例えば遠い空の下


「半屋君は…どこか遠くに行きたくなる時ってない?」

八樹の突然の問いかけに、彼をずっと無視していた半屋が振り向いた。


半屋の定位置である工業科校舎裏のこの場所には、最近色々な人間がやって来るようになった。
それこそ数ヶ月前までは全くと言っていいほど、この場所に人は来なかった。
それは、半屋工という人物を誰もが恐れていたからだ。
しかし最近は…。


問いかけた八樹は、その内容とは全く合わない、穏やかな笑顔で半屋を見ていた。
八樹を良くは知らない女子生徒たちが大喜びして騒ぐ…あの笑顔だ。
その笑顔を見てしまった半屋は、何を問われたのか理解できなくなり…何も答えを返せなかった。


八樹宗長という名のこの男と話すのは、半屋にとって最も苦手な事である。
元々人と会話する事自体が相当苦手な彼ではあるが、相手が八樹となると、それは更に「苦手」という意識よりは「嫌悪」という感情に近くなる。
付き合いが浅い、というのもある。
そして認めたくはないが、一度は負けた人間だ、というのもある。
だが、何より彼の気分を害するのは、八樹と会話する理由、それが今のところ全て梧桐がらみであるという事実だった。
八樹という人間の存在自体が梧桐勢十郎という人物につながっている。
その事が彼の気持ちを揺るがせていた。


「俺はね、時々そう思う事があるんだ。」

八樹は何も答えない半屋の事など気にならないらしく、そのまま話を続ける。


気にならないのではない。
別に返答など期待してはいないのだ。
返答が欲しいというよりは、反応が見たい。
梧桐勢十郎が大切にする、半屋工という人間を知る為の実験だ。
梧桐の中で、「存在」として自分が半屋に負けている事。
その理由を知りたかった。


「例えばね、自分が剣道を始めた理由や、こうして人より強くなれた理由、今こうして半屋君と話している理由。
自分の行動の理由を一つ一つ考えてみると、全てが梧桐君につながっていく。」

梧桐の名が出た途端、半屋はあからさまに不快な表情を見せた。


八樹は楽しくて仕方がなかった。
何て分かりやすい。
梧桐の名前を出した途端に、この表情だ。

また梧桐君の話になったのが嫌なの?
それとも。
他人の口から梧桐君の名前が出た事自体が、嫌?

八樹は笑い出したくなった。

馬鹿みたいだ…。
君も…。
俺も……。

全ての事が馬鹿げてる。


半屋は八樹から目を逸らせた。
下らない、とでも言いたげな冷めた表情。
でもそんな物は八樹には通用しない。

ただ八樹を更に楽しませるだけだ。

「俺はそれを嫌な事だとは思わないけれど、でも時々思う事はある。
何処か遠くへ行ってしまえば、梧桐君の存在を自分の中から消し去る事が出来るのかな…とか。
梧桐君の存在が無くなったら、自分はどんな人間に変わるんだろう…とかね。」

その内容とはまた裏腹に、相変わらず八樹は微笑んでいる。
だが、今度はその笑顔に半屋がその内容を見失う事はなかった。


本当に下らない男だな。

半屋はそう嘲笑っていた。

梧桐に捕われる人間。
八樹はまさに、半屋の目にそう映る。

だが自分は違う。
八樹とは違う。

八樹はオレを同類のように、こうして話しかけて…。
そしてこの後問い掛けてくるつもりだろう。

君はそう思わないか、と。

下らない。
そう、もう一度半屋は嘲笑った。


「君はそんな風に思う事ってない?」

八樹はひどく楽しそうに、半屋に問い掛けた。

半屋は答えない、か。
もしくは、はぐらかすだろう。

だが今度は八樹の思い通りにはならなかった。
半屋は、答えた。

「何処に行ったって同じだろ…。」


八樹の心臓がドクリと鳴った。

実験は、予想通りの結果が得られなければならない物だ。
そうでなければ、研究者を困惑させるだけ。

八樹は自分らしくないと思う程、動揺した。
そしてもう一度胸の中で半屋の言葉を反復した。

何処へ行ったって同じ…。


「何処へ行ったって、自分は自分だろ。
梧桐と出会う前の自分に戻るわけじゃねえ。」

半屋はぶつぶつと愚痴るように言った。
危うく聞き逃すほど、小さな声だった。


ああ、そうか…。
君は止めたのか。
君は…諦めたのか。

梧桐君から逃げる事。
梧桐君の存在から逃げる事。

半屋を試す為に出したこの問いは、八樹がずっと抱いてきた気持ちでもあった。
今思えば、誰かに聞いてもらいたかったのかもしれない。
いや、ただ吐き出したかったのかもしれない。

