの夏のような陽射しのせい。

(わたくし、何だか変)

「よっと…」

少しの沈黙の後、ゼフェルは立ち上がると、その荷物の中から何かの機械を取り出し、湖に設置し始めた。

「何をしてらっしゃるのですか?」

ロザリアが訝しげにそう訊くと、ゼフェルは悪戯な瞳を彼女に向ける。

「イイモン見せてやるよ」

行くぞ、と言ってスイッチを入れると、ポンプが湖の水を吸い上げ、機械の先端から霧状の水が優しく涼しげな音を立てて飛び出した。
そして現れた、弓の形をした七色の光の帯。

「虹…!」

「ヘヘ、成功だ。今日くれー陽射しの強い日じゃねーと、こうはいかねーんだぜ」

ゼフェルが得意気に笑う。

儚げで繊細で、でも目を奪われずにはいられない大きな存在感を持った、美しい光達。
それは何もかも包み込み溶かしてくれるようで。
今日の疲れも。
くだらないプライドも。

(ああ…)

「綺麗…」

「だろ?ここじゃ滅多に見れねーからな」

それ以降、何も言葉は交わさず、二人はずっと虹を見つめていた。
いつまでも見つめていた。



*



「ここでいいか?」

寮の前につくと、そう声を掛けられた。

「あ、」

お茶でもいかがですか?とロザリアが言うよりも早く、ゼフェルが口を開いた。

「今日はもう、部屋に戻ったらすぐ休めよな。余計なことすんじゃねーぞ」

「え、あっ…は、はい」

彼が、自分の身体を気遣って、部屋に上がらずに帰ろうとしてくれているのだと気付く。

(ゼフェル様ってこんなにお優しい方だったのね)

彼のことを誤解して、よく知ろうともせず苦手に感じていたことが恥ずかしかった。
自分を知ってもらえない辛さは、彼女が一番よく判っていることであったのに。

「ゼフェル様、今日は本当に…有難うございました」

「ん、ああ」

ぶっきらぼうな返事。でも今は不思議と暖かい。

「じゃ、オレはもう帰るぜ」

「はい。…さようなら、ゼフェル様」

まだ別れたくは無いけれど、いつまでもこうしてる訳にもいかない。

「おう、またな」

手を挙げ立ち去る後ろ姿が、せめて見えなくなるまでは。
そんな想いで見送っていると、ゼフェルはまだ歩き出して数歩の所で足を止めた。

「ゼフェル様?…どうかなさいまして?」

「…あのよ」

「はい?」

ゼフェルがロザリアの方に向き直る。

「おめーのことだから…どうせまた無茶すんだろ?そのくせ、疲れたところは人に見られたくねーんだよな。でもよ、オレはおめーのそんなトコ、もう見ちまったからよ、だから、今度疲れたら、その、……オレんとこに…来てもいいぜ」

思いも寄らなかった言葉に、ロザリアは驚いてゼフェルをまじまじと見つめる。
無言のロザリアに、耳まで真っ赤になったゼフェルは拗ねたような声をあげた。

「なんだよ、嫌だってのかよっ」

ロザリアは首を大きく横に振って

「いいえ、いいえゼフェル様。わたくし、少し驚いてしまって…とても嬉しいですわ」

ゼフェルは、ロザリアの言葉にホッとしたような表情を見せ、すぐに目を逸らした。

「…じゃーなっ」

「あ、ゼフェル様!」

首まで真っ赤にしたゼフェルは、逃げるように走り去って行った。

(ゼフェル様……)

胸の高鳴りも、染まった頬も、疲れや陽射しのせいにはもう出来なかった。



残されたロザリアが、ゼフェルの後ろ姿が見えなくなった後も暫くその場に佇んでいると、

「う、ふ、ふ〜」

不意に、聞き慣れた声がした。

(まさか…)

恐る恐る振り返ると、寮の入り口からこちらを見ているのは、正に。

「ア…アンジェ!」

驚き戸惑うロザリアに、アンジェリークは笑顔で声を掛ける。

「お帰り、ロザリア」

「お帰りじゃないわよ。あんたまさか聞いてたんじゃないでしょうね」

そう言うとアンジェリークはすまなそうな顔をして

「ごめん、聞くつもりは無かったんだけど、寮の前で大きな声で話してるんだもの。聞こえちゃったのよ」

確かに、自分が部屋にいてアンジェリークが誰かを連れてきた時、その会話が聞こえることがあった。
彼女の言ったとおり、聞く気が無くても聞こえてしまうのだ。
特にゼフェルも自分も、声は決して小さい方では無いのだから。

(…これから気をつけなくてはね)

「ロザリア…怒った?」

不安そうに自分を窺う親友を見て、ロザリアは優しい顔になる。

「別に怒って無いわよ。早くお部屋に入りましょう。あんた、暇ならお茶でも飲んでいく?」

アンジェリークは途端にいたずらっ子のような目つきになって、

「あっいいのかな〜そんなことして。ゼフェル様に言いつけちゃうわよ。ロザリアったらお茶も飲まずに帰ったゼフェル様の折角のお心遣いを無駄にして、わたしにお茶をご馳走しました〜って」

「だ、駄目よ!」

赤くなってうろたえるロザリアを見て、アンジェリークが吹き出す。

「やだ、冗談よ。ふふっロザリアったら可愛い♪」

「な…」

「それじゃ、お大事に〜」

アンジェリークはそそくさと部屋に入ってしまった。

「もう…」

怒ったような顔とは裏腹に、ロザリアの心はとても穏やかだった。



*



──── 一週間後

「ええっ!ロザリアまだ一回もゼフェル様の処に行って無いの?!」

「そんな事無いわよ。ちゃんとこの間のお礼もしたし、昨日は育成のお願いにも伺ったのよ。その時お話もしたわ」

「でも、休む為には行って無いんでしょ?」

「…だって、疲れないんだもの」

ロザリアはお嬢様育ちで運動こそ得意では無い。だが昔から寝る間も惜しんで女王になる為の勉強や立ち居振る舞いの練習をしてきたし、今でも優雅な物腰とスタイルを維持する為の毎日の努力はかかさない。そういう意味では鍛えられていて、体力も平均よりは上に位置することだろう。
あの日は、たまたま色々なことが重なったのだ。

「あんなに疲れることなんて、そうそう無いのよね」

「別に、ちょっと疲れたら行けばいいじゃない」

「何言ってるのよ!そんな失礼なこと出来るわけないでしょ」

「失礼って…」

ああ、真面目すぎるのだ彼女は。
アンジェリークは溜め息をついた。

(でも、ゼフェル様は休まず頑張るロザリアが好きみたいだし…しょっちゅう休みに行くよりはいいかなぁ…)

もう一度あんな日がこないかしら、なんて呟く親友を見ながら、アンジェリークはこの二人がうまくいく事を、ただ祈るばかりであった。







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