自分の弱さを…。
自分のこの想いを…。

だが本当にそれは一方的なものだった。
別に自分を救う方法を教えて欲しいとか、共感してほしいとか、慰めて欲しいとか、そんな見返りは求めていなかった。

それなのに。
彼は答えた。
彼はこの想いを理解した。

彼を試そうとして、自分を知られてしまった。
その敗北が、八樹には何故か悔しくなかった。


「アイツに出会う前の自分には戻れねぇよ…。」

最後に半屋が呟いた、その言葉はもう八樹には届かなかった。


そこまで、言葉を吐き出したところで、半屋は我に返った。

何を言ってるんだ、オレは…。

八樹を負かしたその言葉たちは、自分の意志とは無関係にこぼれた物だった。

梧桐を忘れたい、などと半屋は今まで考えてみた事も無かった。
だがこうして問われると、自分はそれを諦めたような言葉を返していた。

自分がよく理解できない…。
忘れたいのか?
消したい…のか?

八樹が言ったように、自分も梧桐の存在のない世界に行ってみたいのだろうか。

知りたくない、認めたくない自分を見せられた気がして、半屋の心はぎしりと軋んだ。

そうして半屋は沈黙した。


二人の間には、再び会話が無くなった。
それぞれの中に、思考が篭ってしまったからだ。
その光景は他の生徒が目にすれば、冷たく険悪なものに見えた事だろう。

だが、偶然にもこの光景を目にした男には、そうは映らなかった。

「下僕達の密談は好ましくない」などと…。
そんな考え方をするのは、この世でこの男一人だけだろう。

その男が険しい表情で自分たちを見ている姿に、八樹だけが気が付いた。


梧桐君だ…。
梧桐君が見ている…。

何を?
誰を?

その答えを八樹は簡単に出した。
「自分と一緒にいる半屋」を見ているのだ。

半屋との会話に、意外にも穏やかになっていた八樹の心は再び揺れ動いた。

何故、そんなに険しい顔で。
半屋君が君のものだから?
半屋君と誰かが一緒にいるから、不服?

八樹は胸がきりきりと痛み出して、黒い思考に飲まれていった。

そうだ、当初の目的を忘れていた。
梧桐君が半屋君を自分より大切にする理由。
それを知りたかったんだ…。


八樹はまたあの笑顔を作った。

そんな八樹にも、梧桐の視線にも半屋は気が付かない。

八樹はその笑顔のまま、無駄のない動きで半屋に重なり、抵抗する隙をあたえずに…。
それでも驚くほどそっと、彼に接吻をした。


梧桐君が見ている。
梧桐君は見ているはずだ。

今度は梧桐を試そうと、八樹は半屋に口付けた。
梧桐の反応を探る為。
それは半屋を試すのと同じ実験であるはずなのに…。
八樹は半屋を試したときのような楽しさを感じはしない。

当然なのだ。
苦しいだけなのは。
痛いだけなのは…。

だが、今の八樹はその当然の事を見失っていた。
それほどに、彼の存在に狂わされていた。


何処か遠くへ行ったらなら…。
何処か遠くの空の下、何物にも縛られずに生きたのなら…。
こんなに苦しい気持ちにならずに済んだのか。
こんな自分にならずに済んだの、か。

それが例え半屋の言った通り、無駄な事であったとしても。
無駄な事と分かっていても。
それでも諦められずに、胸で燻るこの誘惑。

何処かへ逃げて楽になりたい。
それほどに苦しい。
苦しいんだ…。


この八樹ジェラシーっぷりはどうですかね…。
すみません…ウチの八樹が勝手に暴走したんです…。
私のせいじゃないんです(死)
本当は八樹だったらこんな弱さはさらさないとは分かってるのですが…。
ウチの八樹が何故か弱くてバカなんです…(苦笑)

この話は見ての通り続くのですが、何だかすごく長くなりそうです…。
長期連載なんてやってる場合か!(殴)
本当にあちこち続き物になっていてすみません(^^;)
続きが気になる〜と思ってくださる方は、次回も読んでやって下さいませv